見出し画像

それぞれの普通

 K子は大卒の両親の元に生まれ、経済的にも、家庭環境的にも、何不自由なく育った。本人も当たり前のように都内の大学に進学し、新卒で大手企業に入社。新人の頃、あまりのハードワークに気持ちが付いて行かなくなり、一度退職してワーホリで2年ほどオーストラリアに滞在した。大学時代に語学留学していたおかげで、言葉にも困らなかったし、幸い、転職もうまく行って、30歳になる頃にはまとまった貯金も出来た。
「私は生まれも育ちもごく普通ですよ」と、K子は言う。

 C春は地方の小さな町の一軒家で育った。周りは一面、畑と田んぼばかりで、父親は車で一時間かかる市内で働いていた。母親は町のスーパーでパートをしていて、子どもの頃は「Cちゃんのお母さん、レジで見たよ」なんて言われるのが恥ずかしかった。C春は高校を出た後、地元の工場に事務として就職して、20代のうちに同じ工場に勤めるR太と結婚した。
「こんな話、全然普通でしょ?」と、C春は言う。

 Y美の実家は郊外の古い団地だった。リビングも子ども部屋も狭くて、家の中はいつも物であふれ返っていた。父親は長距離のトラックドライバーで、家に帰ってきてもめったに顔を合わせることはなかった。母親は専業主婦で、いつも家でテレビを見ていた。早く狭い家を出たかったY美は、奨学金を借りて東京の大学へ進学した。生活費はアルバイトで稼ぎ、大手企業の一営業所に就職してからは、奨学金返済のために一生懸命働いた。
「普通すぎて、話すことなんて何もないですよ」Y美は言う。

 K子もC春もY美も、全員架空の人物だけれど、きっと現実でも、誰もが自分を基準に「普通」と言う感性を持っている。だけれど、同じ「普通」と言う言葉を使いながら、その中身はまるで別物なのだ。

 もっと苛酷な「普通」を生きている人も大勢いるだろう。自分自身が障害や難病を持っていたり、身内の介護が日常であったり、家族が暴力や依存の問題を抱えていたり……。

 最初に与えられている条件が違えば、人生の難易度も、選択肢も違う。それなのに、私たちは「自分の人生は自分が選択した」と思い込み、その責任を背負わされたり、あるいは、与えられた特権に無自覚に生きていたりする。

 noteを読んでいても、いろんな人がいることに気づく。同じようにうつ病で仕事を辞めた人でも、家族に理解があり、実家に帰ることもできて将来を考え直せている人もいれば、困窮して後がないと絶望している人もいる。

 または、私のように低次元でドロップアウトした人間もいれば、エリート社会の高次元からドロップアウトした人もいる。その人と私の絶望の度合いは、果たして同じなのだろうか、なんてことも思う。

 うまく結論が出せないのだけれど、最近こんな事をよく考えている。

 私にとっての普通と、あなたにとっての普通は、どのくらい違っているだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?