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僕の鬱病と寛解について

重度の鬱病と診断され、希死念慮に苦しんだ。6年前から4年間。
現在は死にたい、死のうと思うことは無くなってから2年になる。
なぜ僕が鬱病になったのか、またどうしてこんなに寛解まで早かったかと考えてようやく理解したことがある。

当時鬱が治ったと騒ぎ立ててはまた不調になって落ち込む躁鬱状態だった。
鬱になった原因は抑圧され続ける環境によるものだったが
それだけじゃなくてもっと大きな要因があった。

元々自由を愛し、周りへの反骨精神で生きていた僕は
人それぞれの解釈の違いやどうしても許せないと思う考えに対しての怒りはあれど
漠然としたモヤモヤした感情を持つだけだった。
人と話をすることが好きだったこともあり、
この感情を言葉にすることが出来ないストレスは相当なものだった。
いざ言葉にすれど、その言葉と向き合ってくれる周りの人はいなかった。

幼少期の頃から呆然と感じていた孤独。
周りの大人は僕の言葉やそこに含まれる意図を理解してはくれなかった。
どれだけ話しても言葉を理解することの出来ないアルコール中毒の母や、笑って流すことで穏便に終わらせようとする父、何事にも無関心である姉、コミュニケーションを何度も何度も取っていくにつれ徐々に心はすり減り、
僕の中では諦めることが最適解だと考えるようになった。
何かを考え、答えを導き出したり解決に向かおうと努力すればする程、
叱責され、生意気だと馬鹿にされるからだ。

遂には考えることが出来ず、言葉にする事も辞めてしまった。
頭の中は発される筈だった言葉でぐちゃぐちゃになり自分でも整理することが不可能な状態にまでなってしまった。
話すことが大好きでコミュニケーションの手段だった僕にとって、この抑圧は非常に苦しかったのだ。

高校2年生辺りから頭の中の言葉にがんじがらめになり希死念慮が生まれ始めた。
親の離婚や人間関係のトラブル、将来の不安が重くのしかかり身動きが取れなかった。

希死念慮はどんどん大きくなっていく一方で
常に僕を悩ませた。
大学2年頃には選択の場面で常に死ぬことが用意され、死ぬ練習を何度もした。
自殺未遂をする度、方法が過激になっていき、
次の自殺未遂で死ぬんだなとなんとなく悟った。

その後鬱病が寛解するまでの道のりはとても長かったが平和だった。
親と縁を切ったのはもちろんだが1番大きかったのは、言葉を教えてくれる人が居たことだ。

パートナーは僕に言葉を教えてくれた。
難解なぐちゃぐちゃになったひねくれた感情を色々な角度から紐解き、少しづつほどいていく術を教えてくれた。
なんとなく理不尽に感じたことが、なぜ理不尽なのか。
なぜこの言葉は間違っているのか。
小さな感情の変化も見逃すことなく言葉に出来るようになったことで僕の脳はみるみる回復していった。
そんな生活を2年続けやっと絡まった感情の回線は解れ、スムーズに流れて行くようになった。
何かを考えるともやがかかって何も見えなくなっていた脳は
今はスルスルと流れて思考することが出来るようになった。
言葉にできないストレスを抱くことが無くなったことで全ての脳の動きが正常に働くようになったのだ。

僕にとって言葉は本当に大切だったのだなと
今になってやっと気が付いたのだ。
言葉や理屈、その理屈が納得のいく正しいものである必要など
僕の元々育った環境には無いものだったが
1番必要なことだったのだ。

話すことが大好きだった僕をやっと取り戻し、今から人生が再スタートしたように感じる。
僕にとって言葉は、人生の武器でもあり
必ず必要なものだ。

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