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生きる意味だとか 他

2024.05.24 夕方
生きる意味だとか

 友人から、既にもっている手札では限界があるから、雑誌やテレビを見るといい、たとえばコーヒーが好きなのであれば東京のカフェ百選みたいな雑誌を買って、休んでいる間にたくさん行ってみるといい、カフェとカメラの組み合わせなんて最高じゃないと言われた。たしかにそうだな、とは全く思えなかったけど、くれた助言や提案を否定することに意味はないし、言っていることはその通りだなと思ったので、役に立つだろういつかのためにメモだけしておこうと思った。メモだけと言いつつ、その翌日も翌々日も本屋に行ってみた。興味がもてる雑誌も特集もなにもなかった、わかってはいたけど、それを実行にうつす元気や活力はまだない。カフェを特集した雑誌も、ぼくの好きなコーヒー屋さんがひとつも載っていない時点で興味なんかもてないし、そもそもぼくが好きなのはカフェじゃなくておいしいコーヒーだった。今日食べるご飯も決められないのに、本屋まで行っただけえらいだろ。今度は大きめの本屋に行って、コーヒースタンドの特集を探してみよう。

 病院の先生に、この前提出した症状のチェックリストのようなものの結果が、先生が想定していたより悪かったことを聞かされた。ぼくもそんなに結果は重くないだろう、正直なところこの程度で休職するなんて甘ったれたことしてしまったなとさえ思っていた、だってこんなに元気じゃないか。先生に、焦らなくていいですからね、ちょっとずつでいいから治していきましょうねと言われて、怪我みたいなものかと思うことにした。

 症状のチェックリストに「じぶんに価値がないと感じるか、生きることに意味などないと感じるか」のような問いがあった。これを問われると、ぼくはこたえに困る。ぼくには楽しく過ごせる友達や困っているときに助けてくれる友達がいるし、働けばそれなりのお給料がもらえるし、趣味や目標もある。じぶんが素晴らしい人間だとは少しも思わないけれど、かと言って価値がないことはない、と思う。だれかと楽しく過ごした日々は、力をあわせて乗り切った日々はそれだけですでに価値だ、過去は決して揺らぐことはない。そしてそれらすべては生きることそのもので、それに意味がないとも感じない。だけどどうだろうか、結果として生きてきたことに意味を見出したいだけではないかと問われれば、なにも否定できない。だから、生きる意味だとか、そういうことは考えない。その問いこそ意味がないと感じる。ぼくはただ、まだ死にたくないから生きている。それは生きることに意味がないと感じていることの裏返しでもあるけれど、それでいい、生きることに意味なんかなくたっていいからだ。生きていることに意味がある。解像度を下げていた方が生きやすいことはたくさんある。

 小説を二冊読んだ。小説を書きたいと思った。そういえば、子どもの頃の夢だったことを思い出した。


2024.05.26 夜
自責のひと

「はやかわは自責のひとだよ、自責のひとはね、一割くらい他責にしちゃっていいんだよ、一年間だとね、だいたい一ヶ月くらいは他人のせいにしてていいってわけ」
 ぜんぶひとりで解決しようとしなくていいよ、それってはやかわくんはなにも悪くないよね、もっとじぶんのことを大切にした方がいい、そんなことまではやかわさんの責任にしていたらもたないでしょう、たしかにずっと言われていたけれど、じゃあだれがこの件を無事に着地させられるの、じゃあだれがこの事故を防ぐことができたの、じゃあだれが、だれが助けてくれるの、だれが助けてくれたのってずっと思っていた。いまこの状態になったのだって、周りは環境のせいだと言ってくれているけれど、ぼくは周りを上手く頼れなかったぼくのせいだと思っている。
 それが、ざっくり一ヶ月分くらいは他人のせいにしていいらしい、そうなのか、それは驚きだと思った。じゃあそうしようってすぐには変われない、考え方の癖をいじるのには時間がかかる。それからきっとこの話の大事なところは他責でいいということじゃない、不必要に自分を責めるなということで、自分を大切にしろということだ。まわりがずっと伝えてくれていたことだ。それがどういうことなのか、まだわかっていない。これが腹落ちしたら、きっと生きるのが幾分楽になる、のだと思う。
「世の中他人のせいにして生きている人間なんて沢山いるよ、いるでしょ、はやかわの周りにも」
 あいつとあいつとあいつか、いくつかの顔が思い浮かんだ、不愉快だった。


2024.05.29 昼
また繰り返して、そうやって

 いつかは働かなければいけない。はやく働かなければならない。
 テラスから見える空の青がきれいだ、雲が夏のかたちになりかけている、緑は青みを帯びた新緑になりきっている。夏が近くまできている。
焦らなくていいよと先生は言うけれど、貯金が徐々に崩れていくのもつらい、予定がないと布団から出られない日があるのもつらい、薬を飲みながらであれば働けるかもしれない、働かなければと焦ってしまう。それがいまの率直な気持ちだ。
 今日は寝ていられない日だった。それに加えて最近数少ない晴れ予報の日だったから、今日はぜったいに外出すると決めていた。寝不足の目をこすって身支度をして皮膚科へと歩く。特段肌がきれいなわけではないが、かといって比較的肌トラブルは少ない方だ。それなのに急に三つもニキビができては困る。年々ニキビ跡も治りにくくなっている。せっかく仕事がないのだから、病院に行って早めに治しておこうと思った。診察を受けて処方箋をもらった、それでもまだ十時前だ。いつものように二、三駅歩いたところで電車にのって、代官山へ足を運ぶ。ここに来ればなにか救われる気がする。しばらく散歩をして、テラス席のあるカフェにはいる。コーヒーがおいしい。浅煎りの豆から抽出したエスプレッソのアメリカーノがぼくの気分を幾分晴らした。
 冷静になってみると、いまはまだ働くべきではないとも思う。もう少し先生と一緒に健康を探った方がいい、ぜったいに大丈夫だ、よくなると先生も言っていた。餅は餅屋だ、先生が言うのだから間違いない。お金だって全部なくなるわけじゃないし、また貯めればいい、もう一生働けないわけじゃない、否が応でもいつかは働く。いまはとにかく休む時期だ、じぶんを責めることをしない、じぶんを大切にする、じぶんの心が好ましく動く時間や行動を探す、そういう時期だ。
 コーヒーが好きだと気付いた、文章を書くのが好きだと気付いた、読書がちょっと好きだと気付いた、散歩が好きだと気付いた、写真はあいかわらず好きだ、もっと上手になりたいと思っている、筋トレはまだあまり好きじゃないけれどなりたい姿がある、それを切望している。
 休み始めて三週間経ったけれど、これだけのことが思い出せたじゃないか。まだきっと思い出せることがある、新しい出会いだってある、狭い世界に塞ぎ込んでいたわけじゃない、ストレスの負荷でアンテナが折れているだけだ、体力ゲージがなくなって瀕死状態なだけだ。一年かけて忘れてしまった楽しいという気持ちを、気力を、クリアな視界を取り返すのにある程度時間は必要なのは仕方ない、焦らなくていいよという先生の言葉を頭の中で繰り返して、忘れて、また繰り返して、そうやって元通りになっていく。

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