見出し画像

あんまり帰りが遅いから駅まで迎えに行ったのよ(別居嫁介護日誌#12)

義父は物静かな人で、口数も少ない。何か質問すれば、丁寧に答えてくれるが、無駄話はしない。用件が終わると、「家内も話したいだろうから」とすぐ義母に電話を代わってしまう。とりとめもないおしゃべりはもっぱら、義母担当だった。

だが、その日は様子が違った。一通り話終えても、「家内に代わります」の定番フレーズが出てこない。義母はどこかに出かけているのだろうか。少しの沈黙があった後、義父が堰を切ったようにしゃべり始めた。

「最近、妻の様子がおかしいんです……。夜になると『おとうさまが帰ってこない』と言い出す。僕はね、家の中にいるんですよ。それなのに『いなくなった』と言って、家中を探しまわったりしている。そのうち、スーッと外に出て行くこともある」

おとうさん、こんなにしゃべる人だったんだ! というのがまず、最初の驚きだった。あっけにとられている私に、義父が畳みかけるように、義母の奇妙な行動を訴える。

「つい先日も、気づくと姿が見えなくなっていたんです。1時間ぐらい経って帰ってきたと思ったら、『あなた、どこに行ってたの?』と言うんですな。彼女曰く、『あんまり帰りが遅いから駅まで迎えに行ったのよ』と。無事だったのはよかったんですが、どうも話がよくわからない。頻繁にこういうことがあると、こちらも神経がやられてしまいそうで……」

おとうさん、それって世間で言うところの「徘徊」では……? でも、何をどう伝えればいいものやら。私が黙っている間も、義父は「おかしいと思うでしょ? おかしいんですよ」と繰り返している。こうなったら、イチかバチか勝負するしかないか。よし、言ってしまえ。

「おとうさん、おっしゃるようにおかあさんは、ちょっと心配な状態だと思います。ものは相談なんですけど、まずは家族だけで専門のドクターのところに行って相談しませんか。以前から私たちも少し心配に思っていて、実は予約をとってありました。まずは私たちだけで行って、その後ご相談するつもりだったんですが、おとうさんも一緒に行きませんか」

義父は黙って聞いていた。時折、「ほう」とため息のようなあいづちが電話の向こうから聞こえる。どう受け止めているのか、表情が見えないのでまるでわからない。祈るような気持ちで、もう一度聞いた。

「おとうさん、一緒に受診して、これからのことを相談しませんか」

義父の答えは「ぜひそうしたいと思います」だった。全身の力が抜ける思いだった。小さくガッツポーズ。よし、これで前に進める。念のため、義母が近くにいないことを確認した上で、受診の際の待ち合わせ場所など詳細を義父と相談した。

「おとうさん、待ち合わせはご自宅の最寄り駅でどうですか?」
「わかりました。家内には黙っておけばいいですね」
「そうです。ただし、ウソは最小限にしましょう。万が一、おかあさんにバレそうになったら、私と会うことは伝えていただいて大丈夫なので『仕事の相談に乗ってほしいと言われている』と説明してください」
「わかりました。そうしましょう」

おせっかいにもほどがあるが、「万が一にも義父が浮気を疑われてはならない」という思いがあり、「はじめての浮気教室」のようなやりとりになった。義父によると受診当日、義母には外出の予定があるという。「義母に内緒で、義父と受診」を実行するには好都合だった。

夫に報告すると「すごいな。よくあの親父を口説きおとせたね!」と、しきりに感心され、私は得意満面だった。義父との協力体制が組めそうな手ごたえも感じ、「大きな一歩を踏み出せた気がする」と浮かれに浮かれていた。

ところが受診当日、約束の時間が過ぎても、義父は現れなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?