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ショスタコーヴィチ-交響曲第4番-コンドラシン、そしてスターリン‐プーチン

この稿は2020年12月にキリル・コンドラシンが指揮したショスタコーヴィチの『交響曲第4番』のソ連メロディアのモノラル・オリジナル盤を、たまたま入手し、その音楽、演奏、そして録音の素晴らしさに感化され記したものである。
それから1年半が経過し、ロシアのウクライナ侵攻から3か月。
改めてこのいわくつきのショスタコーヴィチの交響曲について、その成立背景、特にスターリン静粛との関係を振り返ることが、ネオ・スターリニズムに繋がるプーチンの政治的信条、政治的力学が人道的観点はもちろん、芸術的観点からも非難されるべきことであることに、思いを巡らせていただければ幸いかと思い、改めてほぼ手を入れずに再掲する。


20世紀のソビエトを代表する作曲家、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(Дмитрий Шостакович,1906年9月25日-1975年8月9日)。

「ショスタコーヴィチの音楽」と「ソビエトの政治」

各15曲の交響曲と弦楽四重奏曲を中心に協奏曲、管弦楽曲、室内楽曲、オペラ、合唱曲、歌曲、そして20世紀の作曲家らしいと言える映画音楽など、ありとあらゆるジャンルに作品を残したショスタコーヴィチ。その視点で言えばそれに並び得るのはモーツァルトとただ一人、ということができるかもしれない。

そして、ショスタコーヴィチの作曲活動は、常にソビエト連邦社会主義共和国という体制と関わりを持ちながら続けられた、という事実も忘れてはならない。

「音楽」と「政治」という、本来は独立した存在でなければならない「事象」がそうとはならず、時には密接に、時には反目し、あるいは相手の出方を窺って、その距離感をどう保つかを測りながら、互いに影響し合ってきた、という事実を我々は数多く知っている。
バッハと彼を雇ったその町の教会や参事官、モーツァルトとザルツブルク大司教コロレド伯ヒエロニュムス、ワーグナーとバイエルン国王ルードヴィヒ2世、B.ヴァルターとナチス、W.フルトヴェングラーとナチス・・・。個人の嫉妬や欲望というレベルから、その人間の一生涯、あるいは人間としての尊厳にかかわる根深いものまで、様々だ。

ショスタコーヴィチとソビエトの関係は、そういった意味では、ショスタコーヴィチの機転の利いた、時には妥協、打算的な共産党とのやり取りも含め、絶妙なバランスを保ち、成り立っていたと言えるかもしれない。
と言っても彼が、リヒャルト・シュトラウスやフルトヴェングラーがそうであったように政治に無頓着、無関心であったわけではない。彼は常に政治と向き合って生きてきたはずだ。

ショスタコーヴィチが亡くなった後、そんな彼の生前の行動、態度、作品すべてに渡って、時の政府との関係をつぶさに検証する、という作業が行われてきた。
閉ざされた社会主義国家でのことなので、どれが事実でどれが虚偽なのか、果たしてショスタコーヴィチの言葉自体が、彼の本心を吐露したものなのか、フェイクなのか?実は言葉の裏には別の意味合いが存在しているのではないか?などなど、憶測、推測もたくさん存在する(発表された1979年当時、センセーショナルを巻き起こし、今でも真贋相反する意見が行き来するソロモン・ヴォルコフ著『ショスタコーヴィチの証言』については、また別の機会に改めて)。
社会主義体制が崩壊した1991年以降、資料やその検証によって明るみに出たことも多いが、真相解明には時間がかかるだろう。
さらに言えば、それが解明されたところで、彼の作品の価値や意義がどう変わるのか?変わらないのか?というのは、結局のところ聴き手それぞれの受け捉え方によるのではないか?と思う。

「音楽と政治」については、知識としてその関係を知っていることは決して無駄ではないが、「音楽を聴く」という純粋な行為の妨げになることは避けなければいけないと思うのだが、いかがだろうか?

そういう意味も込めて、今回はショスタコーヴィチの作品を鑑賞し、楽しむためのアプローチとして『交響曲第4番 ハ短調 Op.43』について綴り、実際の音盤もご紹介したいと思う。

交響曲第4番 ハ短調 Op.43

『交響曲第4番 ハ短調 Op.43』は1935年9月から翌年5月の約8か月間で作曲された。ショスタコーヴィチにしては作曲に時間がかかった部類に入る。
そして、その編成は全15曲の交響曲の中でも最大であり、指示通り演奏するためには134名を必要とする。
グスタフ・マーラーの交響曲に影響された形跡がこの作品にはある。ショスタコーヴィチは作曲中、手元にマーラーの交響曲第3番と第7番のスコアを置いていたと言う。実際、出来上がった作品にはマーラー作品のメロディのパロディーや引用もある。

曲は3楽章からなり、全曲を演奏するのに60分強を要する。
交響曲の伝統的な4楽章形式ではなく、そのバランスも第1楽章と第3楽章が巨大で、間に挟まれた第2楽章がその3分の1程度の演奏時間、といういびつな形だ。

こうした曲そのものの特性とは別に、この作品はその存在そのものと、時代や政治との関連に根深いものがある。

作曲され、初演日も決定し、最終リハーサルまで終えたにもかかわらず、ショスタコーヴィチ自らの意思で初演は撤回され、その後25年、この巨大な作品が陽の目を見ることはなかった。
そこにソビエトとショスタコーヴィッチの間に横たわる「音楽と政治」の問題が明確に存在し、作品は翻弄されたのだ。

スターリン粛清、プラウダ批判

1936年1月と2月、つまり『交響曲第4番』の作曲を終えた後のことだが、共産党機関紙「プラウダ」が34年、35年に初演されたショスタコーヴィチの作品、歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』バレエ『明るい小川』を批判した論説を掲載した。いわゆる「プラウダ批判」である。
「音楽のかわりに荒唐無稽」というタイトルの下、ムツェンスク郡のマクベス夫人』は「社会主義リアリズムを欠くブルジョワな形式主義的な音楽」と論評され、『明るい小川』の論評には「バレエの偽善」というタイトルが掲げられた。
当時のショスタコーヴィチは西洋モダニズムに影響されており、幸か不幸かこの2作品は一般聴衆から好意的に受け入れられた。
当然、プラウダの批判はソビエト共産党書記長スターリンの意向に沿ったものであり、そのスターリンは悪名高き「スターリン粛清」を行い、80万人近い人が処刑され、処刑されずともシベリア送りにされた人も数多い。
実際、ショスタコーヴィチの近親者にも逮捕された者がおり、ショスタコーヴィチも自らの身の危険を感じていた。
既に作曲が終わっていた『交響曲第4番』もモダニズムの影響を受けて作曲されており、「これを初演したら・・・」という気持ちがはたらき、初演が撤回されたのだ(初演が見送られた理由については、これ以外にも諸説ある)。

名誉回復

「社会主義体制の反逆者」という烙印を押される形、レッドカードに極めて近いイエローカードを掲げられたショスタコーヴィッチにとって、行うべきは名誉回復のための作品発表であった。
そして、その一つであり決定打として発表されたのが『交響曲第5番 ニ短調 Op.47』だ(日本では長く《革命》と呼ばれているが、これはベートーヴェンの《運命》作曲者本人の命名ではなく、そう呼称するのは日本や韓国などに限られている)。
今やショスタコーヴィチの代表曲であり、最大の人気曲となったこの第5番は、第4番のようないびつで複雑な音楽ではなく、4楽章形式で書かれ、楽章間のメリハリも付けられた作品だ。
メロディアスで親しみやすく、特に第1楽章冒頭の苦悩、悲壮を感じさせる主題や、最終楽章の勝利を宣言するような勇ましい音楽は、ベートーヴェンの《運命》と同じように「苦悩から勝利へ」といった図式で分かり易い。

初演は1937年11月21日 レニングラード(現サンクトペテルブルク)で、行われ大成功に終わり、「社会主義リアリズムの最も高尚な具現化」と大絶賛された。これをきっかけにショスタコーヴィッチの名誉は回復されていくことになる。

ムラヴィンスキー

この『交響曲第5番』の初演を指揮したのは、エフゲニー・ムラヴィンスキー。彼の下、絶対的僕であり、ソビエト最高のオーケストラであったレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団が演奏した。
ムラヴィンスキーはショスタコーヴィッチより3歳年長で、この初演が初対面だった。
しかし、この初演の大成功により二人の絆は強まり、その後、第6番、第8番、第9番、第10番、第12番の初演は、ムラヴィンスキーが指揮にあたった。そのうち第8番はムラヴィンスキーに献呈されている。
音楽が美術や文学とは異なり、「再生芸術」であるという点において、作曲家ショスタコーヴィッチと指揮者ムラヴィンスキーの関係性は理想的なものだったと言えよう。

交響曲第5番の世界的人気

「社会主義リアリズムの具現化」と称賛された第5番が、旧西側諸国でも高く評価され、発表以来ショスタコーヴィチの全作品の中で最も演奏されている作品である、という事実は面白い。特にアメリカでの人気が高いという事実・・・。
その代表例がレナード・バーンスタインだろう。彼がニューヨーク・フィルハーモニックと録音したレコードは大ヒットし、バーンスタインは大きな身振り、時には指揮台で飛び跳ねるような、彼独特のスタイルで熱演し、大喝采を浴びた。

イデオロギーに関係なく、オーケストラのヴィルトゥーシティを見せつけるのに最適で、音響的演奏効果が高いというのもその理由であろう。
余談だが、「バーンスタイン最後の弟子」と言われる佐渡 裕が、ベルリン・フィルハーモニーの定期演奏会に登場した際、メイン・プログラムとして取り上げたのがこの交響曲だった。

また、音楽監督を務めるボストン交響楽団とショスタコーヴィチの交響曲録音チクルスに取り組んでいるアンドリス・ネルソンズの第5番も最近のショスタコーヴィチ演奏の好例と言われている(第4番も録音している)。

ライブ録音されたこの音盤で、最終楽章が終わるのに被るように盛大な拍手が起こるのを聴くにつれ、アメリカでのこの作品の受容のされ方について改めて認識する。
ネルソンズはエストニア、リトアニアとともにソビエト連邦の一部として統治されていたラトビア出身である。
1991年8月20日、このバルト三国独立がその後のソ連崩壊の引き金になった。
そう考えると、ソビエトを代表する作曲家の世界的大ヒット作品を、かつてソビエトに支配された国の、そして現代を代表する指揮者が、冷戦時代にソビエトと対立したアメリカの名門オーケストラを指揮して演奏、録音する、というのは何とも言えない感慨がある。

1961年12月30日 初演

一旦は『交響曲第4番』の初演を取り止めたショスタコーヴィチではあったが、決してその演奏、発表を諦めていたわけではなかった。「失敗作」と自身では語っていたというが、一方で「この作品は自らのクレド(信条)」と言い、「この作品が好きだ」とも言っている。

1953年にスターリンが没し、フルシチョフが共産党第一書記に就任し、スターリン批判を行い、ソビエトの政治状況も変わった。
そんな中、第4番の総譜はナチス・ドイツのレニングラード侵攻により既に失われていたが、モスクワ・フィルハーモニー協会とモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者であったキリル・コンドラシンらの努力により、残されたパート譜によりそれを復元。作曲から25年にして『交響曲第4番』初演が計画された。
ショスタコーヴィチ自身は当然のように、初演をムラヴィンスキーに依頼したが、彼はそれを謝絶した。
第5番や第8番を頻繁に演奏会で取り上げ、その録音も数種類残っているのと較べて、ムラヴィンスキーが第4番を取り上げたという記録は残っていない。

結果、1961年12月30日、この作品に光を当てた功労者の一人であるコンドラシンがモスクワ・フィルを指揮し、『交響曲第4番 ハ短調 Op.43』は初演された。
そのほぼ2か月前の1961年10月31日、それまでレーニン廟で保存されていたスターリンの亡骸が、スターリン批判の煽りを受け撤去、焼却されていた。

そして、コンドラシンとモスクワ・フィルは、翌年早速この曲をレコーディング。もちろん、世界初録音だ。
コンドラシンはこの録音を振り出しに交響曲全集の録音を進めていき、1975年に『交響曲第7番ハ長調 Op.60《レニングラード》』の録音を終え、13年かけてそれを成し遂げた。こちらもレコード史上初の交響曲全集であった。
私が中学生の時には、既に全集としてコンドラシンのショスタコーヴィチを手に入れることはできたが、10代の子供には値段も内容も身の丈を超えていた(と言いつつ、タネーエフ四重奏団の弦楽四重奏曲全集は迷わず買った)。

私がコンドラシンの全集を入手したのは今から十数年前、韓国からリリースされたCDによってであった。

とにかくその演奏は鉄の塊のような重たく、鈍色で切れ味も鋭い、手強い音楽だった。
ショスタコーヴィチの交響曲全体に現れる空気を切り裂き、閃光で目くらましをされるような音楽に、耳が切り落とされるのではないか?と思ったほどで、長大な交響曲を通して聴くのは苦痛な場合もあった。
ブルックナーの長大な交響曲を聴く時には絶対あり得ない、マーラーでさえそうは思わないが、ショスターコーヴィチの交響曲は、少なくとも日常の音楽には思えなかった。コンドラシンの全集は言わば「資料」の立場に甘んじるCDだった。

しかし、第5番、そして第8番《レニングラード》以外にもショスタコーヴィチの交響曲が、旧ソ連や旧東ドイツ以外のオーケストラのレパートリーとして取り上げられるようになり、ベルナルト・ハイティンクを始めとし、西側の指揮者の、ソビエトとショスタコーヴィチの関係をことさら強調しない、純粋に音楽的価値に焦点を当てた演奏、録音、そして全集が作られていった。
既に音楽史的絶対的評価が確定されている17世紀~19世紀の大作曲家やその作品とは異なり、まさにその評価が様々な演奏や録音により、グローバルで、ダイバーシティーな価値観により下されていく過程を、目前で眺め、聴いている、という体験。これがショスタコーヴィチを聴く最大の楽しみ、というかショスタコーヴィチでしか味わえない体験のように思う。

そんな中、『交響曲第4番 ハ短調 Op.43』の演奏機会や録音は決して多いとは言えない。
しかし近年、日本でも井上道義と大阪フィルハーモニー交響楽団、アレクサンドル・ラザレフと日本フィルハーモニー交響楽団による素晴らしいライブ盤なども登場し、徐々にその存在が認められてきた。

「ショスタコーヴィチの、そして20世紀に生まれたあまたの交響曲の中で最高峰に位置する作品」という評価もある。

【ターンテーブル動画】

コンドラシンとモスクワ・フィルによるショスタコーヴィチ『交響曲第4番 ハ短調 Op.43』の世界初録音盤。
先日、中古レコード店でそのオリジナル盤のモノラル・バージョンを安価にて購入した。
もちろんステレオ録音も残されているのだが、メロディアの青松明レーベルのモノラル盤は、ステレオ・バージョンで痛い思いをした手強さを感じなかった。モノラルの古めかしく、丸みのある音がそう思わせるのかもしれない。しかし、その太い鉄製の柱が立ち上がり、一点集中で迫りくるような感覚は、この音楽にしっかりと向き合うにはお誂え向きのように思える。

そんなコンドラシンも最終的にはソビエトを去る決意をし、1978年にオランダ滞在中に亡命。
より彼の凄さを世界に知らしめることになるはずだったが、1981年3月7日、心臓発作で急逝した。67歳だった。
その前からアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団やウィーン・フィルハーモニ管弦楽団とのセッションもレコード化され、翌82年にはラファエル・クーベリックの後任として、バイエルン放送交響楽団の首席指揮者という重責を担うことになっていた。
タラレバは禁物と思いつつ、彼がショスタコーヴィチ他のロシア音楽のオーソリティという枠だけに収まる人では決してないだろうと予感し、期待していた音楽ファンには痛恨事であった。


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