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周囲に内緒で、薬物を使用していることが、どんどんつらくなっていき、人にウソをついているようで悲しくなった。そして、日を追うごとに自暴自棄になっている事を分かっていながら、止めることができなかった。 事件後、大切にしていたものが、どんどん失われた。最後に残ったのが食欲だった。「死にたい」「消えてしまいたい」と思っても、規則正しい生活と定時に運ばれてくる食事が、私の肉体と精神を正常な状態に戻そうとした。 今でも食欲がある自分を恥ずかしく思うことがある。心の闇からネガティ
家庭で自分の居場所がなく、夫婦喧嘩や家族との衝突が絶えないことを学校や同級生に知られたくなかった私は、とにかく明るく無邪気に振る舞い、何も問題はないと自分にウソをついて誤魔化すことに専念していた。 小学校の卒業文集に「夢」と一言書いたのを覚えているが、本当は将来、自分が何をしたいのか、理想の未来はどうなっているのかが思い描けず、現実的な夢を持つことよりも夢物語の中に自分の居場所を作ることが、楽しみだった。 私が物欲で心を満たしたり、他者との関係を割り切ったりすること
自分のやりたい事が親の影響で出来ないと思い込み、我慢して暮らすことが多かった。このフラストレーションは、両親の支配から離れるとすぐに解放へと変わり、その思いを発散することで自分を満足させるようになった。 しかし、それが自分の幸せと直結していないことに虚しさを感じ、その虚しさを埋めるために、いつの間にか大麻を使用していた。 大麻の効果に浸り続けるうちに、自分の心を癒す手段として他のものを考えられなくなった。思考パターンも大麻の影響を受けるようになり、次第に自分に自信が
精神活性物質の使用によって別の人格が体内に入り込んでしまい、その体験を通して別の次元に存在するものたちとの交流やヴィジョンを通して情報を授かり、あるサイトに導かれた。 精神疾患で見られる症状と同じ症例があったため、私もその一人にさせられたのだと思う。面談では発言しか認められず、根拠となるものを提示する権利が与えられていなかったため、どうすることもできなかった。 病棟の人たちと交流し、プログラムを進めていくうちに妄想では片付けられないような話や共通点がある。 神経
集団生活の中ではどうしても他者との摩擦や衝突は避けられない。そうなることが悪いことなのか、そうならないことが良いことなのかと問われれば、どちらでもない。「自分だったらそうはしない」という状況を目の当たりにすると、見守ることができず、当事者以上にアツくなってしまうことが多かった。 そのとき自分の中で相手が悪者になっていることに気が付く。正論を振りかざすのが得意なので、油断すると今でもやらかしてしまう。その行動について注意するだけでなく、なぜそのような行動をとるのかについて
「結果について計画をたてるのはやめよう」という文章を目にして、色々考えることになった。そういえば、結果という予測や目標の中で計画を立て、その数字に踊らされた生活に恐怖を感じていた。 今はそういったものに振り回されることはないが、「結果を求めた生活をしなくなったか?」といわれれば、まだまだそんなことはない。 「なぜそうなってしまうのか?」と振り返ると、自分の思考や行動の証明に「対価(見返り)を求めてしまう」傾向に問題があることに気づいた。それが「エゴ」と呼ばれるものの正
依存症からの脱却は自立することか?というと、そうじゃない気がするが、「依存症は一生治らない」と医者に告知された時、奈落の底に落ちたような気がした。 「これから一生悩まされるのか」と考え込んでしまった。そして、それを受け入れることができなければ、違う何かに依存してしまうのではないか?という不安に駆られた。 自分にそのような傾向があることをどれだけ自覚し、それが問題になるのを防ぐ方法を見つける覚悟ができているだろうか?人生は自分の再発見の連続だった。 自分を内観し
気持ちの行き交う施設生活の中で、仲間を疑うという行為はとても傷つくものだと痛感した一日だった。自分も「集団生活の一員」であることを自覚して行動しようと思った。私はそれを書き留めて心に刻むことにした。 特に施設内ではルール以上にコミュニケーションや気持ちの貸し借りが行き渡っている。そのような環境では、集団心理の一環として派閥を形成して自己を守ろうとする人間もいれば、他者を攻撃することで力づくで自らの身の安全を奪おうとする人間もいる。 仲間たちの行動を見ていると、人は変
一番つらいことは、自分の生き方を貫き通すために、自分の行動の結果を考えなかったために巻き込まんでしまった人たちがいることだ。しかし、他者を傷つけずに生きていくのはとても難しい。 過去を振り返れば、私たちは何度も同じ過ちを繰り返してきた。そのことを肝に銘じ、思い出にするのではなく、情緒不安定な面が出てきたときのアンカーとして、記憶の片隅に留めておく必要がある。 何のためにそうするのか?過去に埋没して自分を憐れむ想いににふけるためか?今までは、きっとそうだった。しかし今
24歳のときから保険代理店を経営していたので、常に自分の能力と行動で問題を解決することを求められていた。また、自分で解決した方が良い結果が得られるという驕りもあった。 今までの生き方を振り返ってみると、好奇心旺盛でお節介なところがあり、それをセールスポイントにして仕事をしていたが、見直す必要性を感じた。それが生きにくさにもつながっていたからだ。 他人の評価を自分の成果や報酬として受け止めてしまうと、その行為が期待や不安を膨らませるきっかけになっていた。 集団生活
信念は、逆境や試練といった感情的・身体的危機の際に、自分がどう考え、何を感じるかを、普段より詳しく観察することで確認する必要がある。 そのときに有効な時間とオープンマインドを持つためには、できるだけ自分に余裕を持つことが解決への道だとわかっていても、そこにジレンマを感じることがある。 望まない状況や結果を目の当たりにすると自己否定や自己卑下に陥り、その過程で自己否定が私を際限なく駆り立て、その影響下でさらに毒素に浸ることに慣れてしまった。 最近の出来事で思い知ら
怒りや憎しみの感情が沸き起こるのは、自分が弱く、能力や精神力が足りないせいだと考えていた。さらに、思考は怒りや憎しみを正当化し、正当化するために働いていた。 どこかでそれは分かっていたのだが、自分の都合のいいように解釈していたように思う。その過程で感じた悲しみや虚しさの世界にも浸っていたのかもしれない。 だからこそ、自分の心の闇から目を背けず、観察することを怠ってはならない。ようやく、自己否定や自己卑下に陥る前に、自分の感情に気づく時間を確保することができるようにな
いつも頭の中で考えてばかりで、静かな時間があるのかと思うほどだった。このところ落ち込んでいた。耳を澄ます時間がなかったら、きっとまたごまかしていただろう。しかし、過去を振り返れば良くなったほうだ。 そしてしばらくすると、深く傷ついていたことを痛感する。いつも後から気づくので、油断すると虚無感に飲み込まれそうになる。 集団生活の中で孤独を感じることもなく、つらい状況もないのだが、どこかで何かを求めている。答えは分かっているのだが、今はそれを求めることができず、求めると
今朝の出来事だ。別の所轄の入寮者が施設を飛び出し、そのまま自ら命を絶ったと聞いた。施設から逃げたり、警察に捕まったりする仲間の話はよく聞くし、入寮後に誰かが亡くなったのは初めてではないが、このような形で起きたのは初めてだった。 この人とは前日のイベントで会ったが、話しかけはしなかった。その人はとても警戒心が強くて近寄りがたかっただけでなく、独特な風貌だったので私は彼を受け入れるのに苦労した。 もしかしたら、そうしたものが、その人にとって自己表現やアイデンティティの象