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新型コロナウイルスと国家の日和見主義に反対:ウイルス蔓延と隔離政策に関するイタリアのアナキストによる報告

初出:https://nl.crimethinc.com/2020/03/12/against-the-coronavirus-and-the-opportunism-of-the-state-anarchists-in-italy-report-on-the-spread-of-the-virus-and-the-quarantine(2020年3月12日)

新たなウイルスが私達の命を脅かしている。他方で、私達の自由はナショナリストと権威主義者に脅かされている。彼等はこの機会を利用して国家介入と国家統制の新たな先例を作り出そうとしているのだ。この二分法--命か自由か--を受け入れてしまえば、この特殊なパンデミックが過ぎ去った後もずっと代償を払い続けるだろう。実際、これらは互いに結びつき、相互に依存し合っている。イタリアで蔓延している情況・危機の激化の原因・イタリア政府がこの情況を利用して権力を強化する手口について、イタリアの同志達が以下で報告する。イタリア政府のやり方は将来の危機を悪化させるだけだ。

現時点で、当局の戦略は、ウイルスから人々を保護するというよりも、ウイルスがインフラを圧倒しないよう蔓延ペースを統制することを目的としている。生活の多くの側面と同じく、危機管理は最大の関心事だ。為政者はウイルスに影響を受けている全ての人の生活を保護しようとしていない--今回の危機が始まるずっと前から貧困者への配慮を切り捨てていた。むしろ、彼等は断固として現在の社会構造を保持し、その中で認められている自分達の正当性を維持しようとしているのである。

この文脈で、二つの異なる災厄を区別できなければならない。ウイルスそれ自体の災厄と、既存秩序がパンデミックに対応する--しない--方法が作り出す災厄である。既存権力構造が私達を守るために存在すると盲目的に信じて、その慈悲にすがるなど大きな誤りだ。逆に、為政者が「健康」と言う時、それは、身体的健康ではなく、経済的健康を意味している。典型例を挙げれば、連邦準備銀行は株式市場を支えるために1.5兆ドル--銀行には5000億ドル--を分配した。だが、米国市民の大部分は今もコロナウイルス検査を受けられていない。

はっきりさせておこう。トランプなど世界中のナショナリストはこの機会を利用して私達の運動に新たな統制を課そうとしているが、パンデミックはグローバリゼーションの帰結ではない。パンデミックは常にグローバルだった。数百年前、鼠蹊腺ペストは世界中に広がった。米国内の人間の健康を維持するために資源を使わず、米国経済を健全にし続けようと欧州からの渡航禁止を導入する。トランプは明確な教訓を教えている。資本主義は本質的に私達の健康に有害なのだ。

ウイルスは人為的な国境などお構いなしだ。このウイルスは既に米国内にいる。米国の医療は、欧州の大部分ほども広く均一に行き渡っていない。これまで、ウイルス蔓延と共に、サービス産業労働者は生活費を払うために自らを危険にさらし続けなければならなくなっている。こうした危険な意思決定を民衆に余儀なくさせている圧力を減らすためには、第一に、このような不平等を生み出すシステムを排除しなければならない。貧困者やホームレスなど不衛生な条件で生活していたり、世間並みの医療を受けられなかったりする人々は、常にあらゆる危機の最も大きな被害者なのだ--そして、彼等への影響が他の人々にも大きな危険を及ぼし、感染をさらに広くさらに速いスピードで広める。共和党上層部にウイルスが流行していることからも分かるように、金持ちの中でも最も裕福な層でさえ、ウイルスから完全に孤立できない。つまり、現在敷かれている秩序は、誰のためにもならないし、秩序から最も利益を得ている人すらその恩恵を受けられないのだ。

これは、ミシェル゠フーコーが生権力と呼んだものの問題である。私達の生を維持する構造が、同時に私達を規制する。こうしたシステムが私達を維持できなくなると、私達は自分達を脅かしているものに依存し、身動きが取れなくなる。地球規模で見れば、産業が生み出す気候変動が既にこの情況を身近なものにしている。このウイルスは人命を奪うだけでなく、ウイルスによって中国の産業が減速したおかげで公害と労働災害が減り、命を救っているという仮説を述べる者すらいる。

リベラルと左派はトランプ政権の失敗を批判し、事実上、政府の介入と中央集権型統制を要求している。トランプやその後継者達がこれを実施しようとしているのは、自分達の利益のためである。それは、パンデミックだけでなく、自分達が脅威だと考えるあらゆることへの対応としてである。

根本的問題は、私達が健康に関する対話をしていない点にある。中央集権型統制の前提に健康はない。政治スペクトル全体で安全と健康について様々なメタファーが使われているが、その根底にあるのは差異の排斥(例えば、国境・隔離・分離・保護)であって、差異との肯定的関係を築こうとしてはいない(例えば、米国国境外の人々を含めて万人に医療資源を拡充する)。

身体的健康・社会的絆・人間的尊厳・自由、これら全てが互いに結び付き合っているものとして幸福を理解しなければならない。相互扶助をベースにして危機に対応しなければならない。暴君にさらなる権力と正当性を認めてはならない。

国家を盲目的に信頼するのではなく、先例を指針として振り返り、自分達が主体的に対応できることに焦点を当てなければならない。アナキズム的組織化にこうした問題を扱う上で充分な「規律」や「調整」がないなどとは言わせない。私達は何度も目にしている。資本主義と国家の諸構造が最も「規律」正しく「調整」されているのは、まさに、私達に不要な危機--貧困・気候変動・刑務所-産業複合体--を課す時なのだ。私達が理解するアナキズムは代替世界の仮説的青写真ではない。その本質は、利潤と権威による支配の外で、それらに対抗してすぐさま行動することである。トップダウン型統制に基づいて国家が実施する現行の「パンデミック対処」モデルは、最も弱い人々を保護できていない。一方、アナキズムのアプローチの主眼は、必要とする全ての人に医療ケアのような資源を向けることにある。同時に、個々人とコミュニティに権限を与え、多大な悪影響を引き起こさずにどれだけのリスクに身を曝すか自己統制できるようにする。

これには先例がある。1884年、マラテスタは、3年の禁固刑を言い渡されながらも、ナポリに戻り、故郷で流行していたコレラを治療した。確かに先人達はこのことについて理論を作り、行動した。今の私達はここから学べるのだ。ほんの数年前、エボラ出血熱の発生に対して、アナキズムの観点からどのように対応すべきか分析しようとしたアナキスト達がいた。国家統制とは別の言説をどのように生み出すのか、そして、自分達の自律性を保ちつつこの情況を共に生き抜くにはどのような行動を取れるのか、是非、自分(達)で考え、書き、話して頂きたい。

それまでの間、米国よりも数週間長くこの危機を経験してきたイタリア北部の同志達による以下の報告を紹介する。

パンデミック日記、ミラノ:コロナ時代の愛

1918年~1920年:既に第一次世界大戦に揺すぶられていた世界は、もっと潜行する敵に直面した。スペイン風邪である。5億人が感染し、5千万人以上が死んだ--大戦死傷者数の2倍--災害級のパンデミックだった。

2020年:新たな伝染病パンデミック、新型コロナウイルスが世界中に蔓延した。これを書いている時点で、世界保健機関によれば、感染者125,000人以上、死者4,600人以上が確認されている。イタリアでは、12,000人が感染し、少なくとも827人が死んだ。

ここではイタリアに焦点を当て、新型コロナウイルスとどのように向き合うか幾つかの問題提起をする。第一段階は、大企業メディアの話を当然だと見なさないことである。そして結局は、ますます抑圧的になっている上からの提言と押しつけ全てに屈しないことである。

最も明白な事実から始めよう。この感染爆発は国際連帯・国際協調の必要を強調している。そのことで、人々は困難に対処する力に参加でき、共通の目標を達成できる。だが、現行システムでは不可能だ。それぞれの国が他国の悲劇を巧みに利用し、あらゆる「危機」が不当利得行為の下地を作っているからだ。

この問題にどのようにアプローチしようと同じ結果に至る。資本主義と帝国主義によって、現状の徹底的変革の必要性が示されているのである。

ただ、ここでは一歩離れてロンバルディーア州に焦点を当て、イタリア政府が感染蔓延を抑制しようと最初の法令に署名した日に戻ろう。

2月16日、ロンバルディーア州

この日、イタリア政府は感染蔓延を抑制すべく最初の法令に署名した。

ミラノ、午後7時。全ての学校と集会場が閉鎖されるとの懸念が急速に広がり、民衆の間に広がるパニックと相まって、事態は終末的様相を呈していた。スーパーに人々が殺到し、開戦の瀬戸際のようだった。大量のマスクと手指除菌ローションを購入する人々(薄い不織布マスクは安全を示すシンボルだ)。悲鳴が聞こえる。泣きわめく。集団パニックが起きている。

様々な制限の噂が飛び交い、ミラノは、偉大なミラノ、止まる事なき都市は、恐怖で麻痺した。だが、数時間後には活気を取り戻した。実際、制限発表の翌朝、この都市全土を揺り動かしたのは、ウイルスの恐怖ではなく、「ミラノは飲む(ミラノ゠ダ゠ベレ)」を生きられないことへの恐怖だった。バーもパブも午後6時から午前6時まで閉店した--明らかに、ウイルスは深夜勤務のプロレタリアのように出勤するのだ。レストランは違った--どうやら、飲むと病気になるが、食べてもウイルスは配慮してくれるらしい。同時に、学校や大学など人が集まる場所は全て閉鎖された。

2月後半

一週間が過ぎても、ニューヨーク気取りの地方都市ミラノは止まらない。ウイルスも増殖し、さらなるパニックを引き起こしている。感染者が増え、死者も増えている--犠牲者の多くは心血管疾患の既往症を患っている高齢者だ。バー・レストラン・ショッピングモール・公共交通機関を除き、再び全てがロックダウンされている--学校も映画館も劇場もキスもハグも。その間、市長のベッペ゠サラは、この恐ろしいウイルスに苦しむ哀れなミラノ市民を励まそうとしている。ウイルスは夜に、誰かと飲んでいる時にだけ猛威を振るうのだ。彼はお得意のソーシャルネットワークを駆使し、#MilanoNonSiFerma(ミラノは止まらない)というハッシュタグを付けて一本の動画を投稿した。

技術的に言えば、この動画は完璧だ--鮮やかな色彩の鳥瞰画像とキャッチ―な音楽--が、3ドル札のように胡散臭い。疑いなく、この動画を宣伝しているのは、Unione dei Brand della Ristorazione Italiana(イタリア料理店ブランド連合会)である。ミラノは止まらない。だが、この動画で本当のミラノは見られない。本当のミラノ--私がミラノを愛しているのは、ナイトライフの中心地だからではない。ファシズムと排外主義がミラノを貶めようとしたにも拘わらず、過去20年以上も政治的昏睡状態だったにも拘わらず、なおも革命的戦慄が走っているからだ。サラが投稿した動画は1980年代から抜け出してきたようだ。当時、大人気リキュール、「ミラノ゠ダ゠ベレ」のリキュール、アマーロ゠ラムツォッティの広告が放映されていた。

https://youtu.be/Gr0Nsrz7W3s
(訳註:市長の動画)

こうしたイメージに本当のミラノは描かれていない。大雑把ながらも誠実に本物のミラノを表現しているのは、コレクティヴ゠ザムの動画だ。動画は市長が数日で撤回した発言を幾度も繰り返す。市長の発言はメディアの嘘の物語に依拠したものだった。嘘の物語は、排外主義階級レトリックを常に繰り返し、この都市を不安定な労働者と外国人に寄生させる。彼等は、日々、レイシズム・家父長制・ジェントリフィケーション・放置された郊外・資本主義と戦わねばならないのだ。

ウイルスは緊急事態の核心ではない。本当の緊急事態、「コスモポリタン」都市の患者0号は、経済的不安定さだ。これが労働者に絶望を与えている。労働者は生活費の高騰と搾取に対して闘わざるを得ない。過去数週間で、これまでイタリアでは一度も使われなかった「スマートワーキング」という新たな搾取形態が現れた。これは、確実に、来年のトレンドになり、下請けや外注を通じてさらに奴隷を作り出すだろう。イタリア北部の危険区域にいる多くの雇用主は、従業員に療養休暇を取らせたり、休職させたりしている。こんなことをすれば、既に不安定な国家システムがさらに不安定になり、結局、こうした不安定な労働者に打撃を与えるとは考えていない。こうした従業員は皆、食卓に食べ物を並べるために日々奮闘しなければならず、低賃金の仕事に就いて何とか生き延び、何のセキュリティ対策もない仕事場で酷い勤務体制に耐えている。参考までに挙げれば、今年1月1日から2月6日までに、46件の労災死亡事故が起きているのだ。

https://youtu.be/k1K77hacYCE
(訳註:コレクティヴ゠ザムの動画)

二つの動画を検討すれば、仕事から人の移動・物の動きまで、メディアが意図的に全ての責任を個人に集中させ続けていると分かる。

つまり、三つの段階があるのだ。それは次のように要約できる。第一段階は問題の隠蔽である。今では隠蔽し続けられなくなっている。第二段階は、いわゆる「メディア゠テロリズム」である。これは現在も進行中であり、集団パニックと幻想の平穏との間を揺れ動いている。第三段階が現状である。パニックと社会的コンセンサス双方を隠れ蓑に劇的な変化が社会に課せられる。その間にも、将来に重大な影響を与える様々な法令が導入され、独自に抗議・ストライキ・集会を行う権利が否定される。

ジュゼッペ゠コンテ首相が署名した法令が官報に記載されると、何が起こるのだろうか?ロンバルディーア州で行われているウイルス封じ込めの追加制限と措置は4月3日まで延長される。一つの地域から出たり入ったりするだけでなく、地域内で移動する際にも特別な許可が必要となる。民衆は自主隔離するよう要請される。全ての学校と大学は閉鎖される--勉強など重要ではないと誰もが知っているわけだから、これを機に、何年にもわたる予算削減で既に疲弊している親や学生をこのゴタゴタに引きずり込んではどうだろう?バーとレストランは、お客同士が少なくとも1メートルの距離を取り続けられるなら、午前6時から午後6時まで開けられる。劇場・ジム・スキーリゾート・ディスコは閉鎖だが、主要なスポーツイベントは全て無観客で行える(これぞイタリア--サッカー無しに生きてはいけないのである)。集会は全て禁止。結婚式も葬式も禁止。中規模・大規模のショッピングモールが閉鎖されるのは週末と銀行休業日だけ。

つまり、感染の恐怖が集団パニックに拍車をかけるため、これらの新しい規制は、いわゆる安全保障の名の下に、危険なまでに自由を制限する。小規模小売店や家族経営ビジネスにどれほど影響を与えるか考えずに、非常事態を正当化しているのである。しかし、本当の危険、本当に懸念すべき危険は、感染とは関係ない。本当の危険は、ウイルス学者のロベルト゠ブリオーニが強調していたように「人々をパニックにさせる」法令草案をリークした政府の無知に関わっている。基本的に、これらの極端な措置は、人々を仕事から締め出し、多くの労働者に「スマートワーク」を課し、一部地域で移動の自由を制限し、自宅に留まるよう圧力を掛け、あらゆる公共「集会」(屋内外の)を禁止する。あらゆる権利がますます制限されたり否定されたりしている。その結果、何百万もの人が集団パニックに陥り、社会的に孤立してしまったのだ。

そして今、二つの大きな「社会」問題が見えてきた。一つ目は、私達イタリア人が紛れもなく主権者である領域で、情報飽和の結果、多くの人が「専門家病(espertite)」になっている点だ。誰もが「最高の専門家」のため、ウイルス蔓延スピードなどの諸問題はたびたび無視される。明らかに、メディアと当局はこれを意図的に実現しようとしている。二つ目の問題は、様々な専門家--医師・ウイルス学者・生物学者--がテレビ・ラジオ・新聞・特にインターネットで大騒ぎしたことの結果である。こうした人々は、悪意からだろうと善意からだろうと、「中立的な」専門家なのだから何らかの解決策を提供できると紹介される。あたかも科学は中立で、それを分析する専門家には、医師も含めて、個人的先入観がないかのように。だが、どのみち政治なのだ!この点を念頭に置かないと、最善を尽くしたところで誤った結論に至ってしまう。

平均的なイタリア人はこうした自由の統制と制限に反撃するために何をしているのだろうか?既にメディアや監視カメラなどによる統制で幅広い制約を受けているとは気付いていない。いつも大慌てで大富豪に追いつかねばならない気にさせられている。iPhoneを買うためにローンを組み、飢えに苦しむ。「お偉方」になるために高利貸しの金利を何カ月も支払う。「のけ者」を守るべき時には態度を明らかにしないくせに、いつも最新モデルの靴を履いて自撮りを投稿するインフルエンサー。こんなインフルエンサーを見ながらよだれを垂らして大喜び。イタリア北部で隔離政策が施行されると共に、プルチネッラのように振舞い、南に行けないからとパニックになる。大急ぎで列車とバスに乗ろうとする。こんな行動がプッリャ州・カラブリア州・シチリア島に--3月8日時点でこれらの地域全てはまだ「安全」だと見なされていた--ウイルスを広めかねないなど気にもしないのだ。今夜(3月9日)、危険区域から逃れようと何百人もが鉄道の駅とバス乗り場に殺到し、人々を落ち着かせようと鉄道警察(POLFER)が介入せざるを得なくなっていた。何故このようなことが起こり得るのか理解できず、コンテは次のように述べた。「草案の段階で公になったから不確実さ・不安感・混乱が生じているなど、受け入れられない。」

それなら、警察に特別な権限を与え、バーやレストランを営業させたまま、人々を呼び止めて行き先を聞き出せるようにしてはどうだろう?原因があるから結果がある。この場合、明らかに、鬱積した怒りと人種差別主義を激化させるだろう。いずれ、遅かれ早かれ、誰かが、新型コロナウイルスで死んだいとこ・隣人・知人の復讐を口実に中国人やモロッコ人やルーマニア人を銃撃し始めたという記事を目にしてもおかしくはない。既に、イタリアに住んでいる東欧人は襲撃されている。

イタリオット(訳注:イタリアが崩壊しつつあるのにベルルスコーニに投票し続けるイタリア人)は他人のことを気に掛けない。快適さだけを考える。自分の満足の追求だけが本当に大切だからだ。世界が崩壊したところで知ったことか。リンゴは木から遠くに落ちない。平均的イタリア人が何故そんなことを気にしないのか、その好例が、「同盟」を率いる右翼ポピュリストで反移民政治家のマッテオ゠サルヴィーニ前内務大臣である。一カ月前--まるで昨日のことのようだ--政府が移民を乗せた船を妨害しなかったことを訝しみ、彼はいつものように罵った。「移民を上陸させる」など政府はコロナウイルスを見くびっているのではないか、と。彼がイタリア国境の封鎖(英国は例外として)をしたがっていることなど誰も気にしない。法令署名のたった数日前に、彼はロンドンに行くことができた。あらゆる常識に逆らい、自分のナショナリスト・レイシスト思想を欧州中に広めている--コロナウイルスよりも重大な疫病だ。

ここで別な疑問を自問しなければならない。答えは難しいかもしれない。最初の疑問は、禁止措置(例えば、違反者への罰則として、懲役三年以下や罰金225ドル)・繰り返される「メディアの集中砲火」・絶え間ない不安感といった客観的困難全てを考慮しつつ、現状にどのように対応すべきか、である。

現在、個人の責任--特に、コロナウイルスに感染した人々に対する--が過剰に強調されている。その一方で、国家は緊急事態を利用して新しい法令を押し付けている。国家は公立病院の削減(過去10年間で45,000)や最前線にいる労働者の情況(特に、医師・看護師など)について語らない。医療部門へのネガティブな影響についても語らない。例えば、糖尿病などの重大な病状の治療や透析といった定期診察が中断している。医療労働者は、自分達の最低限の権利が否定されるのを目の当たりにしている。自分達を全く考慮に入れずに、この「緊急事態」に対して経済的取り組みを行っているのである。イタリアの政治家--それまで公衆衛生分野とその労働者を攻撃していた--は、善人ぶって公衆衛生制度を褒め称え、利益を求めるために行ってきた民営化については一言も言わないのだ。

では、これからどうなるのだろうか?これらの「緊急事態」の歴史的帰結はどのようなものだろうか?近年、イタリアで一連の抑圧的規則が作られており、一つ一つの「緊急事態」が終わっても--緊急事態がどのようなものであれ--こうした規則はなくならないとはっきり分かっている。

この国では、緊急事態の創造と活用が私達に対する重大な問題を創り出してきた。マフィアといわゆる「テロリズム」に対する戦争を口実に、当局は「特別法」を可決させた。最大30年の懲役を定めたものもある(形式的なブルジョアの偽善においてすら、罰とは「再教育」であり、その目的は社会復帰だからだ)。しかし、1992年には仮釈放のない終身刑が導入された。これはブルジョア民主主義が攻撃的な権威主義傾向をますます強めていることを最も明確に示す例だろう。この分析をさらに拡大するためには、過去数十年間で、貧しい人々・苦闘している人々・何らかの方法で現状に対抗しようとしている人々の犯罪化と弾圧がどのようにして可能になったのかを研究しなければならない。これが厳しい処罰の施行へと繋がっている。唯一の例外は、国家の攻撃を撃退できた場合だけである。

例えば、地震は、「略奪」に対抗するという口実で反社会的な地方法令を導入する機会となってきた。ラクイラ地震がこれを物語っている--ただ、この場合、大衆が戦闘的反応で応じていたが。

同様に、「反フーリガン特別法」は、2006年以来、最も「好ましくない」運動(警察の観点から見て)--警察に立ち向かい、警察が課す規則を破る傾向が強い郊外に住む最貧層の若者組織--を取り締まるようになった。こうした法律は、組織化されたサッカークラブの「危険なフーリガン」を標的とするはずだったが、成立後数年間で、ストライキ・糾合・ピケを弾圧するためにも使われるようになった。その結果は、罰金の対象とされている政治闘争や有名な「ダスポ」(スポーツイベントへの入場禁止命令)に見ることができる。「ダスポ」は他の標的に対しても「予防措置」という形で課せられ、裁判所を通すことさえなく、警察が全く恣意的に行っている。組織化されたサッカークラブが行う活動の多くを要約すれば、現代サッカーに対する抗議の一形態(つまり、利益を最大にするために社会性を剥奪していることに対する抗議)であり、組織的糾合である。「反フーリガン特別法」があらゆる組織的運動に適用される危険に気付いているのだ。反弾圧のスローガン「特別法:今日はフーリガンに、明日は都市全体に!」はここでも当てはまる。最初に奴等は私達を標的にするが、いずれ全ての人に統制を拡大する。

このことは、ほぼ無言のまま可決された法令、上述した「コンテの法令」に私達を引き戻す。この法令は「スマートワーキング」に関して経営陣の力を増加させつつ従業員の権利を減らす法律を大急ぎで施行した。新型コロナウイルス危機と密接に関係してもいないのに、こうした法令を使って何百万人もの権利を操作しているのである。

だが、この種の弾圧は同時に叛乱を生み出し得る。政府が様々な受刑者の権利(面会とレクリエーションを含む)を剥奪していることに対して、受刑者は暴動を起こした。3月9日現在、50人以上が暴動の最中に脱獄したものの、6人以上が殺された。感染爆発の中でも刑事裁判は続いている。受刑者達は法廷への出席を禁じられている。多分、ウイルスに感染し、刑務所に閉じ込められている人々に感染を広げるかもしれないと恐れているのだろう。

あらゆる脅威と危険があったにも拘らず、全国的ロックダウンの初日に、数十人の抗議者達がローマ中心部にあるイタリア司法省前の誰もいない通りに集まり、叛乱を起こしている全国の受刑者の要求を高らかに宣言したのだった。

3月11日

外出するための自己証明を偽造した人々に対し、もっと厳格な措置が新たに課せられた。現行犯で逮捕され、最長で6年の懲役に処せられかねないのである。さらに、隔離に違反した者は、「公衆衛生違反過失致死罪」で起訴され得る。隔離違反者が熱や咳などの新型コロナウイルスの症状を示し、高齢者やハイリスクの人々を死亡させた場合には、「故殺罪」に問われ、最大21年の懲役に処せられる可能性がある。新型コロナウイルス陽性者との付き合いを続けていたり、一緒に仕事をしたりしているのに、必要な予防措置を取っていない人や他の人に知らせていない人にも同じ措置が適用される。

3月12日

ショッピングモール・ドラッグストア・コンビニ以外の全てが2週間営業停止している。ロックダウンの状態にあり、隔離によって世界から孤立している。破滅主義者と言われるだろうが、私には城塞風に作られた僧院に隠れているプロスペロ公の運命が思い浮かぶ:

今や「赤死病」が侵入してきたことは誰の目にも明らかだった。それは夜盗のように潜入してきたのだった。宴の人びとは一人また一人と彼等の歓楽の殿堂の血濡れた床にくずれ落ち、その絶望的な姿勢のまま息絶えていった。そして黒壇の時計の命脈も、陽気に浮かれていた連中の最後の者の死とともに尽きた三脚台の焔も消えた。あとは暗黒と荒廃と「赤死病」があらゆるものの上に無限の支配権を揮うばかりだった。

(エドガー゠アラン゠ポー著、八木敏雄訳、赤死病の仮面、岩波文庫、2006年、235ページ)

しかし、私達は、隔離を課せられながらも、今もなお生き残っている。

3月13日

イタリア全土は屈服していたが、ついに叛逆の精神に動かされているようだ。ここで話しているのは、本日午後6時に予定されている歌うフラッシュモブ--バルコニーに出て、歌ったり音楽を演奏したりして、「私達は対応できる」「全て上手くいく」と世界に知らせるよう呼び掛けている--のことではない。これは別な話だ。「無責任なストライキ」と雇い主は言う。「職場の安全対策が不充分だ」と従業員は言う。「私達は消耗品じゃない」「私達は使い捨て要員じゃない」これらがイタリアの工場から聞こえる歌声だ。北から南まで労働組合と労働者は力を誇示し、健康を守る措置を求めた自然発生のストライキで事態をかき乱している。少なくとも、これは凄い話なのだ。

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