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私に起こったいくつかのこと

文章にしてみたら、なんか変な気がして。私って、ほんとにこんな人間だったっけ?女性だっていう理由でどんな目に遭っているかを正直に書いたつもりだったんだけど、実際はもう少しマシな存在だし、こんなに無知でも臆病でもないように思えてきて。自分を卑下しすぎなんじゃないかって気もしたんです。でも自分の言葉で正確に「私」を表現できなくて。どう書いてもなんか不自然なんです。

『小さな心の同好会』ユン・イヒョン

 昨晩、1976年生まれの女性作家、ユン・イヒョンの短編集を読んだ。

 全11篇、どれもテーマ性が強くて、主に女性や、「見えない存在」にされている人たちの生きづらさについての話になっている。
 その中でも表題作『小さな心の同好会』が私は好きだった。作中では、女であること、母親であることでさまざまなジレンマを抱えてきた主婦たちが、自分たちの意見を主張する一冊の本を作る。
 これ以上自分を卑下したり、苦しめたりしないために。

 彼女たちに敬意を表して、私もまず、自分の経験の中から、ある種類のことだけを選んで語ってみようと思う。


 何年も前のことだ。
 駅から家までの道を歩いている時、突然背後から男が抱き付いてきた。
 そういう時って、咄嗟に何が起こったかなんてわからないものだ。私は文字通りフリーズしてしまって、男はその後、それ以上何をするでもなく、走って逃げて行った。ようやく事態を理解できた時には男の後ろ姿は道路のずっと向こうにあって、私はその場で「ふざけんな!!死ね!!」と叫ぶのがやっとだった。

 直後に110番をして、警察が来た。何があったかを説明すると、「ああ、またですか。この所、よくあるみたいなんですよねえ」と警察官は言った。当時、同じような被害が、同じ地域内で頻発していたらしい。
「すぐに捕まると思いますよ」と言う言葉を、とりあえず信じることにした。

 それよりも前に、やはり帰り道で同じような目に遭ったことがある。その時の私は専門学校を卒業したばかりで、仕事帰りに暗い住宅街を一人で歩いていた。
 歩道もない狭い道の端を歩いていると、後ろからやってきた自転車が私の横を通り過ぎる瞬間、乗っていた男が私の胸を鷲掴みにして行った。突然のことに呆気に取られて、やはり声も出なかった。

 どうしたらいいかわからなくて、私はとりあえず近くの交番に駆け込んだ。交番にいたのは男性の警察官だった。彼は淡々とした対応で事情を聞いていただけなのだけれど、私は自分でも意識しないうちに、
「私が狙われるわけないから、痴漢じゃなくてひったくりかもしれません」
 と、誤魔化すようなことを口にしていた。
 笑いたくもないのにへらへら笑いながら。
 今ならその理由がわかる。私は痴漢に遭ったこと以上に、ブスのくせに自意識過剰な女だと思われるのが怖かったのだ。

 一番最近では、うつ病で療養中、散歩をしていた時にそれは起こった。夕暮れ時、河川敷を歩いていると、草むらの中に男が一人、立っていた。男は私の方を向いて、下半身を露出したまま自慰行為を見せつけてきた。私は目が良くないので、近づくまで何をしているかよくわからなかったのだけれど、その行為に気付いた瞬間、ぞわっと怖気が立った。男は私がスマホを取り出して通報しようとしたのを見た途端、ズボンを履いてそそくさと自転車に乗って逃げて行った。

 間もなく、パトカーが一台やって来た。後部座席に乗って事情聴取を受けたのだけれど、私はその時もやはり「私を狙ったんじゃなくて、他にも人がいたのかもしれませんけど、偶然私が通ってしまって」と、自分には狙われるような価値がないのだとわざわざ卑下しなければならなかったのだった。

 その後、逃げた男はあっさり他の警察官に捕まった。私は面通しのために、パトカーに乗ったまま男の顔を見るように言われたのだけれど、車で近づくだけであまりにも怖くなって、とうとう「すみません、怖くて見れません」と泣いてしまった。遠くから下半身を見せるしかできない卑怯な奴を怖がるなんて、私はなんて弱いんだろうと思った。

 こう言うことを警察以外の誰かに明かすのは、実は初めてのことだ。
 他には、家族にも、誰にも言ったことはない。だってそうだろう、「嘘つくなよ、お前が狙われるわけないだろう」「自意識過剰なんじゃないの、ブスのくせに」「気を付けてないから悪いんでしょ」そう言われるのがわかりきっている。いや、実際には口に出して言う人はいないかもしれない。
 でも、性的魅力で人としての価値を決められたり、傷付く資格さえ否定されたりするのはいつだって当たり前だった。私が生きてきたのはそういう世の中だった。だから私はこれらのことを、ずっと「なかったこと」にしてきたのだった。
 そして、私はそれがつらかった。本当にとてもつらかった。

 私が感じてきた悔しさとか、痛みは、女性としての生きづらさのほんの一角にすぎない。世の中にはもっともっとたくさんの苦しみがあって、その中には同じ女性の私でも理解が難しいこともあったりするんだろう。
 もっと辛い目に遭った人からしたら、「その程度で何が苦しいんだ」と言いたくなるかもしれない。

 だけど、今のうちに書いておこうと思った。
 きっとその意味はあると思うから。

私に似た誰かが、あなたに似た誰かといつか出会う想像をする。
異なる、よく知らないという理由で彼らがお互いを憎み、永遠に背を向けることがないようにと願う気持ちから、私が過ごしてきたある時間を束ねた。
この壊れて粉々になった言葉、まだ答えを知らない問いかけが対話のはじまりになってくれたらうれしい。

『小さな心の同好会』あとがきより

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