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論理パラドックス(2)自己言及

前回(https://note.com/baba_blog/n/n22c1e46096d8)に続いて、イアン・マギルクリストの、論理パラドックスに関する論考を紹介する。マギルクリストの主張は、人間の脳の左半球と右半球が世界を2つの異なった方法で見ており、論理パラドックスの多くはこの異なる世界観の対立から生じているということであった(左右の半球の性向の違いについてはhttps://note.com/baba_blog/n/nc1e8e01e7857参照)。

 多くのパラドックスには自己言及が含まれている。最も有名なのは、クレタ人のエピメニデスが、「クレタ人はみな嘘つきである」と言ったという話。普通に考えれば、この発言をクレタ人が言うことは例外なく嘘だと意味とは取らないだろう。これをパラドックスと感じさせるのは、ものごとを文字通りに理解しようとする左半球の働きである。

 このパラドックスにはユーモアが感じられる。エピメニデスは、もし彼自身も嘘つきに含めると、これが不条理を生むことは分かっていただろう。したがって、ここで彼は自分を例外とみなし同胞のクレタ人を上から見ているようにも思えるが、「いや、おまえもクレタ人だろう」と突っ込まれかねないことも分かっていたのではないか。そういう自嘲的なニュアンスによって、「私は賢い」とか「私は謙虚だ」など自分自身に関する主張は自滅的であることに注意を喚起しているともとれる。こうしたニュアンスが理解できるのは右半球の働きである。

 左半球が、現実の文脈にかかわりなく、物事を文字通りに解釈しようとする傾向を確認した脳神経学の実験がある[1]。この実験では、電気的な刺激で脳の片方の半球の働きを一時的に抑制して、同じ質問に対する被験者の答えがどう変わるかを調べた。質問は5つの三段論法のそれぞれの結論が正しいかどうかという単純なものだった。三段論法とは、2つの命題または前提から、必然的な結論にいたる論理構造でのことで、典型的な例としては下記がある。 

1.すべての人間は死を免れない
2.   ソクラテスは人間である、したがって
3. ソクラテスは死を免れない

この実験では、それぞれの三段論法で、前提の1つを虚偽にするというひねりを加えてあった。例えばこうだ。 

1.すべてのサルは木に登る(ここまでは良い)
2.   ヤマアラシはサルである(これは誤り)
3.   ヤマアラシは木に登る(これは正しいか?)

 こうした質問5問を、通常の場合(両半球とも機能)とそれぞれ片方の半球のみ機能している場合の3回、10人の被験者に対して行った。上記質問に対して、通常の場合と右半球のみ機能している場合では、明らかにヤマアラシはサルではないので結論は誤りと、みんなが答えた。しかし、左半球のみ機能している場合は、同じ被験者の答えが劇的に変化した。

 右半球だけが機能している時に質問すると、「ヤマアラシはサルじゃない、ハリネズミみたいにトゲがある、そこが間違っている!」とやや憤慨しながら答えた被験者が、左半球だけが機能している時には、「そうだ、ヤマアラシはサルだから木に登る」と答えた。試験官が「でもヤマアラシはサルですか」と尋ねると、サルではないことを知っていると答える。しかし、再び質問すると「ヤマアラシはサルだから木に登る」と繰り返した。「ヤマアラシがサルでないことは知っているのでしょう」と試験官が聞いても、「カードにそう書いてあるから」と答えに固執したという。(ちなみに、ややこしいことにヤマアラシには木に登る種も実はいるらしい。しかし、この実験の被験者はそのことは知らなかったので、ここでは考えなくても良い)。

 もう一つの三段論法の質問例は以下 

1.   熱帯の国々の冬は寒い(誤り)
2.   エクアドルは熱帯の国である(真)

質問:
3.   エクアドルの冬は寒いか、そうでないか?

 この質問に対して右半球だけが機能している場合は「熱帯の国の冬は寒くない、ここが嘘!」と答えるが、同じ人が左半球しか機能していない場合には「エクアドルは熱帯の国なので、エクアドルの冬は寒い」と答えた。試験官が「熱帯の国の冬は本当に寒いですか」と尋ねると、多分そう思うとか、よく分からないとか、ためらいを見せるが、元の質問を再度尋ねると、やはり「エクアドルは熱帯の国なので、エクアドルの冬は寒い」、「熱帯の冬は寒いと、ここに、そう書いてある」と答えた。こうした結果は10人の被験者で一貫していた。

 左半球では、言葉それ自体が現実の一つの側面となる。この紙に書いてあることは、経験される世界と同じくらい(いや、それ以上に)現実的なものになる。左半球は、いわば、四方を鏡に取り囲まれた「鏡の間」に住んでいる。直接の経験によって世界を知るのではなく、自分の知識についての自分の知識についての知識…という自己言及的な閉じた世界である。一方、右半球は、ちゃんと外を見て確認した方が良いかも知れないと考える。紙切れに書いてあろうが、ヤマアラシはサルではないし、熱帯の冬は寒くないのだ。

 もう一つ有名な自己言及のパラドックスに哲学者・論理学者のバートランド・ラッセルの「床屋のパラドックス」がある。 

ラッセルの「床屋のパラドックス」
ある村に床屋があり、その床屋の規則は、自分で髭を剃らない村民全員の髭を剃り、自分で髭を剃る人の髭は剃らないことである。この規則によれば、もし床屋が自分の髭を剃るなら、彼は自分の髭を剃ってはならないが、もし彼が自分の髭を剃らないなら、彼は自分の髭を剃らなければならない。

自己言及は時に無限に続くが[2]、時に行き詰まりに陥る。このような床屋は(規則を厳格に守るのであれば)存在しえない。この点で、これは「この言明は誤りである」という意味をなさない言明に似ている。しかし、このパラドックスは、論理学上の重要な意味を持っている:このパラドックスは自己参照的な閉じたシステムにおいては論理の一貫した手順に従っても完全性にはたどり着けないこと、システムによって受け入れられないメンバーが常に存在することを示している。常に「鏡の間」からの抜け道は必要なのである。

 


[1] 1996年、英米の著名な神経学者マルセル・キンズボーンとロシアの同僚ヴァディム・デグリンが行った実験(The Matter with Things、P593-598)

[2] 例としては、ゼノスによる「場所のパラドックス」:
存在するものにはすべてその場所がある。場所は存在する。したがって、場所にも場所がなければならず、その場所にも場所があり、と無限に続く

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