枝豆と、さやと、そのゆくえ
2週間振りにアルコールを飲んだ。
言い方を変えれば2週間で禁酒が終わったとも言えるし、どこかで、どうせまた飲むだろうなぁと思っていたから、ある意味では、ただただ2週間振りに飲んだという話でもある。(これを言い訳と呼ぶのだろう)
今日は外で飲んでたが、2週間前までは、ほぼ毎日家でも飲んでいた。
飲むと言っても、350ミリ缶一本とか、ウイスキーをちょっととかなので、そんなに多い量ではなかったが、飲まないとなんだか一日が終わらない気がして、習慣的に飲んでいた。
飲んでいると、やっぱり、ちょっと口が寂しくなるわけで、なんらかのつまみが欲しくなる。
かと言って、寝る前なので、そんなにジャンキーなものも食べたくない。
するめを食べたり、アーモンドを食べたり、ブルーベリーを食べたり、色んなものを試してきたが、結局、僕が最後に行き着いたのは、枝豆だった。
昨日も、なんだかちょっと飲みたくなったので、スーパーに行ってはみたが、やっぱりやめようと思って、ノンアルビールを手に取り、買い物かごに入れた。
そして、口寂しくなることを想定して、冷凍食品のコーナーに行き、枝豆を手にした。
家に帰り、早速缶の蓋を開ける。
プシュ。
この開けた時の感じは、やっぱり好きだし、やっぱり飲むのが楽しみだと思った。
例え、それが、ノンアルだったとしても、この感覚が好きだと思った。
一口飲んだ。
やっぱり、ちょっと物足りない。
でも、雰囲気を味わうだけなら十分だ。
十分に、いや、十二分に、美味しい。
ついでに、買ってきていた、枝豆の袋を開けた。
枝豆を一つとり、さやの端っこを指で押し、口の中に豆を放り込んだ。
口の中に豆が転がった。
噛んだ。
久しぶりに食べる枝豆は、当たり前だか、やっぱり、美味しかった。
美味しくて、次々と口の中に放り込んだ。
殻入れ用に置いておいた皿の上に、食べ終わった枝豆のさやが、どんどん高く積まれていくのがわかった。
そして、そのさやの積まれていた皿を見て、ふと、思った。
「枝豆ってほとんどが殻やん」
僕は、一袋、400グラムの冷凍枝豆を買った。
積まれていく、空のさや。
もちろん、わざわざ計る気はないけど、この殻は、この400グラムのうちのどれだけを占めるのだろう。
そんなことを思った。
ケチと言えば、ケチなのかもしれないが、単純に、枝豆の可食部分の少なさに、今更ながらに気づいた。
ついでに言えば、恥ずかしながら、未成熟な大豆が枝豆だという事実は、数ヶ月前に知った。
一緒に住んでるシェアハウスの仲間に、「大豆って何からできてるか知ってる?」という質問を受けて、初めて知ったことだった。
積まれていく、空のさや。
僕は、1ヶ月前ぐらいから、肉をやめている。
理由は、環境問題である。
家畜が、環境に与える影響は果てしない。
げっぷやおならのメタンガス、大量の穀物の消費、大量の水の消費、育てる場所を確保するために切られる木々。
物のように生産され、処理されていく動物の命は、倫理的な視点からも、一個人としては食すのをためらうようになってきた。
そんな中で選んできた、おつまみが、枝豆だった。
でも、この皿に積まれた枝豆の殻を見て思った。
「もし、このほとんど可食部分のない枝豆をここまで食べて、これを生ゴミとして捨てたとしたら、これだけの水分を含んだものを燃やすのに、どれだけの化石燃焼を使うのだろうか」と。
もちろん、これを、考えすぎと言えば考えすぎなのだろう。
こんなこと、いちいち考えていったら、何もできない。
その通りだと思う。
でも、想像してしまうのだ。
気候変動のために、良かれと思って肉を避けてきたのに、その選択は実は逆効果になったりはしていないだろうかと。
僕は、コンポストもやっているが、ここに入れたところで、どう見たって、枝豆のさやの分解スピードは遅すぎるに決まっている。
気候変動による世界的なプラントベースの食の普及を考えれば、大豆ミートを始めとした、大豆製品の消費が今後爆発的に増えていくのは、容易に想定できる。
でも、使うのは、あくまでも、豆の部分。
一体、大豆農家の人たちは、さやの部分をどうしているのだろう。
ゴミとして燃やしているのだろうか。
もし燃やしているのだとしたら、それを燃やす燃料には何が使われているのだろうか。
それは化石燃料なのだろうか。
何か、さやのいい使い道はないのだろうか。
さらに言えば、僕が買った枝豆はタイ産だった。
この枝豆を生産しているタイの農家さんは一体、どんな生活をしているのか。
ちゃんと対価はもらえているのだろうか。
どんな環境下で育った枝豆なのだろうか。
どういう物流を経てここまできたのだろうか。
そのトラックの燃料は何で、トラックの運転手さんにはどんな人生があって、その家族にはどんな人生があるのだろうか。
毎回ではないが、そんなことを、考えてしまう時もある。
何度も言うが、そんなことをいちいち考えていたら、何も買えない。
そんなことはわかっている。
でも、この、今、口にして美味しいと思っているこの幸福は、こんないい時間を過ごさせていただいてるという幸せは、一体どんな過程の上に成り立っているのか。
それを全く考えずして、思いを巡らせずして、ただ、のうのうと享受することは果たして、自分の在りたい姿なのか。
そんなことを思う。
「考えたところで、選んで食べているのはお前だろ」と言われればその通りだし、それに対して何か出来ている訳でもないが、少なくとも、僕は、選択するということに関して、物を買うということに対して、年々慎重になってきている。
何かを買うと言うことは、選択している訳であり、それは、それを支持している、応援しているという意味に他ならないからだ。
「一体、自分は、どんなことを、どんな人を応援したいのだろう」
そう考えると、元々物を持ちたくないという部分もあるが、尚更、慎重にならざるを得なくなってきている。
なんて、偉そうなことをガタガタ言いながら、家に帰ってきて、今しがた、2本目のビールのタブを開封しているという自分の意思の弱さには、ただただ、驚くばかりであり、もうすでに、枝豆を欲している自分が、ここにいる。
見ていただけたことが、何よりも嬉しいです!