2023/1/19にあった面白いと思ったこと 料理と漫才

1/19はYoutubeの撮影で朝8時から21時まで埼玉県に行った。

今回撮影した動画は めろんぱん というコンビのチャンネルでアップロードされるので、動画の詳細は言わないほうがいいのだと思うのでそこは避けて書いていく。内容としてはBBQのおいしい料理を振る舞うというものだ。

朝、8時に自宅付近に自動車が到着する。めろんぱんの後輩が芸人を辞め、フリーターになり自動車をゲットしたためそれを移動に使わせてもらえることになっていた。車にはその後輩と稲倉さんが乗っている。
前日は4時すぎまで寝られず、ほぼ寝ていないままの集合で正直、元気はない。しかし、この車でやってきた二人もなぜか昨晩は寝ておらず睡眠0でやってきた。やる気があるのかないのかわからないメンバーだった。

そこから移動を開始する。埼玉県の山奥でBBQをする予定だったのでかなりの距離だ。道中でホームセンターや食材を買いにスーパーに寄る。これらを行ったとはいえ到着は12:00を過ぎていた。電車で行けば90分くらいのところなので、電車って早いんだな、おまけに安いんだなと発見があった。

約4時間の道中、稲倉さんは無限にしゃべっていた。それにつられて私もしゃべりにしゃべった。あの車の中だけでYoutube10本分くらいの内容だったと思う。ただ、稲倉さんはYoutubeにはこだわりがあるようで雑談の配信はやりたくないそうで、ここは一切配信されない。

BBQ場につき、火をつけるところから食事をするまで撮影した。日没後の利用がNGの場所だったので、すぐに片付ける。17:00頃には日が沈むので、移動時間と撮影時間はほぼイコールだった。帰りの時間も考えると移動時間のほうがBBQ時間の2倍以上かかっていた。そしてこのBBQ動画がおそらく30分暗いので動画になるのではと言っていた。撮影内容などすべてが安いものだが、時間の使い方は在京キー局級だ。効率が悪いと思ったが、一方でこういったことは学生とかだとかなり楽しいと思う。文化祭の準備のようだ。自主製作映画などを撮るのを楽しんでいた人たちの気持ちがなんとなくわかった。でも、学生は勉強もちゃんとしたほうがいいと思う。勉強をし、知識があるからこそ作品に深みが出るのだ。自分が天才ではないと気付くところからが表現のスタートであると私は考える。また説教くさいことを言い出した。

動画撮影に話を戻す。動画内では、私がおすすめするBBQご飯を紹介、食べて感想といったものだった。BBQなんだから肉を焼いて食べるだけではないかと考える人が多いだろう。確かに、BBQの主役は肉だ。焼き肉店よりも格段に安いスーパーマーケットの肉も外で、炭で焼くだけで叙々苑を超える。私は叙々苑に行ったことは無い。この肉のおいしさと楽しさは私もわかっている。しかし、気づくのだ。炭に火をつけて肉を焼く。これはあまりにもウホウホではないか。原始人でもできることなのだ(原始人の方がよんでいたらごめんなさい)。原始人体験ができることもBBQの楽しみだ。しかし、それは赤ちゃんプレイのようなもので文明を退行することに興奮する行為なのだ。さまざまな調味料を組み合わせた料理を作り、食べることでBBQはさらに楽しくなる。かといって私の大好物のカレーをBBQで作ることを私はあまりおすすめしない。日本で幼少期を過ごした多くの人々の頭の中にはカレーを屋外で作ると林間学校や少年自然の家の記憶が呼び覚まされる。これは雑念が過ぎるのだ。だれかが風呂場にパンツを忘れていたことを全児童の前で晒す行為、夜に寝ていないだけでめちゃめちゃキレる教師。あまりいいとは思えない雑念が、料理の邪魔をする。誰かの忘れ物のパンツがカレーの中に入っていくといってもいいだろう。よくないだろう。

ところで私は料理をつくり、食べてもらうというのは漫才に近いものと考えている。私は長いこと料理を作り続けてきた。そのためなかなかどうして自分で言うのもなんだがうまいものを作る。失敗をしない。Dr.Xだ。
失敗するしないは関係なく、料理は手元にある食材を組み合わせて、これはいかがだろうかとお出しする。漫才も自分にある材料を組み合わせて、ネタを用意していかがだろうかとお出しする。料理も漫才もよいものができると人を笑顔にすることができる。共通するところが多いのだ。
漫才を上達させるためのヒントが料理にも隠されていることに気付いた。料理を上達させるにはどうすればいいだろうか。食材についての深い知識や、食べる人の好みの理解、これらがあるだろう。
料理名は漫才において「テーマ」だ。そこに必要な食材は知識だ。「カレー」を作るのにおおよその枠組みを知っていることからスタートする。もし「コンビニ」の漫才コントをするならコンビニにはどんなものが売っていてどのような店の雰囲気なのかを知っていないとスタートできない。コンビニのコントなのに当然のように犬が登場すればそれはすでに世間とのズレが発生しボケになってしまっている。そこにツッコミがなければなんとも言えない異様なものになってしまう。カレーをつくるのにスパイスが必要だということを知らなければ、ただの煮物になってしまう。煮物をカレーといって人に出せば食べる側は困惑し、笑顔になれない。

お客さんの求めているものの理解も必要だ。新ネタライブなのにアリネタの語尾を変えただけのものを出せばお客さんはがっかりだ。辛口カレーと謳っているのに甘口を出してしまえばこれまたがっかりだ。
ただ、相手の求めているものがわかっている状態で漫才を続けても料理を続けても上達しないのではないか。母親の作る料理が世界一おいしいと思う子どもは多い。しかし、それはその子どもの好みを知り尽くした人が作っているからだ。母の料理が世界一おいしいと思っている子どもの味覚は何も問題はない。そして母親がおいしいものを作ろうとして、おいしいものができているのも間違いではない。では、この母親が飲食店を出してお客さんを満足させることは難しいだろう。
漫才においても同様のことが言えるのではないか。友達の前では爆笑王でもステージに立っても爆笑王というのはなかなか難しい。友達とは何年も苦楽を共にしており、笑いのツボがわかっている。何をおいしいと思うのかを知っているのだ。このときの友達の爆笑王とその友達も感性は間違っておらず、面白いということも事実だ。ただ、プロとして広くお金をいただくのは難しい。飲食店を出すのが難しいのとちょうど一緒だ。漫才師の多くは日本一の漫才師を目指している。そのためには様々なお客様の前で漫才をして、好みを探り当てる必要がある。その結果生まれた最高の漫才は果たして最高に面白いのかというとそこは何とも言えない。最も売れた芸人がもっとも面白い人なのかといえばそこも好みであり、一人一人に最高に面白い芸人がいる。
最もお金を集めた芸人が真に一番面白い人なのだ、と思ってしまうことはマクドナルドのハンバーガーが世界で一番おいしい料理だ、と言っていることと同じことだと私は考える。ただ、芸人とは売れて、知られてなんぼの商売だ。ある種、マクドナルドのハンバーガーを作ろうとしているのかもしれない。そのような業界の中で、看板も出していない隠れ家フレンチのようなお笑いもあっていいと思う。小さいライブハウスで、テレビで流してもぜんぜん視聴率の取れないであろう内容のライブだが、その会場の催し物を心から楽しみにしているお客さんもいる。これも一つの成功だと思う。
さて、私はどうしたいのだろうか。隠れ家フレンチになりたいのか、マクドナルドのハンバーガーになりたいのか。サイゼリヤになりたいと思っている。意味はみなさんで考えていただきたい。

最後に稲倉さんは私の作った料理についてどのように思ったのかをいずれアップロードされる動画を確認していただければと思う。

今日面白いと思ったことは「BBQは楽しいけども、片付けが大変。でも、懲りずにやりたくなってしまう人間のウホウホさ」である。

こんなつらい人生。ここに空き缶を置いておきます。