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Arcade Fire「THE SUBURBS」

※2010年9月アメブロ掲載に追記

今年は全国色々な都道府県に行っている。パーキングエリアとかのわずかな滞在含めると多分30県近く行っただろうか。九州・関西・関東・東北・北海道…後は残りの中国・四国・沖縄を制覇したい。

荘厳な神社や渓谷、郷土料理などいわゆる観光名所もそれなりに巡っているし、それぞれ地域ごとの素敵な人たちとも交流できたりするのだが(大人なお店じゃなくて)、旅を通して一番強烈に印象に残っているのはどうにも国道沿いの似たような風景であったりする。イオン・ブックオフ・洋服の青山・ガスト・吉野家・ツタヤ・漫画喫茶等々普段通ってる新潟の郊外と何ら変わりない風景(ファッションセンターしまむらとか地元チェーン店かと思った店が実は全国チェーンだったとか判明したりもする)。そしてその周辺をミニュチュアみたいな画一的な住宅が取り囲む。そこで感じるのは、みんなと一緒の風景で生きているというどこか安心できる気持ち。

ただ、同時に「どこかへ行ってるのに実はどこにも行けてないのではないか?」という感覚にも陥る。せっかく遠い土地にやってきたというのに、何で通勤時とほとんど変わらない風景を見なければならないのだろう、と。せっかく非日常を求めてきたのに、眼前には日常的な風景がただ広がっている。
もちろん江戸時代の日本の風景だって、どこも田んぼがあって農家があり城があり町や刀やマゲがあるとか似たようなものだ。もっとさかのぼれば、クロマニヨン人の時代からこん棒もって集団でマンモス狩りする画一的な風景が世界中で見受けられたろうし、だから画一的な風景なんて今に始まった事ではない、人間のやることなんて食べるために動いて食べて寝ての繰り返しなんだから、そのための文化なんて古今東西大差ないとも言える。

ただ、昔と違うのは今の画一的な風景というのが主に資本主義システムが作り出していること。いつでもどこでもみんなと同じ安心安全な生活を送りたいという意識を具体化する形で産業が世界規模でまわっている。それは多国籍企業やインターネットの台頭などでますます極端になってきている。今や世界中の風景も似たような感じになりつつある。そういったシステムの手の内からまるで出ることができない感覚は昔にはなかったものだろう。

東京に7年いて、地元の新潟に戻ってきて一番ショックだったのは中心部の商店街は完全に空洞化して郊外型の大規模ショッピングモールが恐ろしく乱立していることだった。中心部町中の通いつめた映画館は全て消滅してシネコンに。豊かな田園風景の景観などおかまいなくSF映画に出てくるような要塞のようにけばけばしくそびえるショッピングモール群。地方を支配しているのは公共機関なんかではなく実はこーいったショッピングモールじゃないのかとすら思ってしまう。だって生きるために必要なものはほとんどある。食料・家電・衣服・宝石・本・音楽・小動物まで。ここに医療機関や葬儀屋まで統合されたら完璧にショッピングモールで生まれ生活して死ぬことができる(葬儀費用にカードのポイントなんかついたりして)。

だからこういったショッピングモールに行くといつも複雑な気持ちになる。何でも生活に必要なものはあってすごい心地よいのだけど、何か背徳的なことをしている気持ち。なんかここで永遠にダラダラと毎日過ごして一生を全うするのも悪くないかもね、みたいな。マーケティング本部が提供する最大公約数のニーズを満たした安心安全な商品を享受して、平坦な毎日を生きると。なんかマトリックスの夢の世界やソラリスの海の中いるような感覚だ。
そして、何か強烈に引っかかる違和感も感じてしまう。そこでは、私たちは平等な消費者なんだけど、自分達も実はショッピングモールの商品とそんなに変わらないのじゃないのか?…自分の存在が価値のないものと思えてしまう。で、自分がなくなる感じはそれはそれで結構心地よかったりする。でもそれは本当に生きているといえるのだろうか?資本主義という檻の中の抗生物質漬けの豚じゃないだろうか?でもじゃあどうするんだよ、と言われると、めちゃ便利だしいちいち商店街の人との人間関係でサービスの質が上下するのはウザったいよな、とかも思ってしまう…そんな複雑な感情だ。

そしてこういった感情は自意識過剰な人間固有のものじゃなくて世界中通して共有されてきているものなんだと思う。なぜなら今世界中でかなり売れているARCADE FIREのニューアルバムはそんな感情についての作品だからだ。

タイトルはそのものずばり「THE SUBURBS(郊外)」。アルバムが必要とされなくなりつつある時代で、明確なコンセプトをもったアルバム。それは、郊外で生きるリアルや絶望を描いている。アルバムジャケットは何気ない郊外の風景と車の後部写真。

「どこかへ行きたいのにどこへも行けない」は「青春金属バット」などで知られる新潟在住の漫画家の古泉智浩氏も一貫して描いてる世界観でもある。

いつか僕らは郊外戦争で戦うんだと
僕の住む地域対君の住む地域で
だけど最初の爆弾が落ちた頃には、
僕らはもうとっくに退屈していた

ときどき信じられなくなる
そして僕はその感情を断ち切る
(「The suburbes」)

僕たちの暮らしはもの凄いスピードで変わってゆく
ピュアなものが存続しますように
ピュアなものが耐えてくれますように
(「We used to wait」)

そしてこのコンセプトアルバムはタイトル曲のリプライズ「ときどき自分が信じられなくなる そして僕は再びその感情を断ち切る」という消え入るような囁きで終わる。

「じゃあ地域の人々が皆手を取り合ってそれぞれ地域ごとに特色出して生きる理由見つけて、元気ハツラツにハッピーになろう!」みたいなテンションはない。今までの彼らは分断された個人がまた手を取り合ってコミュニティーを再構築しようとする高揚した物語があったが、ここでは安易な救いはなく、ある種の絶望とともに終わっているともいえる。そんな単純じゃないという厳しい現状認識があるんだろう。

が、もちろんその絶望のフレームを手に入れたとき、少なくてもそう感じるのは自分一人じゃないし実は世界中の多くの人がそんな絶望と向き合っていると思えると、寂しくないし何か新しい事を始めようと思える。そもそも郊外の退屈を描いた作品なのに、こんなに豊かなメロディーが溢れている!
音楽ってほんと素晴らしい…

ときどき思うの この世界は小さすぎて
私たちは決してスプロールから
逃れられないんじゃないかって!
スプロールの中では
活気のないショッピングモールが山脈のようにそびえ立つ
終わりが見えない
暗闇が恋しいの
だれか お願いだから明かりを消して!
(「sprawlⅡ」)

<追記>
10年前に書いた文章だけど、今はグローバリゼーションは世界を本当に豊かにしていると思っている。前にマレーシアに旅行した時、タクシーで地方都市を移動中に新潟の全く見慣れた風景に遭遇してしまい、つい途中下車してしまった。イオンモールである。
マレーシアはイスラム教圏なので店員がターバンを付けていたりするのだが、それ以外は行きつけのイオンと一緒。フードコートがあり、最上階に映画館があり、電気店では大人たちがマッサージチェアで気持ちよさそうに肩を揉みほぐしている。それぞれ宗教とか言葉とか違いはあっても本質的な欲望でつながれるのはとても素敵だ。
だから、今もイオンに行くと、マレーシアの人たちや世界と出会える感じでうれしい。
皆がグローバルなチェーン店とかに行くのはこういった世界と結ばれるワクワク感も結構大きいと思う。この同質性をネガティブに捉えるよりは、様々な違いのある人たちがつながれるスリリングでポジティブな機会と捉えたい。

新年早々「ファクト・フルネス」という話題の本を読んだのだけど、総論として人々の善意で世界は昔に比べてめちゃくちゃ良くなっている事が分かってワクワクしている。そして中でもグローバル経済の果たした役割もめちゃ大きい。資本主義を突き詰めて結果全体が底上げされている。もちろん格差とかヘイトとか温暖化とか問題は山積みだけど、これまでのように乗り越える力はあるはずと思える。
AIとか仮想通貨とか未来はもっと便利で結構面白い感じになりそうと願いたい。2020年から10年が楽しみ!

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