【戯曲】杜甫春望(2019年改訂版)

登場人物:語り手、杜甫、李白/門番/浮浪者、店子/女の子/老婆
上演時間:30分程度

語り手  さては昔、昔のこと。
日本のおとなり中国が まだ
〝唐〟と呼ばれていた頃の お話し。

「語、人を驚かさずんば死すともやまず」
時は西暦七一二(なないちに)年、
おりから日本では『古事記』がめでたくも整い、
時の天皇に献上されていたちょうどその頃、
ところかわって唐国(からくに)では、
歴史に名高き玄宗皇帝の即位をことほぐ喧騒の裏側で、
ちいさな身体に限りなくやわらかな魂を秘めたひとりの男児が、
控え目な産声をあげていた。
字(あざな)は子美 名は杜甫
かれのことをのちの人間はこう記している。
「堅物 生真面目 四角四面
 融通も利かなければ羽振りもよくない石部金吉金兜」
まったくどうして悪口まがいの言葉ばかり。
これから私が話すのは、
そんなどうしようもない不器用者の、
とある出会いと別れの一幕。
字は子美 名は杜甫
のちに詩の聖(ひじり)
号して〝詩聖〟と呼ばれた男。


李杜飲遊

  李白と杜甫、乾杯する。

李白   へへへ。
杜甫   ふふふ。

  李白と杜甫、ぐいと杯を傾け、飲み干す。

李・杜  はーーー。
李白   くっくっくっふっふっふ。
杜甫   ふっふっふっへっへっへ。

  李白、杜甫の杯に酒を注ぐ。
  杜甫も同様に、李白の杯に酒を注ぐ。

杜甫   ふっふふふ。
李白   へっへへへ。

  李白と杜甫、乾杯する。
  また一息に飲み干す。

李・杜  はーーーーーー。

  李白、杜甫の杯に酒を注ごうとする。

杜甫   いやいや。太白どの。勘弁してください。
李白   子美どの。遠慮はご無用。ほれ、杯をこちらによこしなさい。
杜甫   いやいやいや。酒を飲むにもぼくは太白どののようにはいかない。ぼくの頭と、肝(かん)と、腰から下が、もう降参だと白旗をあげているのが見えませんか。
李白   よう見えんわ。

  李白、杜甫の杯に酒を注ぐ。

杜甫   あーーー。
李白   まだまだ夜は長いぞ、子美どの。武器を捨て尻尾を巻いて逃げ去ろうにも、この宵の月影にはぶざまなだけさ。
杜甫   世の人間がみな太白どのの升(ます)で酒を飲まなければならぬとなれば、三晩(みばん)の宴会ののち、倒れずに座っていられるのは太白どの、あなただけだ。
李白   海の魚は海で泳ぐ。湖の魚は湖で泳ぐ。鳥は空を飛び、獣は陸(おか)を駆ける。おれからすれば、水を見てそれに飛び込まぬ方がどうかしているというものさ。

  李白、杯を傾ける。

杜甫   太白どのは酒水を行(ゆ)く魚、というわけですか。
李白   いや、竜だね。おれは酒の瀑布を上る竜となって、お望みならば雨だって降らしてやろう。金色(こんじき)の酒の雨だ。

  李白、膝を鳴らして立ち上がり、空を仰ぐ。

杜甫   空からは何が見えましたか。
李白   青空が四方千里に広がり、果てが見えない。おれは身をぶるんとふるって、猛虎が地を攫(つか)むがごとく空を駆ける。格別な気分さ。道すがら虹の衣や雲の裾を肩口に引っ掛けて、天女の舞い踊るがごとくひらひらきらきらさせるのも乙なものさ。そうしているうちにいつしか日が暮れて、深藍の階段を冴えた月が上ってくる。
杜甫   白竜は月を掴みましたか?
李白   いいや。三日三晩飛び続けたが、とうとう竜は月を捉らえそこねた。人名月を攀づるも得べからず、と、そんなところさ。せめてもと思い銀白(ぎんぱく)の星々に手を伸ばすが、竜はそこではたと気がつく。腕があんまり短すぎて届きやしないんだ。竜はあきらめて地上に帰ってくる。
杜甫   (笑う)それで、その竜はどうなったのですか。
李白   ところがどっこい、ここからが本題だ。

  李白、杜甫の横に腰を下ろす。

李白   月を捉らえそこねた傷心の竜は、塩からい涙をこぼしながら酒を飲んでいた。けれどもあるとき突然閃いたのさ。

  李白、杯を押し頂くように掲げる。
  杯の中に映り込んだ月が揺れている。

李白   こうすれば月だの星だの、望んだときに望んだぶんだけ手に入る。

  李白、ぐいと杯を傾け、飲み干す。

李白   なにもおれが夜毎に飲むのは酒ばかりではないさ。こうしてただ酒を飲んでいるように見せて、その実おれの魂はからだを抜け出してあるいは碧空を逍遥し、あるいは深山幽谷に庵むすびし仙人のすまいを尋訪(たずね)ているのだ。さて子美どの、腰が砕けたのは治ったか。よければ、もう一杯。

  杜甫、杯を差し出す。
  李白、酒を注ぐ。

杜甫   ……まったく、太白どのにはかないませんね。
李白   おもうに子美どのはいつもなにごとか悩まれておいでだな。愁いかなしみには美酒三百杯。まだまだ若い身の上で、いったい、何をそのように嘆いておられるのやら。
杜甫   はあ。ぼくのような者が生きるには、この世の中というものは少し窮屈すぎるように思います。歩けばいつも、望まぬことに遇(あた)ります。
李白   人間(じんかん)おしなべてそういったものさ。おれたちが道を歩いているといつも、世の中のほうがぶつかって来る。群れることを知らぬおれたちはいつも、つまはじきさ。

  杜甫、杯をあおる。

杜甫   ぼくはこの先、何年経ってもこうやって、うだつのあがらぬ身を嘆きながらくだを巻いているような気がします。
李白   あと三杯も飲めば巻くくだもなくなるさ。
お役人になんぞなったってつまらんだけだ。

  杜甫、杯を差し出す。
  李白、酒を注いでやる。

杜甫   詩名容易には揚(あが)らず、友も少なく禄もなく、ふと気づいた頃にはよぼよぼのごましお頭。……
一族のため、国のため、名誉のため。それですべてのような気もするし、何ひとつ正しいことを言い当てていないようにも思える。太白どのの言葉を借りるわけじゃあありませんが、世の中のことをおしなべて語るとすればこうだ。適当なんですよ。詩の文句ひとつ取ってみたって、なぜ自分が唯一そのことばを選び取ったのか、説明できるやつの少ないことときたら! 政治だってそうだ。かつての賢君玄宗皇帝の治世にも、近頃翳りがみえる。天の太陽が地を照らすことをやめてしまったら、草木は何を頼りに伸びたらいい。太白どの!

  李白、だまって酒を飲んでいる。

杜甫   ぼくは今、とても、たまらん気持ちなのです。どうしてでしょうか。
李白   酔いが回れば舌も回る。あと九杯も飲めば、そら、じきにとぐろを巻きだすぞ。
杜甫   そうですか。では今晩ばかりは、とことん、なにもかも、忘れ、心のままに、酒を過ごそうと思います。よろしいか。
李白   もちろんだとも。

  杜甫、杯をあおる。

杜甫   はーーー。
李白   それでこそだ。子美どの。

  李白と杜甫、三度乾杯し、
  三度目の乾杯で杜甫、つぶれる。

李白   はっはははは。
杜甫   そういえば……はじめてぼくが太白どのにお会いしたときも、たしかこんなふうでした……ぼくはあのときも、ぐちっぽく、くだくだしいやけのよっぱらいで、まわりの人を困らせて……

  李白、立ち上がる。

李白   月に雲がかかってきたようだ。子美どの。

  杜甫、酔いにまかせてやがて眠る。
  李白、席を立つ。


李杜邂逅

  杜甫、酔っ払って寝ている。

店子   ちょっと、お兄さん。大丈夫?
杜甫   ほっといてください。
店子   ほっといてくださいって。ねえ、あんたさっきからずーっと机に突っ伏して。お酒飲まないんなら帰ってよね。こっちも商売なんだから。
杜甫   家になんか、帰れやしませんよ。面目がないったら。
店子   あのねー。飲みもしないお客さんをいつまでも置いてやれるほど親切なつもりはないのよ。よければ宿屋を紹介しましょうか。
杜甫   うう……どいつもこいつも、ぼくのことをちっともわかってない。わかろうともしてくれない。きみもそうなんだろ、どうせ!
店子   もう。さっさと金払って出ていきなったら。昼間っからお酒飲んで酔いつぶれて、いい御身分ね!

  杜甫、ふところから巻物を取り出し、店子に渡す。

店子   なに、これ?
杜甫   ……ぼくの詩だよ。読んでみて。
店子   はあ? こんなの読めないよ、わたし。
杜甫   ほらみろ! きみだってぼくの詩なんかどうでもいいと思ってるんじゃないか! だからそんな冷たいことが言えるんだ。
店子   いや、そうじゃなくて。読めないの、字が。ねえ聞いてる?
杜甫   こんなんだから科挙(しけん)も落っこちるし、妻とも喧嘩になるし、…ううくそあのたぬき爺(じじい)、ひとの詩を言うに事欠いて「大仰で小難しいが中身のない詩」だって? 中身がないのはあんたの脳みそじゃないか! ものを知らないのはあんたの方だ! あんたの目の前で、『文選(もんぜん)』の詩句を頭から暗唱してみせたってよかったんだぞ!
李白   どれ、ちょいと見せてみなよ。

  李白、杜甫から巻物を取り上げる。

杜甫   誰だ、あんた!
李白   おまえがぎゃんぎゃん騒ぐから見てやろうってんだろい。
杜甫   あーあー好きにしてくださいよ。煮るなり焼くなりご随意にどうぞ。ぼくは寝ます。ただし文句は受け付け対象外ですからね。ふん。

  李白、杜甫の詩を黙読する。

李白   ……おい。
杜甫   なんですか! 対象外だって言ったじゃないですか。こちとら営業時間はとっくに過ぎてるんですから。
李白   おい起きろ。おまえ、名前は?
杜甫   杜家の子美です。なんです。お金ならありませんよ。
李白   おれは李太白。謫(たく)仙人とか呼ぶやつもいる。ちょっと前まで玄宗皇帝のおそばで詩をつくってたりもしたけど、それはまあ、昔の話だ。
杜甫   …………太白?
李白   おお。
杜甫   ……「朝(あした)に辞す白帝彩雲の間」
李白   おお。「千里の江陵一日(いちじつ)にして還る」……よく知ってんな。
杜甫   「両岸の猿声啼いて尽きざるに、軽舟已に過ぐ万重の山」……うそだ、そんなことあるはずがない。およそ有名人の名を騙って、ただで飲み食いする酒場荒らしのたぐいだろう!
李白   本人だよ。
杜甫   まだ言うか。証拠を見せろ!
李白   おまえ面倒くさいやつだな。(店子に)姉さん、ちょっと。
店子   はあい?
杜甫   天帝の威光をもおそれぬこの無礼者をつまみ出してくれ!
李白   あれ見せてやってよ。
店子   ああ、そういうこと。あのね、この人はまちがいなく李太白さまご本人だよ。
杜甫   よってたかってぼくをだまそうって言ったって、そうはいかないぞ。
店子   あたしが嘘ついたってどうにもならないでしょ。領収書見せてあげようか。
李白   そういうことだ。

  杜甫、絶句。

李白   お姉さん。持ってきて。酒。二人分。
店子   あ、はい。
李白   おまえ、そこそこの家のお坊ちゃんだろ。言葉選びに品がある。で、お勉強はまあまあできる方だ。おまえの詩、悪くはないが、でもちっと堅すぎるな。
杜甫   うそだ……そんなことあるはずない……
太白どのがこんなところにいるわけがない……
李白   現に今、おまえの目の前にいるだろうが。

  杜甫、李白をしげしげと見つめる。

杜甫   あの、ぼくの頬を張っていただけますか。

  李白、間髪入れず頬を張る。

杜甫   痛いじゃないか!
李白   おまえがやれって言ったんだろ。まあ、いい。夜はまだ長い。杜家の子美どのといったか、お楽しみはこれからだ。

  李白と杜甫、握手を交わす。


李杜決別

語り手  かくて天宝三年西暦にして七四四(ななよんよ)年、
長安の東 洛陽のみやこで、
当時は名もなき一青年・杜甫と、
杜甫より一〇とひとつ年長の大先輩、
すでに文名天下に名高き天才詩人・李白が出会った。
かれらの出会いをのちの人間は
「太陽と月が衝突したような」
と そう称している。
さていま「太陽と月」ということばをつかったが、
たしかにかれらは、
あらゆる意味で対照的であった。
いったい、人間の想像力というものは、
果てしなく、かぎりなく、どこまでも続いてゆく
大海に似たすがただが、
人間の表現力というものは、
大海の水をほんのひとすくいする程度の、
小さな小さな器にすぎない。
しかし李白ほど
その気の遠くなるような大海原から、
たくみに水を誘いだすことのできた人間もいなかった。
杜甫はそんな李白にあこがれ、
心酔し、ときにはうらやみ、
それからいつしか、こう悟ったことだろう。

  いささか思いつめたような表情で、杜甫が立っている。

杜甫   太白どの。どうやらここで、お別れのようです。これより先、我々は同じ空のもと、しかしちがった道を歩むことになりましょう。

  李白、声もなく笑いながら、杜甫に背を向けて去っていく。

語り手  かれらは一年ほどの短い期間に、
二度 ともに旅に出かけ、
そうして別れた。
そののち ふたりが
ふたたび出会って杯を交わすことは、
ついぞなかったという。


杜甫彷徨

杜甫   花だ。

  杜甫、散った花びらを一枚拾う。

杜甫   たとえばここで太白どのなら、散った花の妙(たえ)なる美しさを、ぼくなどには思いもよらないような手練(しゅれん)で詩に連ねるだろう。かれならばその自由な言葉でもって、本物の花よりも美しい景色を描きだしてしまうにちがいない。ぼくがかれならば、きっとそうする。そうできるものならば。

  杜甫、花びらを地面に返す。

杜甫   でもぼくは太白どのではないから、ぼくは筆を執って、花は花だ、と書くことしかできない。

  杜甫、地面に散らばる花びらを見る。

杜甫   花は花だ。花は美しいが、それを述べるための美しい詩が出てこない。何かを美しいというままに、……何か美しいものの、美しさだけを切り取って、高らかにうたい上げることなど、ぼくにはできない。花は美しい。だが、花の美しさをうたったところで何になる?
浮浪者  兄ちゃんよう。金、もってねえか。なかったら何か食うもんでもいい。おれに少しっぱかりわけてくれねえか、後生だから。
杜甫   花は腹を満たしてくれるのか? ……すみません。ぼくも、あまりお金を、もっていないので。
浮浪者  でも、兄ちゃんは立派な服を、着ているじゃあないか。
杜甫   (杜甫の着ている服も、着古したぼろである)……すみません。
浮浪者  もういいよ、行きなよ。他ぁあたるから。
杜甫   すみません。
女の子  お兄さん。
杜甫   なんでしょうか。
女の子  お花、いりませんか。お花を買ってくださいませんか。
杜甫   ……。家に、妻を、待たせていますので。
女の子  おねがいします。お兄さんなら、やさしそうだし、きっとひどいようにはしないでしょう。はきだめの男たちに話しかけるのは、もういや。疲れてしまったの。だから、おねがい。わたしと一緒にきてくれませんか。
杜甫   すみません。ぼくは、急ぎますので。
女の子  どうしても、だめ?
杜甫   ……なにも自ら進んで親不孝をするものでないよ。自分のからだは大事にしなさい。
女の子  (笑って)親不孝? おもしろいことを言うお兄さんね。わたしを捨てたのはほかでもない、その親よ。ねえ、教えてあげようか。お金って、ひとの命よりずっと重いの。だから、わたしたちみたいな人間は、差し出せるものを差し出しながら、生きていくしかないの。わたしたちには、これしかないんだもの。
杜甫   そんなことは断じてない!
女の子  買う気がないならもう行って! もう二度とここには来ないで! お兄さんみたいな人には、一生、わからない世界よ。
杜甫   春花のながめは千金に値すると曰(い)う。しかし千金を購う者がなければ、花はただ枯れてゆくのみだ。庭の徒花が路傍の雑花(ざっか)をかえりみたためしが、古来一度でもあったろうか?
老婆   お役人さま、お許しください。あなたに差し上げられるものは、この家にはもう何一つ残っていないのです。
杜甫   いいえ、ぼくは……
老婆   私の三人の息子たちは、すべて城の守りについています。戦さの矢面に立っています。先日息子のうちの一人から文が届きました。二人の息子の戦死の便りです。若い働き手を失って、この村もじきに死に絶えるでしょう。もうたくさんです。もうたくさんです! この婆(ばば)あの命が欲しければ、いくらでも呉れてやりましょう。なに、積み上がる死体の一つ二つ増えたところで、誰も困りますまい。
杜甫   詩は弔いにもならない。欺瞞じみて、浮かれた、おためごかしにすぎない。なまぐさ坊主のあげる経のほうがまだ、ものの役に立つ。
門番   おい、そこのおまえ! ここから先は、通行止めだよ。どうしても先に進みたければ、山道を迂回してくれ。
杜甫   なんですって? しかし、急ぐ旅なのです。
門番   ま、腕っぷしに自信があるってんなら話は別だが、あんたみたい青モヤシは諦めて迂回するが身のためってもんさ。最近、ここを通ろうとする人間を狙った追い剥ぎが後を絶たないんだ。忠告を無視して通って行ったやつらの真新しい骸が、まだそこいらじゅうにゴロゴロ転がっているはずだぜ。薄気味悪いったらありゃしない。
杜甫   なんて、ひどい……
門番   生きるも地獄、死ぬも地獄とはこのことさ。都のお偉いさんは、口では天下のため人民のため、なんて大層なことをおいいだけど、実際のところ、ご自分がお座りでいらっしゃる椅子の周りさえ綺麗に掃き清められていれば、それでいいのさ。掃き捨てられた埃がどこに向かうかなんて、きっと、考えたこともないに違いねえや。おい、どこへ行くつもりだ。
杜甫   すみません。腕っぷしに自信はありませんが、もの好きなもので。
門番   まったく。俺はちゃあんと止めたからな。ま、どうしてもって言うなら好きにしなよ……
それにしても、いったい、いつからこうなっちまったんだろうなあ。おれは、もう二〇年はここにいて、ずうっとここらを見張ってきたけど、わからなかったなあ……

  杜甫、立ち止まり、目を閉じて祈る。

杜甫   人間の屍体が累々と積み重なっている。
満足に弔われもせず、
ただ朽ちてゆくのに任せて異臭を放っている。
東のかた二百余州(よしゅう)の村々では、
荊(いばら)や雑草が生い茂り、
人々がいくら懸命に鋤を持ち畑を耕しても、
得られる収穫は雀の涙。
道々には物乞い、身売り、追い剥ぎが立ち並び、
この世の末かと思われる。
しかし わたしは家貧しくして士官の途も得られず、
胸を痛めては見てみぬふりをするばかり。

  杜甫、李白に思いを馳せて。

杜甫   太白どの。あなたは今頃どこで、何をしているのやら。あなたの詩は明朗にして闊達自在、ぼくのあこがれをいたずらに募らせては、いつも美しい景色(ゆめ)を見せてくれた。
李白   子美どの。またなにごとか、思い悩んでおいでだな。
杜甫   太白どの。ぼくにはできません。あなたの紡ぎ出す言葉にあこがれて、まねごとのような詩を作ってみたこともありました。けれど、ちっともだめなのです。空想の美しさは、いつも、ぼくの手をすりぬけてゆく。
李白   子美どのは難儀な性分だな。
杜甫   花は花だ。月は月だ。天空を渡る竜など見たこともない。ぼくが見るのはいつも、人だけだ。苦しみ、つかれ、それでも生きてゆかなければならない人間だけだ。
李白   お役人になったってつまらんだけだぞ。
杜甫   太白どの。ぼくはたまらなくなる。ぼくが本当に言葉を尽くすべきことは何だ? ぼくがこうして、詩だの文だのと詭弁を弄しながら、おめおめと生きながらえなければならない理由は何だ?
李白   さよならだ、子美どの。生きていればまた会うこともあるだろう。
杜甫   ぼくにはわからない!
……ぼくは、あなたにはなれない……


杜甫春望

語り手  あるとき洛陽に大蛇があらわれた。
無畏(むい)という名の占い師がこれを占って言ったことには、
「この蛇は洛陽に大水(おおみず)をもたらすだろう」と。
時に西暦七五五(ななごご)年、皇帝玄宗は政治に倦み、
美女楊貴妃に熱をあげ酒飲耽溺(しゅいんたんでき)の日々。
かつての賢君の面影は何処(いずこ)に求めようもなく、
唐の絶頂期はまさに今、
終わりを告げようとしていた。
その年 十一月
安禄山なる男が范陽(はんよう)で挙兵。
一月(ひとつき)にしてまたたく間に東都洛陽を陥落させた。
これを歴史に安禄山の乱という。
「蛇が洛陽に大水をもたらす」とは、
果たしてこのことであった。

門番   おい、そこのあんた! こんな時間に、どこにいくつもりだ。
杜甫   どこにって、都のようすを壁の外から見てみたくて。
門番   ずいぶん命知らずな兄ちゃんだな。壁を一枚隔てた向こうには反乱軍がうろついてるんだぞ? 賊兵にあんたが何されたって、こっちは責任もてないんだからな。
杜甫   はは、ありがとう。
門番   はあ?
杜甫   心配してくれているのか?
門番   (それが仕事なんだ)……
杜甫   すまないね。

  杜甫、立ち去ろうとする。

門番   おいあんた!
杜甫   まだ何か?
門番   心配ついでにひとつ忠告だ。あんた、なんというか、……かなり匂うぞ。

  杜甫、己の匂いを嗅ぐ。長い獄中生活のために、体は汚れきってしま
  っている。

杜甫   ……本当だ。気がつかなかった。あんまり長いこと暗くて湿っぽいところにいたもんで、鼻が曲がってしまったようだ。
門番   それだけだよ! ほら、さっさといけよ。
杜甫   きみ。
門番   なんだよ。
杜甫   ありがとう。

  杜甫、荒れ果てた街々を眺望して。

杜甫   この戦火に巻かれて命でも落とすかと思えば、どっこいこうして生きている。幼少のみぎりより言葉だけを恃みに生きてきた人間が、まったく不思議なものだ。

  杜甫、ふと気づいて。

杜甫   花だ。
そうか。いつのまに、春が来ていたんだな。

  杜甫、深く息を吸い込んで。

杜甫   不思議なものだ。洛陽が落とされ、長安にも迫られ捕らわれて、世の終わりかとさえ思われたが。こんな風体でもこうして生きながらえているのだから、もしかしたらぼくにも、天から与えられた使命とやらがまだ残っているのかもしれないね。

  杜甫、地を踏みしめて立つ。

杜甫   かつての栄華の都はもはや見る影もない。それでも春は星をめあてに、馴染みの顔でやって来る。人の世の趨勢とはまた異なる時間の流れに身を置くものたちの、悠々たる態度には驚嘆するばかりだ。何一つ変わらない。惻隠も怨嗟も風と散り、流された血は河へと注ぎ、その果てしない景色の中に私は何度でも立ち尽くし、言葉もなく涙をこぼすことだろう。自然はけして私に微笑みかけず、だからこそ私は、我と我が身の矮小さを、くりかえし心に省みることができる。
木々の緑が深い。長引く戦さに人は減り、あたりには草木ばかりが繁っている。ああ、太白どのは元気にしているだろうか。あのひとならば案外うまくやっているような気もするが、それでも心配は尽きぬもの。健やかでいるといい。あのひとの言葉は、多くの人間を勇気づける。苦しい道行きにひとときの、美しい夢を与えてくれる。
ぼくの家族も、今はどうしていることか。愛する者からの便りは万金の値打ちだ。いったい、どうして人間は、慕い合う者どうしが生き別れることがこんなにも多いのだろう。人間この世に生まれ落ちたからには何らかの使命を身に帯びるもの。世世(よよ)の出来事がすべてなんらかの理由と結びついているならば、こう考えることはできまいか。別れのかなしみは、醜さと苦悩の砂漠から、一握りの美しさを見つけ出す目を涵(やしな)うための砥石にほかならず、その珠を一(いつ)に磨き続けることが、ひいては言葉を心を磨くことにもつながるのだ、と。
さて、残された時間の中で、ぼくの果たすべき使命とは何であろうか。考えて、考えて、考えて、しかしぼくはいつも同じ答えに辿り着く。ぼくの仕事は、ただつぶさに見ることだ。そしてそのために言葉を尽くすことだ。ぼくにはそれしかできない。ぼくは太白どのにはなれない。けれどかまいやしない。ぼくは花ではなく人を描く。天を駆ける白鱗の竜ではなく、地を這いずり生きる人間を描く。ぼくの見出すべき美しさは、生の苦しみの中にのみ、遠く幽かに、しかし燦然と、輝き続けているのだから。

語り手  さては昔、昔のこと。
日本のおとなり 中国がまだ
〝唐〟と呼ばれていた頃の お話し。

あるところにふたりの詩人がいた。
一方は名を李白といい、
後世、壮大かつ闊達自在な作風で
多くの人に愛され、
その名をのちに〝詩仙〟と号された。
一方は名を杜甫といい、
社会を見つめ、人間を見つめ、
貧しくあっても気高く清冽、
その名をのちに〝詩聖〟と号された。
ふたりの詩人は人生のある一点で袖振り合わせながらもすれ違い、
完全に重なることはなかった。
こののち杜甫は、一度朝廷に引き立てられるが、
生来の生真面目がたたって皇帝の怒りをかい、流された。
その後は各地を遍歴し、
貧しさの中、愁いのうちに一生を終えたとされているが、
しかし、世界に愁いが満ちていればこそ、
歓びの露もまた甘く匂い立つもの。
実際にかれがどのような晩年を過ごしたかは、
残された詩文から想像するほかない。

語り残したことは多いが、
今日はここらで、どっとはらい。


春望(春を望む)  杜甫

國破れて山河在り
城春にして草木深し
時に感じて花にも涙を濺(そそ)ぎ
別れを恨みて鳥にも心を驚かす
烽火三月に連なり
家書萬金に抵(あ)たる
白頭掻けば更に短く
渾(す)べて簪(かんざし)に勝(た)えざらんとす


国は破壊されてしまったが、山河はもとのまま存在している。都は今や春であるが、草木ばかりが生い茂って人影はない。乱れた時勢に感じては、美しい花を見ても涙が流れ、家族との別離を恨んでは、楽しそうな鳥のさえずりにも心をびくつかせる。烽火(のろし)は三月になってもやまず、家族からの便りは、今や万金もの値打ち。白髪頭は掻きむしればむしるだけ抜けまさり、簪を挿そうにも、これではまったくとまりそうにない。
(訳は集英社『中国の詩人⑦ 杜甫』による)


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