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「あたらしい」が変えていくもの

 少し前に読んだ本『あたらしい無職』(丹野未雪)のタイトルについて、最近また気が付くと考えている。

 丹野氏は長年非正規雇用で編集職をやってきた女性で、39歳の時に雇い止めのため無職になり、それからの日々の記録(ハローワーク通いや再就職)を『あたらしい無職』という本にまとめた。本の中では特にタイトルの意味が説明されていなかったのだけれど、刊行記念の対談によれば、「お金はなくてもそれなりに楽しく過ごせているのに、世の中には無職であることに対して自虐的でいなければいけないような空気がある。それを刷新できたら」という意図でこのタイトルが付けられたらしい。

丹野:はい。世間一般では無職に対してみすぼらしいようなマイナスのイメージがありますが、実際のわたしはお金がないながらもけっこう楽しく過ごせてしまっていて。(中略)それに、自分で自分の時間を配分できるという前向きな状況にもかかわらず、なぜか自虐的でいないと許されないような雰囲気が感じられて、それがなんか嫌だなあと。

たしかに、雇用の流動化のためにあらたに無職にさせられている、という一面はあるんですけど、どこかから与えられたマイナスイメージみたいなものとはちょっと違う無職のありようがあるんだっていうのを出したい、刷新したいなと思って、「あたらしい」とつけるのはどうですか、と提案しました。

 丹野氏が言うとおり、無職というのはこれまで、限りなくネガティブな言葉だった。仕事をしていないというだけであらゆるネガティブなステレオタイプと偏見が付いてまわり、そのせいで当事者も強い恥の意識と罪悪感を抱いてきた。
 だが、不況やコロナ禍、そして雇用の流動化によって誰にとっても無職の状態が身近になった今こそ、その意味を塗り変えるタイミングなんじゃないだろうか。

 いまや誰だって無職になる可能性がある。もう、無職をむやみに見下したり怖がったりしている場合ではないのだ。
 それに、そんな必要もない。

 私は今、パートタイムで仕事をしているが、無職の期間が長かったし、今でも非正規雇用だ。収入は不安定だし、貯蓄もほとんどない。言ってみれば準無職みたいな状態だ。
 しかし、正社員として働いていた時にはなかった快適さを感じてもいる。要求されることがはっきりしていて、それ以上を求められることもなく、自分のペースで生活ができる。ストレスのかかる状況をセーブして自分をいたわれるようになったことで、ASD(自閉症スペクトラム)を持つ私は、今までとは段違いに生きやすくなった。
 丹野氏の言うように、経済的な不安定さと引き換えに、「自分の時間を配分できる」という前向きな状況を手に入れたのだ。

 それに不安定とは言っても、別に貧しいわけじゃない。

 実は時給が高いとかそういうことではない。「基準」の問題だ。韓国のミュージシャンであり作家のイ・ランは、「私にとって裕福であることとは、毎月住民税の支払いに悩まなくていいこと」というようなことをどこかで書いていた。それを読んでから、私はちょっと考え方を変えたのだ。

 裕福かどうかは、他人と比べたときに自分がより豊かかで測るものではなくて、自分が満足しているかどうかで決めていいものなのだと。そういう基準で言うなら、現在の私は結構豊かだ。家賃と光熱費は支払えているし、急にどこかへ旅行に行きたくなったら思いきって使えるくらいの貯金はある。家にはパソコンもあるし、wifiもある。今のところ、私には十分だ。

 大きな病気をした時にどうするかとか、ずっと休まず働き続けられるのかとか、そういう面での不安は多々あるし、何の手立ても講じていないわけだけれど、逆にその辺りがどうにかなりさえすれば、非正規雇用であることに絶望する理由はなくなる。
 同じことが、きっと無職にも言えるんじゃないかと思う。

 むしろ、自分自身の価値を判断するうえで、働いているかどうかを重視しすぎるのはちょっと危険だ。いつ何が起こって仕事を失うかもわからない時代、いざそうなった時に仕事と同時に自分のアイデンティティを失ってしまうのでは、あまりに脆すぎる。

 働いていなくても社会的価値を失わない。会社以外に社会的な繋がりがあり、決して孤立しない。仕事とともにすべてを失うのが「今までの無職」なら、きっと「あたらしい無職」とはそういうものだろう。
 仕事がなくてもまず生きていく、そのために連帯し、お互いを認め合う文化だ。

 そして私は、この「あたらしい」という言葉が、無職以外にあらゆる既存のステレオタイプを塗り替えていくことを期待している。
 あたらしい障害者。あたらしい非正規雇用者。あたらしい弱者。何だってどんどん変わって行ったらいい。余計なことにしばられない、自由な方へ。

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