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【短編小説】 もう交替なんてしない

※太宰治「貨幣」翻案作品です



「納得がいきませんわ」

樋口一葉は瞼を閉じ、つん、と唇を尖らせた。
彼女が身に纏っているのは、擦り切れた、麻の葉模様の木綿着物である。
そう言われてもね、と、ハンカチで汗を拭きふき、財務大臣・鈴本俊二は平身低頭の様子であった。
どうにも決まりが悪いもので、既に、紅茶を何度お替わりしたか知れない。

「仕方がないことなんだよ。紙幣というものはね、およそ四半期で刷新されるべきものなのだ。それ以上に長く流布してしまうと、かならず卑しい技術を使って、きみの美しく気品のある顔を、量産しようというものが現れる。そうなれば、わが国の経済は破綻してしまうんだ。わかってほしい」

鈴本俊二は、どうか聞き入れてほしい、私の立場を汲んでほしい、と繰り返した。
けれど、一葉は膝元で組んだ手をじっと見つめるばかりで、鈴本の顔を仰ぎもしない。
没年二十四歳、という年齢のわりに、かさかさにひび割れてあかぎれた手には、彼女の生前の生活苦が、色濃くにじみ出ている。

「経済が破綻。たいへん結構なことじゃありませんか。わたくし、労咳であんまり若くこの世を去りました。上の兄も労咳で死んで、下の兄ときたら放蕩三昧。父も借金苦を末に、早死にしました。婚約者からも金の無心ばかりで、挙句の果てに婚約破棄です。食うものにも、着るものにも、苦労しなかったことはございませんでした。やっと文壇で才を見出していただいて、とうとうわたくしの時代がやって来たというのに、わたくしときたら、それはもう、たいへん惨めに死んだのです」
「勿論、よく知っている。知っているとも。きみの才能は素晴らしかった。それだからこそ、前任者もきみをあのとき、紙幣の顔に推したのだときいているよ」
「まあ、調子のいいことを仰るわ。それであるならば、わたくしをぜひ、これからも紙幣の顔として据え置いてくださいまし。聞きましたわよ、今度の顔に選ばれた方。通訳官のお嬢様で、齢6歳にして外交使節となり米国へ渡って、それは華々しいご活躍をなさったお方だとか。結局、わたくしのような下級役人の娘で、こんな卑しい狐顔の女を、いつまでも表に置いてはおけない、ということなんでございましょう」

一葉は、さめざめと泣いた。

「わたくし、生きている間は家を支えるために、ずうっとあの、みすぼらしい平屋から出られなかった。針仕事、下駄づくり、洗い張り、雑貨の小売り。何をやっても楽にはならなかった。小説を書いたのは、高尚な志からなんかじゃございません。元手を要さず、原稿料を手にするために、わたくし、仕方なく筆を執りましたの。そんなわたくしが、紙幣に召し上げていただくなんてしたばっかりに……ばちが当たったのですわ。浮かれて、身の丈に合わないことを、お引き受けするものではございませんでした」
「一葉。そんなことを言わないでおくれ。きみは、顔役として立派に御役目を果たしてくれているとも。そうだ、紅茶のお替わりはどうだね。このティーセットは、香蘭社の特注の品でね……」
「けっこう! ハイカラなものは、わたくしの身の丈に合いません」

一葉は、深々と嘆息すると、ふと視線を上げて、窓の外を見た。

「……紙幣に召し上げられたばかりのころ。初めは恥ずかしくて、居たたまれなくて、大層惨めでございましたわ。そりゃあ五千円札は、福沢諭吉先生の次席であるわけですから、多少は有難がられたりもいたしましたけれど、大抵は四つに畳まれて、『ポッケット』やらがま口なんかに、くしゃくしゃとしまいこまれるだけ。丁重に扱われることなんて、滅多にございません。
それでも、いろいろな人の懐に入って、いろいろな土地へと身軽に旅をすることができたのは、わたくしが分不相応にも、紙幣に召し上げて頂いたからなんですもの。八面玲瓏な場所ばかりではなかったけれども、どん底で生きていたわたくしだからこそ、この旅を楽しむことができていたのです。
ねえ、鈴本大臣、考え直してはくださいませんか。お嬢様育ちの津田梅子には、きっとこの生活は耐えがたいものになりましょう。紙幣の顔は、わたくしだからこそ……」
「それは、貴女の偏見に他なりませんでしょう」

不意に、あたりにきっぱりとした女の声が、朗々と響き渡った。
髪をきりきりと頭高くにひっ詰めて、いかにも厳格にしかつめらしい顔をした津田梅子が、その場に立っている。煉瓦色の着物に、きっちりと糊のきいた袴を纏い、背筋はまるで定規が添えられているかのように、ピンと天高く伸びていた。

「私は、教育者です。一体何人の優秀な女学生達を、世に輩出してきたか知れない。それは確かに私の成した功績でございます。けれど、ただただ皇国の繫栄を願い、滅私奉公し続けてきた私の労苦と研鑽を、『生まれが良かったから』だなんて言葉でくくって、切り捨てるように語られたくはない。どうぞ、撤回くださいますよう」

梅子の厳めしい声に、一葉はわなわなと震え、唇を噛んだ。

「わたくしは……わたくしだって、母が許してくれていたなら、きっと高等科に進学して、もっと学問に精進できていたはずです。さうであれば、歌をしたためる紙一枚に困ることも、文机に向かう行燈の油一滴を惜しく思うこともなかった。わたくしは、あなたが心底うらやましく、そして恨めしい。死後の世界から呼び戻されて、ようやく与えられた紙幣の顔役という御役目さえ、あなたのような方に奪われるのは、どうしても我慢がならないのです」

ほとほとと涙を落とす一葉を、梅子はじっと見つめていた。
やがて彼女は、踵を鳴らして象牙のテーブルに歩み寄り、一葉の、擦り切れた木綿着物の肩に手を当てた。
梅子の手には、家事や針仕事に従事したような傷みこそなかったが、大勢の女学生たちが歩む先の道標として高く掲げ続けてきた指には、深く、静謐な年輪の皺が刻まれていた。

「然うでしたか。あと一歩、間に合わなかったことを、私が貴女に詫びましょう。私が目指していたのは、学びたいという志のある女性が、華族平民の別なく、また性別により何らの制限を受けることなく、優れた専門的教育機関で、自由闊達に学ぶ事のできる世の中でございました。私の渡航した米国では、女性の社会的地位は極めて高く、誰もが溌溂と輝いていた。反してわが国の、因循姑息なこの在り様。私は、貴女のような志の高い女性をこそ、私の塾に迎え入れたかった」

はっ、と一葉が顔を上げる。
対峙した梅子は、しかつめらしく眉間に皺を寄せながらも、不器用そうにほほ笑んだ。

「私は確かに、明治以降の女子教育の礎を築いた一人であると言えましょう。けれど、私自身の成したことと言えば、事物の永遠の成り立ちの中で、極々些少なことでしかないのです。私は、貴女より随分長く生きましたが、後年は殆ど寝たきりで、教鞭を取るどころか、設立した塾に顔を覗かせることも出来なかった。私がこの令和の世で、新紙幣の顔として推挙されたのには、ひとえに、私の死後に塾の栄誉を轍として刻んできてくれた、数多くの女学生たちの生涯があったからこそなのです。
……ですから、私こそ恥ずかしい。貴女のように、私には私自身の命を燃やし尽くして編み出した作品も、『わたくしでなければならない』と胸を張って断じることのできる証左も、何もないのですから。お笑い種ですよ。こんな私が、貴女のような方に次いで、新紙幣の顔役になるだなんて」
「梅子さま……」

驚いた一葉は、ひび割れてあかぎれた細い手で、こわごわと梅子の皺の寄った手に触れる。
梅子は、困惑しきりの一葉の指をくるりと返し、やがて決然と握り返した。

「樋口さん。お願いがございますの」
「……なんでございましょう」
「もしも私が新紙幣に選ばれたとて、国民の懐の内では、しばらくの間は均しく、貴女の五千円札と、私の五千円札が並ぶことでしょう。その間、貴女がどれほど私を恨もうと、憎もうとも構わない。
けれどどうか、心細く不安でならない私の心は無視して、蹴りとばしてでも、私の隣に収まってはくださいませんか。福沢諭吉先生でも、渋沢栄一先生でも、だめなのです。野口英世でも、北里柴三郎でも、だめなのです。同じ時代を生きた女性の貴女しか、この心を奮い立たせてはくれないのだと、私には、私だからこそ、わかるのです」
「………。梅子さま、顔をお上げになって」

今にも震え出しそうな梅子の手を、一葉は、かたく握り返した。

「梅子さま、先程までのご無礼をお許しください。そしてわたくしでよろしければ、どうぞ貴女の旅路の供をさせてください。令和の世にも、息苦しくて辛抱のいる場所は往々にしてございますけれど、そんなに身構えるほどのことじゃ、ございませんのよ。わたくし、よく存じ上げております。もしもこの先、梅子さまが恐ろしいと感じられることがあるならば、わたくし隣で、和歌を詠んで差し上げます。即興で詠むのは、得意なんですのよ。なにせ、わたくしったらものを書くのが速すぎて、『奇跡の十四週間』などと言われているくらいでございますもの」
「樋口さん……」
「かわりに、梅子さま。貴女には、英語をご指導頂きたいわ。それに、メリケンの暮らしについても、ご教示願えませんかしら。あら、わたくしったら、なんだかすっかり楽しみになってまいりましたわ。紙幣に召し上げられたばっかりに、国中を旅できたどころか、貴女の隣に並び立てば、遠い海の向こうのことまで学ぶことができますのね。本当に、こんなに心が躍るなんて、一体どれぐらいぶりのことでしょう」

一葉は、そわそわしてソファーから立ち上がった。

「ねえ、鈴本大臣。新紙幣の発行は、いつからでしたかしら」
「あ、ああ。来月、七月三日を予定しているが……」
「左様ですのね。では梅子さま、それまでは、わたくしと省庁を探索して回りませんこと。わたくし、若輩ながら先達の身として、庁舎をご案内申し上げますわ。この本庁の建物は、重要文化財なるものに指定されているんですのよ。地下の雑貨店には、私を象った手土産の品なども陳列されておりますの」
「重要文化財……ああ、明治四年制定の、古器旧物保存方の事ですね。詳しいのですね、樋口さん」
「あら、水くさい。一葉、と呼んで頂いて構いませんわ」

先程までの意気消沈はどこへやら、華やいだ表情で笑う一葉に、梅子はしばらく呆気に取られていたようだったが、やがて微笑ましそうに口許を緩めた。二人は、並んで歩き出す。
没年で顕現した今の姿で比較すれば、まるで母娘ほどに年の離れた二人であるが、並び立って歩くさまは、さながら仲睦まじい姉妹のようでもあった。

「鈴本大臣。津田梅子は暫時、樋……いえ、一葉と共に離席いたします」
「帰りは、待たないでくださってけっこうですわよ」
「あ、ああ……気を付けて行きたまえ」

鈴本が言い終わるよりも先に、二人の姿は、煙のように大臣室から掻き消えてしまった。
きゃらきゃらとした笑い声が、室内をこだまするかのように、幾久しく、と響き渡る。



幾久しく、どうか、共に旅をいたしましょう。
梅子と一葉。
一本の梅の枝に、花と葉、均しく芳しく並び立ちて。




ひとり大臣室に残された鈴本は、すっかり冷めた紅茶を啜りながら、机の上の書類を一枚、持ち上げる。
『令和六年度新日本銀行券 肖像交替承諾書』。
最終決裁者の署名欄には、いつの間にやら、心躍るような軽快な筆致で、「樋口 奈津」の名が記されている。一葉の戸籍名だ。
事務官に書類を託した鈴本は、机の上に厳めしく両手指を組み、目を瞑ると、憔悴しきりのため息を零した。

「丸く収まってくれて良かった……もう僕の代じゃ、絶対紙幣交替なんかしない……」

END

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