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虚無感と作品と僕と君

「何で生きてんだろう」
ふと、そんなことを思う。
「ふと」と言ったが、実際は、かなりの頻度で思う。
全てが虚しくなって、全てがどうでもよくなる。
そんなことがよくある。
もし、この感覚が鬱であるなら、もしかしたら、僕は常時、軽い鬱なのかもしれない。

往々にして、急に時間ができた時とかに、そんな感覚が勢いよく舞い込むから、それは、きっと、暇が故なのだろう。
だから、解決策は簡単だ。
何か、無理にでも用事を作ればいい。
別に、外に行って散歩するのでもいいし、何も買わなくてもウインドーショッピングでもしてればいいし、都合の合う人がいるなら会ったっていい。
映画なんて見てたら、2時間も潰せるし、見てる間に気分でも変わったりするだろう。
長年の時を経て、この自らの中に生まれる虚無感を飼いならす術を、何とか身につけてきたような気がする。

でも、やっぱり改めて思うのは、この誤魔化さなきゃやっていけないほどの、この虚無感は一体何なのだろうということ。
この虚無に出会う度に、ある種の「生きている」という実感が欲しいんだろうなって思う。
生きる活力というか、情熱というか、目的というか、そういうのがないと、人はこんな感覚に陥ってしまう。

数ヶ月前から、フレキシタリアンになった。
フレキシタリアンは、基本は植物性食品を食べて、肉や魚、卵、乳製品は時と場合に応じて食べるというものだ。
きっかけは、家畜が気候危機に大きな影響を与えることを知ったからだ。
元々、肉や乳製品はあんまり好きじゃなかったし、自分で魚や卵を買うこともなかったから、比較的すんなり移行できた。
何なら前とそんなに食生活自体は変わっていない。
でも、前以上に、「たまには肉食べたいなぁ」なんて思うこともなくなった。
友達との食事の中で、肉や魚が提供されることもあると思うので、一応自称フレキシタリアンとしている。

あとは、まだ、1週間ではあるが、フレキシドリンカーになった。
「フレキシドリンカー」なんてフレーズをさらっと言ってはみたが、僕の造語である。
別にかっこいいものでも何でもなく、ただ、基本はお酒を飲まず、たまに飲むというだけのことだ。
元々は、アルコールが弱いくせに、よく飲んでいた。
というか、男同士で遊ぶってなったら基本飲むしかない。
家でも、ウイスキーとかを買って、ちょっと寝る前に飲んでいた。
日々ストレスがあるのかわからないけど、お酒を飲みたいという衝動は、きっと、何か開放したいという感覚がもたらすものだと思うので、溜まっている何かがあるんだと思う。

きっかけは、先週の月曜日のこと。
朝、電話で目が覚めた。
何かと思って出たら、上司だった。
僕は思わず、「休みなのにどうしたんですか?」と言ってしまった。
すると上司は「え、月曜だけど」と返事をした。
訳がわからなかった。
それが、寝坊であるということに気がつくまで、1分ぐらいかかったと思う。
そこから急いで、準備をして、オフィスへ向かった。
前日の夜、確かに、ウイスキーを飲んでいたが、そんな大した量でもなく、12時すぎには寝たので、普通に起きても7時間は寝られる状況だった。
にも関わらず、5度のアラームを完全無視し、その後の上司からの電話でも、しばらく気づかなかった。
挙げ句の果てには、その日は気持ち悪すぎて、何も仕事が手につかなかった。
そんな、状況に自分の驚いて、なんか、お酒を飲むのが、ちょっと怖くなった。

これまでの人生の中でも、何かやらかしては、「お酒やめる」と言って、すぐに飲み始めるという茶番を、幾度となく繰り返してきたが、今回は、今までの感覚とはちょっと違うような気もしている。
お酒をやめてから、早寝早起きになり、体調がいいということも、その理由にあるのかもしれない。
ちなみに「フレキシ」としたのは、結婚式などのお祝いの場では、さすがに飲みたいなぁと思ったからだ。

そんな話を、友人にしたら、「肉もやめて、お酒もやめて、何を楽しみに生きるの?」と聞かれた。
「確かに」とは思ったが、果たして、肉とお酒は、僕にとっての人生の楽しみだったのだろうか。
そう言われると、さらに、思う。
「僕の人生にとっての楽しみとは一体何なのか」
物欲もさほどないし、特別、何か使命感があるわけでもない。
どうしてもやりたい何かがあるわけでもない。
色々と何かをやっているのは、その方が落ち着くからであって、一つのことにも集中もできないし、僕なりのバランスの取り方なんだと思う。
そう考えると、それもまた、この虚無感をどうにかやりくりするための方法のようにも思う。
自らの身を守るために、色々なことをやっているのかもしれない。
自分に、変な隙を与えないように。

と、こうして、何の変哲もない日記を書くこともまた、僕にとっては虚無とのソーシャルディスタンス的な働きになっているのかもしれない。
だから、以前記事で書いたが、「作ること」が大事なんだと思う。
少なくとも僕にとっては。

作った後に残る作品や状況が、どんな意味を持つのか、どんな価値を持つのか、それが社会にどう影響していくのかなどに、僕は全く興味がない。
むしろ、極端な言い方をすれば、そこに対しては無責任でいたい。
だから、その出来上がったものの、クオリティも、意図も、辻褄も、整合性も、起承転結も、誤字脱字も、成功も失敗も、究極は全部どうでもいいと思っている。
「作るという」その行為そのものに、価値がある。そう思っている。
その吐き出された感情を形にした時に訪れる、刹那の静寂に意味があり、次に生まれたモヤモヤに意味があり、生まれた循環らしき何かに意味があり、感情が生み出した作品を通じて、可視化された自分の感情と対峙することに意味がある。
そう思う。

だから、やっぱり「何で生きてんのか」なんてことはわからない。
でも、一つ言えることは、生きるために作っているという部分はあるような気がする。
作ることで生きていける。
オーバーに言うならそういう感覚かもしれない。
だから、生きる楽しみもよくわからない。
生きるという行為そのものが、僕にとっては最も重要な事項であるから。

また、一つ、取り止めもない、無意味で無価値な文章を生み出してしまったが、これもまた生きるための術である。
もしかしたら、作るというか吐き出すという行為の中に、僕はその人の生を見いだそうとしているのかもしれない。

見ていただけたことが、何よりも嬉しいです!