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008. 教わる、ということ

こんばんは。
猫と暮らしし女、あなぐま すみです。
会社を辞め、現在、シナリオスクールに通いし38歳の女武者なり。

自己紹介note

さて、スクールで授業を受けるようになってから、3か月あまり。
あなぐま、大学を卒業してから、既に16年という月日が経過している。つまり、机を並べて先生の講義を受けたり、ワークで手を動かしたりする、ということ自体が、霞がかった嶺の向こう、はるか遠景の記憶の中にしか存在しないということだ。うさぎ追いしかの山。小ぶな釣りしかの川。

自己紹介記事でも話したが、クラスメイトの皆さんには、10代、20代の年若い方々が圧倒的に多い。(30代の方には、勝手に「一緒や~~ん!ピース!」と別の意味での仲間意識を抱いているが、最年長がわたしであることは揺るがず、一緒に括るなと思われているかもしれない)
フレッシュかつ柔軟で、情報化社会の最先端時代を生きている皆さんの思考能力に周波数を合わせるのには、毎回、ちゃんと年相応に息切れをしている。むしろ、周波数って言葉は令和で通じるのか?
そりゃあ「おばちゃん」という生物学的な仕様には逆らいようがないけれど、でもやっぱり、極端に浮いたりだとか、老害というワードを想起させたりはしたくはねえ~~~~~~!!じゃん!!??荒ぶりが止まらんよ。急に荒ぶると肩と腰にくるというのに。

なので、教室の中や授業の中での自身の言動が「学生」としてはたして常識的な範疇におさまっているのかどうか、あなぐまは、けっこういつも不安だ。あとは、クラスの皆さんに話題を振ったり、課題で悩んだときに声をかけたりすると、「変に気を遣わせちゃったりしないかな」という部分は、どうしても気になってしまう。こういう。明確な解答の出ない自己内省に時間と心を割くよりも、今は一分一秒の寸暇を惜しんで筆を進めたほうがいいのはわかっているけれども、このあたりはどうにも性分なんだろう。

現在、スクールは夏休み期間。生徒たちは各々で、課題やコンテスト用の執筆にいそしんでいる。あなぐまは不真面目でめんどうくさがりなので、自分ひとりになると途端に気を抜いて、ついついXとかニュースとかばっかり見て、時間を無為にしがちだ。
そんななか、週に1回Discordで「自習室」を開講してくれている先生がいらして、もうこれが大ッッ変に、助かる。誰かに見張ってもらうというのが、めっちゃだらだらの抑止力になるのだ。
先日なんかは、お盆期間だったというのもあって、先生と1対1だったものだから、「これは好機!」と、真夜中まではちゃめちゃに質問攻めを仕掛けてしまった。
だって、だって、なんでも教えてくれるんだもの……
(言い訳:一応、これでも普段は若い皆さんへの優先意識は持っていて、邪魔にならなさそうなときを見計らって、シレ~~ッと混ざるようにはしてる)

だって、ないよ~~!?
社会に出てから何時間も、第一線で活躍されている先生に、つきっきりで指導してもらえることなんて!
しかも先生、ほんとうに心を割いて接してくださってるのが、凄く伝わる。挨拶や、課題に対する向き合い方、グループワークでの立ち振る舞いとかも、丁寧に、時にはピシャッと声掛けをしてくださっている。いや、これってほんとう、全然当たり前のことじゃない。

16年間の社畜生活、OJTやら研修やら、というものを受ける機会は星の数ほどあったけど、それは「心をくだいて向き合ってもらう」ということと、必ずしもイコールではない。会社の中で受ける教育っていうのは、やっぱり大前提「会社の利益につながる人材になれ」ということであって、そこに上司やメンター個人の思いが乗っかってくるかというと、そこはまた別の話になってくるからだ。逆に、個人の思想が乗っかりすぎてしまったら、それは、必ずしもよい結果につながることではないからね。個人に帰属して働くんじゃなく、組織に帰属して働く、ということだから。やっぱり、社畜というのは。

でも、「学校」はちがう。個人が存分に才能を発揮できる土台を整えて、各自が花ひらける場所へ旅立つためのコミュニティだ。卒業ありき。みんないつかは手を離れ、ばらばらの場所へ巣立っていく。しかも、シナリオスクール。義務教育の埒外なのだ。各自のほんとうの戦いというのは、卒業してから始まるわけで、先生のお話を聞いていると、巣立った先の生徒たちの未来、というところまでを意識して、注意深く慎重に接してくださっている、というのが、とてもとてもよくわかる。教えること、教わることって、すごいことだなあ。

いま享受しているものは、当たり前に得られるものではない、という意識を、当たり前に持ち続けていたいなあ、と思う。クラスの皆さんと過ごす日々も、先生を質問攻めにして怒られない日々も、社会に出たら(わたしの場合は「戻ったら」)絶対に失うものだ。
失うということは、必ずしも嘆き悲しむようなことではないけれど、惜別というものは、少なからず痛みを伴い、ノスタルジーを誘発する。そしてこういう郷愁めいた感情から、人間ってのは、絶対に逃げられないいきものだ。持論だけど。
だからきちんと、毎回、噛みしめて参加しなくちゃね。おはようございますと、ありがとうございましたを、ほんとうの意味で毎回、しっかり心の中で唱えられる生徒であらねばならんね。

よーし!
大人としての体面は保ちつつも、悪目立ちすることを恐れず、果敢に挑んでいくとすっか!

ちなみに、「いや~~~!変なことばっかり気にして、全然個性とか出せてなかったかな~~~!あたりさわりない生徒しちゃってたかな~~~!」みたいなことをちょけて先生に言ったら、「それはないよ」って即答されました。

ないんだ……。

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