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酒に酔い、世間に覚める

師走になって忘年会も増えてきているようだ。
夜の街はコロナ間の損失を取り戻すように活気づいている。

私はお酒を飲みませんし、自分からは飲まない。
でも、”お酒の席”に参加することは嫌いではない。その気になれば三次会、四次会までシラフで同行できる。(二次会あたりで寝ていることはあるとしても。)

「よくお酒も飲まずに付き合えるね。」
とよく言われる。ああ、うんと曖昧に答えていたが、最近気づいたことがある。

私は酔った人と話すのがむしろ、好きなのかもしれないと。

それは、酔った人は幾分まどろっこしいが実は、会話の中に本音が漏れているからなのだ。

人はお酒を飲んで本音で話したいのだろうし、お酒を理由に本音で話していいという暗黙の了解がある。
つまり、お酒を飲んでいないときは本音を話していないのだろう。

だとすれば私は、シラフの人と長々と話すより、いくぶんかお酒に酔った人と話したい。なぜならどうせなら本音で話したいからだ。本音で話すなら、多少まどろっこしくても興味が尽きないし、相手をより知っていく実感もある。

つまり逆なのだ。

私たちは、シラフの間は”世間に酔っている”のだ。そして”覚めて本音で話したいから酒を飲む”のだ。だからお酒を飲むのも飲み会も楽しいのだ。

あえて言うのなら、お酒を飲まずに”世間から覚める”のが仏教と言えるかもしれない。

皆さんは、どうでしょうか?

ご意見、お聞きしたいです。


サポート、お願いはしませんが、喜んでお受けします。文章を書くことは私にとっての”托鉢”修行といえるかもしれません。