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徒然草・吉田兼好とは何者か?

「吉田兼好とは誰だったのか・徒然草の謎」大野芳著・幻冬舎新書2013年5月発行

著者は1941年生まれ、愛知県稲沢市出身のノンフィクション作家。「宮中某重大事件」などの著書がある。

徒然草の著者・吉田兼好(本名・卜部兼好)は何者か?徒然草は誰のために書れたのか?徒然草、吉田兼好は謎の多い書物、人物である。

小林秀雄は「モオツアルト・無常という事」で徒然草についてこう述べている。

「徒然草が書かれたという事は、新しい形式の随筆文学が書かれたという様な事ではない。純粋で鋭敏な点で、空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件である。僕は絶後とさえ言いたい」と。

吉田兼好は出生・没年とも不詳。京都・法金剛院の過去帳に、観応元年(1350年)4月8日に68歳で没したとの記録があるのみだ。

兼好は鎌倉時代末期、南北朝時代の人である。神道・卜部家の分家に生まれた。内大臣・堀川具守に仕え、その後に19歳頃、後二条天皇に仕え、蔵人(秘書官)となった。

後二条天皇崩御と南北朝の権力闘争から出世の見込みが無くなり、30歳前後に出家、世捨て人になる。世捨て人になって40歳後半ころに、書かれたのが徒然草と言われる。

徒然草の原本はなく、死後、81年経過後「正徹」なる人物が写本した「正徹本」があるのみである。

正徹なる人物は本名・小松正清という歌人、東山東福寺の僧侶でもある。吉田兼好と歌会で交流のあった今川了俊に師事した。

今川了俊は94歳まで長生きした。了俊は、吉田兼好の弟子・命松丸と京都で偶然再会した。彼に「兼好の形見は何か残っていないか?」と聞いた。

弟子・命松丸は「お師匠さまは、全て処分され、残っているものは草庵の壁やふすまに貼った反古しかありません」と答えた。

当時、紙は貴重品である。手紙、経文の裏に随筆を書き、壁やふすまに貼りつけた。了俊は「それを剝がして見せて欲しい」と依頼した。

弟子の命松丸は草庵から反古紙を剥がした。おおよそ一束の量になった。それを整理・編集したのが徒然草の「正徹本」の原本である。

正徹はこの原本を注釈、浄書して、上下2巻となる徒然草の「正徹本」が誕生した。正徹はほかにも源氏物語も書写し、多くの和歌も残した歌人である。

徒然草の写本は室町時代末期、京都の公家、文化人の間で流行し、頻繁に書写が行われた。

慶長13年(1608年)本阿弥光悦、角倉素庵らが木活字による印刷が可能となり、出版された。それが当時のベストセラー、評判になったと言う。

もし、今川了俊が命松丸に出会っていなければ、徒然草もこの世になかった。偉大な芸術、文学も偶然の結果である。

(19段・原文)「おぼしきこと言わぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつあじきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず」

(現代訳)「心に思うことを口にしないのは腹が膨れる。筆が走るに任せ、書いた慰み物でもあるので、書いたそばから破り捨てるべき代物、わざわざ人が見る価値があるものではない」と書く。

徒然草は誰か第三者に見せるために書かれたものではない。

吉田兼好も破棄したつもりの「徒然草」が、600年以上経過した現代に世に知られ、評価されているとは思いもしないだろう。


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