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イスラエルのアナキスト、イラン゠シャリフへのインタビュー

英訳原文:https://libcom.org/article/interview-israeli-anarchist-ilan-shalifギリシャ語原文
原文掲載日:2024年5月22日(ギリシャ語原文は2024年5月19日)


(訳註:翻訳に際しては英文を基に、必要に応じてギリシャ語原文も参照しました。なお、文中で話題になっているファウダについては、以前に紹介しましたが、フェイクかどうかは議論があるようです。)


ギリシャのリバータリアン雑誌『アフトレクシー(Aftoleksi)』によるユダヤ人アナキスト、イラン゠シャリフのインタビュー。シャリフは1937年生まれ。イスラエルにおけるアナキズムの生きた歴史と言える。彼は、イスラエルの社会主義組織「マツペン(羅針盤)」のメンバーだった。マツペン解散後もシャリフは活動を続け、「壁に反対するアナキスト」や今はなきアナキスト連盟「アフドゥート(団結)」といったイスラエルの様々なイニシアティヴに参加した。高齢にもかかわらず、自分の政治理念を堅持し、積極的行動主義を続けている。彼は直接民主主義と反権威主義について多くの記事を書き、未来の直接民主制社会での生活を描いたフィクション小説『2100年の瞥見(革命後の50年)』を執筆している。


アフトレクシー:まず、ガザで現在起きていることから始めましょう。世界が地域全体の住民の大量虐殺を目撃しています。一方で、中東の大国は、多くの人が懸念しているように、第三次世界大戦を始める瀬戸際にあります(最も顕著なのはイスラエルとイランですが、米国とロシアが承認して監視しているトルコとサウジアラビアも)。あなたはこの情況をどのように見ていますか?

イラン゠シャリフ:イスラエルはガザ地区の住民を威嚇し、殺害し続けています。イスラエルは今も多くの人をガザから退去させようとしていますが、実際は時間稼ぎをしているだけです。敗北を認める時を・イスラエル人捕虜と交換にパレスチナ人捕虜を釈放しなければならなくなる時を・ヨルダン川西岸のパレスチナ政権と明確に対立しない新政権がガザ地区を管理するようになる時を避けています。

第三次世界大戦を始める瀬戸際というのは愚かな誇張にすぎません。イスラエルは米国の同意なしにこのような戦争も大規模な紛争も始められません。トルコとクルド人の低強度戦争・(イランに利用されている)ヒズボラとイスラエルの低強度戦争・米国利権の代理としてロシア軍をシリアから追い出そうとしているイスラエルは、世界大戦勃発の前提条件ではありません。

アフトレクシー:この厳しい情況に対する解決策は何でしょうか?パレスチナに対してユダヤ人左翼が元々持っていた提案はどのようなものだったのでしょうか?

イラン゠シャリフ:1948年まで、当時の左翼シオニストの主要勢力「ハショメル゠ハツァイル(若き守護者)」は、二民族国家に賛成していたものの、ユダヤ人による支配が条件だと言っていました。これでは本当の平等を語れません。1948年以降、彼等はパレスチナ人の強制退去による土地の奪取に賛同した。より多くのキブツを作るためです。彼等の左翼主義は、左翼に傾倒しつつあったイスラエル生まれの若いイスラエル人を騙して、シオニズムの枠組みに留めるためのものでした。そして、しばらくの間彼等が成功したというのが真実です。

アフトレクシー:そして、マツペンが登場する…

イラン゠シャリフ:マツペンは全く別物です。イスラエル共産党内の小さな傾向として始まり、党の主流だったシオニスト-マルクス主義の方向性・ソ連とスターリン主義への断固たる支持に反対した。こうした意見の相違から彼等は党から除名され、反シオニスト・反資本主義組織としてマツペンを結成したのです。

その後数年間、他に反シオニスト組織がなかったため、トロツキスト・毛沢東主義者・アナキストといった様々な傾向を持つ反シオニスト達がマツペンに参加した。その結果、この組織は非常に多様で自律的な政治的性格を持つようになり、後に、第四インターナショナリスト・トロツキスト・毛沢東主義者の一部がマツペンから分裂する。ただ、分裂後であっても、他の左翼主義者とアナキストと共に一部のトロツキストはマツペンに残っていましたが。

マツペンはその存続期間中、イスラエルで最も急進的な左翼・反シオニスト革命組織でした。

アフトレクシー:マツペンはシオニズムに代わる選択肢として何を提示したのでしょうか?一種の連邦主義的な代案だったのでしょうか?

イラン゠シャリフ:私達は地域の(国境にとらわれない)革命を提起しました。この革命が起こった後、コミュニティが、政府も国家的主体もなしに、ボトムアップで社会を組織するというものです。私達は国家的主体の居場所はないと主張しました。唯一の実行可能な選択肢は、パレスチナ人とユダヤ人(そして他のマイノリティ)が国家的主体なしに連合する一つの社会です。

ただ、私は個人的に連邦主義とは別な言葉を使いたいと思っています。というのも、人々が連邦について語る時、国民国家の連合体や、拘束力を持つ全体には属さない独立した組織のどちらかを意味しているからです。私が前者を拒否するのは既に明らかでしょうが、同時に、後者にも問題があると思っています。後者は世界を緩やかな方法で組織すると暗示しているからです。

しかし、緩やかな方法では社会を組織できません。社会は、常に草の根コミュニティの集会に意思決定権を留めつつ、物事を調整する様々なレベルの委員会を持つ現実的で一貫したリバータリアン共産主義の多層的直接民主制で組織されねばなりません。これが現行秩序に対する代案についての私の考えです。私がこのように考えるのは、キブツの生活を経験したからではなく、これが可能だからです。

アフトレクシー:私達も直接民主制プロジェクトをあなたと同じように検討しており、私達も連邦主義という言葉が様々な形で使われ、大抵は矛盾した形で使われていることに同感です。ただ、私達は連邦主義という言葉を有用だと考えています。つまり、一方では、国民国家がこの用語を乗っ取り、中央集権型官僚制を連邦と呼べるようにしています(「連邦」とされる米国やロシアを意味するものでしかありません)。他方、ライフスタイル゠アナキストの中には、その意思決定に何の拘束力もない自発主義的ネットワークに対して連邦という言葉を使っている人達もいます。

イラン゠シャリフ:例えば、気候変動です。バラバラで敵対的な資本主義秩序が気候変動を引き起こしています。緩やかな組織ではこのような危機を解決できません。世界の崩壊を防ぐには、首尾一貫した直接民主制の平等システムが必要です。私のフィクション小説で、世界が破滅的気候情況に瀕した時に革命が起こったことにしたのは思い付きではありません。この危機に瀕して、人々は世界を守るために直接民主主義的に組織せざるを得なくなりました。あれこれの集団が直接民主制的に組織を作り、お互いの緩やかな繋がりを形成するという問題ではありません。社会の抜本的再構築により、誰もが惑星を救うために協力し合えるようにしなければなりません。

逆に、こうした惑星規模の脅威からスケールダウンして、中規模の町を例にとってみましょう。下水システムや電力システム、その他重要な公共インフラがあります。こうしたインフラは緩やかに管理できません。確実に、都市コミュニティの多層的直接民主制が必要になります。

アフトレクシー:マツペンとパレスチナ系アラブ人で構成される社会主義グループとに協力関係はあったのでしょうか?

イラン゠シャリフ:マツペンに協力したアラブ人活動家もいました。私達の反シオニズム志向に惹かれたのです。これに対して共産党は、私達を裏切り者・諜報機関の手先だと仕立て上げようとしました。私達は、アル-アルド運動(パレスチナ人・ユダヤ人・その他の民族集団が民主的で世俗的な一つの国で生活するという思想を中心に展開する運動)と緩やかに関係しているアラブ人と協力していました。私達が連絡を取っていたのはこうしたアラブ人活動家でした。

また、村落コミュニティともよく協力しました。ティラという名の村があって、後に都市に発展するのですが、その当時、地元の人達は、いつかティラが都市になったら私を市長にしてくれると冗談を言っていました。というのも、私達は政治イベントを企画したり、ヘブライ語とアラビア語で書かれた『マツペン』誌を売ったりするために頻繁にそこに行っていたからです。こうしたコミュニティにいるアラブ人は私達を政治的友人として受け入れてくれました。

メンバーの一人が逮捕されると、彼等は釈放を求める署名集めを手伝ってくれました。彼等は私達を反シオニズム闘争の同志として受け入れてくれたので、私達を助けてくれ、私達と良好な関係を築いてくれたのです。

アフトレクシー:マツペンが解散した後、どのような自律的組織やリバータリアン共産主義組織が結成されたのでしょうか?

イラン゠シャリフ:何年もの間、小規模なライフスタイル゠アナキストのグループがありました。彼等は主に動物の権利とアノニマス運動を中心とした組織でした。2000年代の初めには、動物の権利に関わるアナキストと社会的アナキストを中心に「壁に反対するアナキスト」イニシアティヴが結成され、2010年後半まで活動していました。また、2010年代にはロシア系ユダヤ人が「アフドゥート(団結)」というアナキスト連盟を始めました。パレスチナ人も数人(1人か2人)参加していましたが、アラブ人がこうした活動を行うのはかなり危険だと覚えておかねばなりません。だから、他にも広く関心を持っていた人達もいましたが、彼等はアフドゥートへの加入を避けていました。残念ながら、この組織は6~7年活動した後で、解散してしまいました。最初に連絡をもらった時、私は、定期的に会合している真面目な組織でなければ興味がないと伝えました。しばらくすると、より真剣に組織作りをし始めたので、私も参加したのです。残念ながら、しばらくして徐々に分裂し始めました。

現在、一つの活動的なアナキスト゠グループがあります。ここでも主にロシア系ユダヤ人で構成されているのですが、「コンパス(Kompass)」というグループです。ただ、比較的新しいグループですね…。

アフトレクシー:あなたは、「壁に反対するアナキスト」に参加していましたね…。

イラン゠シャリフ:えぇ、かつて私は「壁に反対するアナキスト」に深く関わっていました。中にはアナキストの活動家もいました(多くは、私が信奉する社会的・組織賛同型のアナキズムではなかった)が、本質的にアナキストのイニシアティヴではありませんでした。占領に反対するユダヤ人活動家(その中にはアナキストもいます)とパレスチナ系アラブ人による共同行動から生まれたのです。こうした共同行動の一つが「壁に反対するアナキスト」をモットーに組織されて、大きな評判を呼び、この名前を存続させると決めたのです。それ以前はそれぞれの行動は別々のモットーで行われていましたから。だから、これは何よりもまず、反シオニズムの取組であって、アナキズムの取り組みではありませんでした。しかし、時間が経つにつれ、「壁に反対するアナキスト」に参加している一部の非アナキストがリバータリアン思想を受け入れるようになり、アナキストと自称し始める人すら出てきました。

アフトレクシー:ヨルダン川西岸やガザのアナキスト゠グループをご存じですか?

イラン゠シャリフ:私は、アナキズムを信奉しているパレスチナ人を何人か知っていますが、彼等は、組織化を恐れています。危険過ぎるからです。アナキスト連盟のアフドゥートがまだ活動していた頃、私達は占領地にある幾つかの村で、私達の活動を肯定的に受け止めているパレスチナ人活動家達に会いました。この地域の紛争に対する私達の意見を印刷(翻訳)してパレスチナのビリン村の活動家や他の場所で共同闘争を行っている活動家に渡したところ、ほぼ全員が私達の無政府共産主義の立場に同意すると表明しました。一般に、私は、大半のパレスチナ人が何らかの形によるユダヤ人との共存に同意すると思います。これは、私達をすごく好きだからとかそういった理由ではなく、これが今の現実だからです。彼等は、急進的なイスラム主義者達が提案する全てのユダヤ人を追放せよという提案には賛成していない。私達が直接民主主義に基づく一つの社会というメッセージを伝えようとしたのは、こうした人達、共通の未来に賛同する人達でした。10月の攻撃前にガザで行われた調査では、住民の約1/3は、ユダヤ人が居続ける一つの社会を支持していたのです。

しかし、アナキストを装っているグループが一つあります。ファウダです。彼等はアナキストではない。例えば、彼等は神について語っています。彼はパレスチナ人でもない。彼等はフェイクです。彼等はパレスチナ人とアナキストを騙るグループです。そうだと示す点が多過ぎます。単に外国から来たクレイジーな人達なのか、シークレットサービスの創作なのか私には分かりません。正直、分からないです。

アフトレクシー:ネタニヤフ政権に対する現在の大規模デモについてはどうですか?一人の政治家を別な人に置き換えるだけの呼び掛け以上の可能性を秘めていると思いますか?

イラン゠シャリフ:右翼シオニズムの特徴は排外主義で、ファシズムと言ってもよいほどで、極端な新自由主義を支持しています。現在行われている大規模デモは、右翼寄りのシオニズムに対して、より穏健なシオニズムを表現しています。しかし、それでも、反権威主義の観点は現在の大規模デモと直接行動から生まれる可能性があるため、私達は集会に参加しています。私達は粘り強いのです。デモの大半はシオニストですが、私達に慣れていて、私達と議論しようとはしません。占領に反対するデモにいる急進左派は数百人でした。当初、私が見るところ、20~30人のアナキストもいましたが、彼等は組織化されない状態で参加していました。私は、1年ほど前からこうしたデモに大きな黒赤旗を持って一人で参加するようになりました。次第に、若いロシア系ユダヤ人が私に加わり、「コンパス」の若いロシア人活動家達も自分達の旗を持って参加するようになりました。その結果、今年5月1日のデモではアフドゥート解散後初めて再びアナキスト゠ブロックが出現したのです。

アフトレクシー:10月の攻撃までガザはハマスが支配していしましたが、これをどのようにお考えですか?

イラン゠シャリフ:明らかに最悪の事態だったと思います。イスラエルによって、ガザ地区で正統派ムスリム過激派が権力を獲得し易くなったからです。イスラエルは、内政においてパレスチナ自治政府に対抗すべく、ハマス創設を支援しました。

アフトレクシー:クルド解放運動とロジャヴァのコミュニティが理論と実践で展開している政治プロジェクト「民主的連邦主義」についてどのように思われますか?より広い中東地域にどのような意味を持つとお考えですか?

イラン゠シャリフ:ロジャヴァ闘争の始まりはISISに対する自衛闘争でした。その最前線にオジャランの新しい評議会主義イデオロギーを持つクルドPKK党がいたのです。これはフェミニストと社会主義の特徴を持つ自治闘争です。良いことです。サパティスタのチアパスのように、資本主義とファシズムに対する教育的ツールとして役立つでしょう。

しかし、より広い中東地域へどのような現実的意味を潜在的に持っているかとなると、それほど楽観的ではありません。この多次元的な闘争で、このプロジェクトが生き残れたのは、米国が部分的に支援し(有効な反ISIS権力として)、アサド政権が寛容だった(政権を打倒しようとする勢力と彼等が手を組まなかったから)からに過ぎません。私の意見では、このプロジェクトが地域の他国に、イラクのクルド人地域にすら、拡大する可能性はありません。

アフトレクシー:さて、話題を変えましょう。あなたはキブツに住んでいました。キブツの生活を詳しく教えてもらえますか?

イラン゠シャリフ:覚えておいてほしいのですが、キブツは資本主義のユダヤ人エリートから補助金をもらっていました。パレスチナ入植の最も安価な方法だったからです。ただ、キブツ共同体には、各人からは能力に応じて、各人には必要に応じてというレベルで、確かに直接民主制があった。1948年までキブツ共同体は、通常、雇用労働者なしに運営されていた。しかし、今日、キブツが民営化された後であっても、旧態依然とした組織のあり方に固執し続けている人はほとんどいません。

アフトレクシー:キブツ主義の衰退はいつ始まったのですか?

イラン゠シャリフ:ご存じの通り、1948年で経済が変わりました。安い移民労働を搾取する選択肢が多くなり、キブツ共同体の一部はこれを利用した。左翼のマパイ党(1948年のイスラエル建国以前から1977年まで、長年シオニスト゠プロジェクトで支配的だった)が議会権力を失った1977年以降、資本家はキブツの大部分に圧力を掛け始め、ますます外部資本に頼るようにさせた。キブツの大半は農業分野に従事しており、補助金の打ち切りで業績は芳しくなくなっていった。これは新しい時代でした。1948年とは全く違う。当時は経済の75%を協同組合やシオニスト゠プロジェクト内部の社会化された事業が占めていました。

アフトレクシー:ということは、ある意味、これがキブツの限界の一つだったわけですね。あまりにも規模が小さく、互いに孤立していたため、資本に依存し、国家資源に依存し過ぎてしまったのでしょうか?そのために、独自のシステムを創り出せなかったのでしょうか?

イラン゠シャリフ:問題は、当初からシオニスト制度の補助金を受けていた点です。経済的に繁栄したキブツはほとんどなく、大半が破産寸前で運営されていた。左翼はシオニスト-マルクス主義者と自称していた(実際には、マルクス主義というよりもシオニスト)ものの、リバータリアン共産主義の理念を信奉する人はキブツにさえほとんどいなかった。ご存じの通り、共産党はイスラエルを建国したシオニスト支配者層の一部でしたが、この支配者層が朝鮮戦争で米国と同盟を結ぶ選択をしたために、1950年代に党内で分裂が起こる。このようにして、多数派のシオニスト-マルクス主義共産党をマルクス-レーニン主義者が見捨てる流れが生まれました。このため、キブツからマルクス-レーニン主義者が大量追放されていきます。恐らく、追放されたのは数百人といったところでしょう。長年キブツで働き、生活していた人々が、シオニズムに従わなかったというだけで、容赦なく放り出されたのです。

私は恐らく、極度に急進的な左翼的見解と反シオニズム活動のためにキブツから放り出された最後の一人でしょう。しかし、当時の政治環境とロシアで続いていた反体制派の迫害のために、思想に基づく追放は評判が悪くなりました。ですから、キブツ内では、私を追い出そうとする人とそうではない人とが数カ月間対立していました。

私のリバータリアン共産主義思想は他の人々に好まれなかったのですが、私は最も勤勉な農業労働者の一人で、キブツの渉外政治委員会の委員長に3度選ばれていました。しかし、結局、シオニスト-マルクス主義者の側が優勢になり、共同体住民の60%が私の追放に賛成票を投じたため、キブツは私に補償金を支払わねばならなくなりました。しかし、私の後に誰もキブツから放り出されていないところを見ると、補償金がかさみ、キブツの予算に問題が生じていたのだと思います。

アフトレクシー:パレスチナ系アラブ人の受け入れについて、キブツ内で意見の相違はあったのですか?

イラン゠シャリフ:キブツは当初からシオニストの制度に同調していたため、左翼寄りのキブツでさえ、アラブ人をほとんど受け入れなかった。シオニズムを受け入れようとするアラブ人もいて、その何人かはキブツで生活していましたが、メンバーとしてではなく、研修生としてでした。そして、研修が終わってもメンバーにはなれませんでした。誰も彼等に土地も予算も与えなかったのです。

しかし、こうした欠点全てがあっても、キブツは、ある種のリバータリアン思想と実践を検証する実験室でした。ただ、その規模と時間枠が限られていたのです。

アフトレクシー:貴重なお時間をありがとうございました!

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