障碍者 Disabled person

言葉って、自分を表したり、何かを伝えたり、受け取ったり、他者を理解したりするための道具のひとつだとおもうのです。
言葉以外にも、動作や、目の表情、音にならない言葉などで、
気持ちを伝えたり、受け取ることを日常的にしています。
むしろ、言葉以外の表現の方が多いのではないかしら。
そして言葉以外の表現の方が、表現している人の本心だったり
受け取る人の無意識のバイアスの影響を
強く受けるのではないかしら。

人の数だけ、表現の仕方や受け取り方があるのだと思います。
それは、育ってきた環境、文化、持っている語彙の数、
その時の状況、物事に対する認識、信仰、信条、
などなど星の数ほどの設定が考えられると思います。

たとえば、
世界の共通語は英語にしましょうね、と言われていても
正しい英語を話しましょう、というわけではないと思うんです
基本的には相手に伝わればいいのですから。
言語の懐は私たちが思うより深くて広いと思うんです

前置きはここまで、
表題の障碍者とDisabled personという言葉について話します

まず、Disabled personについて、
これは直接的な表現で差別的な意味合いもあって、
使うには適切ではないと、今までは思っていましたが、
カレッジで学んだことと、現在の様々な人の発信に触れることで
認識が大きく変わりました。

カレッジで習った英語の表現には二つあります
「Person-first language」と」「Identity-first language」

「Person-first language」は人が最初に来る言葉なので
A person who blind、Student with a wheelchairやA person with disabilityとなりまして、
会話や文章の中で、人として尊重し、汚名を着せたりするような状態を避けるという価値があります。
特に、小さな子供について表現するときには「Person-first language」が勧められるようです。

これが、思春期以降の子供や、大人の当事者であったり、特定のコミュニティ自身の見解によると、
「Person-first language」を否定する声が一定数あるのです。
これには私は驚きました。
それらの声は、
自身や、自分たちの今の状態を人格や文化の一部と捉え、誇りと尊厳を持ってその状態を最初に持ってくる言葉を使うのです。
それが、「Identity-first language」です。
Disabled personやAutistic personやDeaf communityとなります。

こうなると、どちらが正しい、ということではないですね。
迷ったらどうしたらいいのでしょうか?

「どのように呼んでもらいたいか、当事者に聞く」

これが一番相応しいのではないでしょうか。
先に言ったように、
人の数だけ、受け取り方があります。
同じ人でも状況によっては違う受け取り方をします。

たとえば、私は日本人で、カナダに住んでいます。
カナダ人の友達とテニスをしている場面で、
「She is Japanese person」と言われると少し違和感を感じます。
なぜなら、テニスを楽しむときに国籍は関係ないからです。
スポーツ、音楽、ゲーム、仕事、学習などは
国籍や文化を超えて他者と繋がり、楽しむことができますよね。

ですが仕事以外の日常や文化交流や自分を表現する場面では、
「Japanese person」と言うことで自分の言動に説得力を持たせることができます。
なぜなら、日本で生まれ育った日本人であるという人格によって今の私の言動が作られているのは事実ですし、
私自身それを誇りに思っているからです。

ちなみに、
息子はカナダで生まれ育ったカナダ人でもあり、日本の国籍を持つ日本人でもあります。
日本の法律によると成人後2年の間にどちらか選ばなくてはなりません。
まだ数年ありますが、どこかのタイミングで、彼のIdentityに対すり思いを聞けたらいいなあと思っています。

そして次に、
障碍者(しょうがいしゃ)という言葉です
障碍は明治の初め頃まで使われていて、障害とほぼ同じ用途で使われてたそうですが、
意味はちょっと違います。

  月刊「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年3月号
障害者の害の字は変である「害」ではなく『碍』がいいと考える/李鐘成
https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n296/n296013.html
より引用させていただくと、

碍:物事のじゃまをする・さまたげられる。また、そのこと。さしつかえ。   「碍」は「礙」の俗字です。
害:悪い状態にする。がいする。そこなう。災難。また悪い結果・影響。がい。殺す。がいする。

「碍」の本来の意味は「何かしたくてもできない状態」の意味合い。
「害」とはものごとを「傷つける」という他動詞的な漢字であり、他に対して危害を与えること。

実は、戦前まで日本では「しょうがい」を「障碍」や「障礙」と書いていました。しかし、戦後現代国語を書き表すため、日常使用する漢字の範囲を政府が告示した当用漢字と定めた1858字の中に「碍(礙)」という字は入りませんでした。
入らなかった理由として考えられるのが、「障」と「碍(礙)」が共に「さしつかえる」という意味の単語であり、共に、「何かを行うときに差し支えること」を指す時に使うからのようです。
たぶん、ここに原因があると思います。これにより、二つ重なってしまった自動詞のうち「碍(礙)」が当用漢字から外れてしまい、「碍(礙)」と同じ発音の「害」に置き換えられた(当て字として使われた)との説があります。
(引用ここまで)

個人的には、まだまだまだまだ勉強不足なのですが、
障碍者という文字を使っていこうかと考えています
「しょうがいしゃ」という言葉自体がよくないといわれることの理由の一つに、「害」という字の意味が影響してるのではないでしょうか。
「障碍」という文字には、
できないことがあるのは本人のせいではなく、
社会や環境に妨げらているという意味もあると思うんです。

タイピングしてて、「しょうがい」と打ち込むと
「障碍」と出てきますから
使わない手はないですね^^

あらためて言いますが、
言葉は道具のひとつです。

「言霊」「言動」という文字があるように

言っていることにどんな霊をのせるのか

言っていることにどんな動きがともなうのか

言葉を使うときに心に留めたいと思います

そして

言われたことにどんな霊がのっているのか

言われたことにどんな動きがともなっているのか

他者を理解するときに心に留めたいと思います


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