パパ、なんで ろぼっと じゃだめなの? A
「ねえ パパ なんで」は
Q&Aで構成されています。
"パパ、なんで ろぼっと じゃだめなの? Q"は→コチラ
サーチライトに照らしあげられた摩天楼聳える街を縫う、チューブのようなハイウェイを飛び交っているタイヤのないつるんとした車たち。
僕らの世代(1970年代生まれ)の"未来"といえば、そんな姿をしていました。出所は何処なんでしょうか。手塚治虫先生かな?
昭和の夢見る21世紀は、殆どがオートメーションに塗れ、ロボットやこんぴゅーたーに制御された、自由を秩序がつつむ都市、として描かれていたんです。
それがなんでしょうね、1990年代も後半に差し迫っているのに、あれれれ? 全然、タイヤは愚か、重力から解き放たれる素振りもないやん? といった感じでした。ノストラダムスもびっくり。
2024年を迎えたいま、あの頃のイメージを超えているのはスマートホン程度で、追いついたなというのが配膳ロボットくらいではないでしょうか。
そしてなにより、そういう"未来という劇画"そのものが消失してしまったように思います。観光地に乱立する醜悪な廃墟や、都市部に寝っ転がる、人が住んでんのかどうかも怪しい木造住宅の影に呑み込まれたんでしょうかね。
それでも、中国は上海や、シンガポール、ドバイなどの中東などは、遥かに未来的(過去に我々が想像した)姿に成長しています。そこに光と影があろうとも。
ではサイバーパンクの王様とも呼ばれる映画「ブレードランナー」のイメージにもなった、我らがTOKYO CITYはどうでしょう。
世紀末を目前に控えた1997年に爆誕する「FINAL FANTASY Ⅶ」の世界観よろしく、不格好なビルに踏みつけられた国民が、憎々し気に見上げるのは灰色の空と緑の狸。話が違うやないか! と叫ぶ元気さえありません。
ある意味「ブレードランナー」や大友克洋先生の超絶スーパーウルトラビューティフルマーベラス大怪傑作「AKIRA」に近い退廃的空気さえ漂う世の中なわけですよ。いやはや、SF作品の想像力って凄いんですね!?
そんな、ゲーム・映画・漫画などの怪作を、人間でなくAIが作ってたとしたら。
皆さんどう思われますか? 僕はそっちの方が全然得心がいきますね。人間が創ってるっていう事実の方がスゴ過ぎて、まったくもって呑み込めまへん!
Do you ミーノー?(ミノは呑み込めないの意)
とロンリーな論理に自問自答してしまいました。
これから文章やイラストの仕事はAIにとってかわられる、なんて言われていますけど、果たしてそうでしょうか、と。
AIを否定はしませんし、それが補える部分での仕事や創作が在っても、いいとは思うんです。
ただ、そこにある作品・文章・絵・事象、それを"人"が創っているという事実にこそ、エモさ、エモーショナリティーがあるのではと思えてならないんです。
体温とか、温もり、みたいな話ではなくって(それもない訳ではないですが)、よくわかんない自説や持論、それこそ、えも言われぬ表現を、機械が集めたくったデータが導き出した答えだとして観て、どう思えばええんやろうなと。そういうのを下に見たりではなく、同列に並べた時に。
だから、いつまでも創作の火を消してはならないと、熱風吹き荒ぶ情熱を抱えて、生きていかなきゃならんのです(宮﨑駿節)。
とかいう呟きも、もしかしたらAIに創られた言葉だったとしたら?
自分の覗き込んでいる世界が、本当に存在する現世(うつしよ)なのか、判断できる材料がもうほぼほぼないですよね。
だってそんなSF、読んだことあるもん!
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