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論理パラドックス(1)無限と有限

前回記事(https://note.com/baba_blog/n/nc1e8e01e7857)でIain McGilchrist (イアン・マギルクリスト) の「The Matter with Things(モノの問題)」という本を紹介した。その中心的な主張は、人間の脳の左半球と右半球が、世界を2つの大きく異なった方法で見ているということであった。

私たちがパラドックスと呼ぶものは、純粋に分析的な心にとっては、どこかに誤りがあることを示す兆候に見える - その誤りを特定するのは難しいかもしれないが、それでも誤りは 存在し、それは、さらなる分析によって間違いなく洗い出され明らかにされるべきものである。一方、想像力豊かな心にとって、それは全く逆の兆候を示すものかもしれない:それは、誤りではなく、二つの可能性のうちの一つの意味において、真実のより深いレベルに近づいているサインかも知れない。

(Iain McGilchrist, The Matter with Things)

パラドックスには二種類ある。一つは、一見対立するように見える真実が実際に同時に成り立つ場合で、こうしたパラドックスは現実の深い構造を示すものだという洞察 -「Coincidentia Oppositorum(対立物の一致)- については前回記事で既に触れた。もう一つは、矛盾する主張のそれぞれが正しく見えるが現実と反する、いわゆる論理パラドックス。マギルクリストは、論理パラドックスのほとんどは、脳の左半球と右半球の異なる世界観によるもので、本来、右半球によって全体として把握されるべきことを、左半球が分析しようとすることによって生じるという。論理パラドックスに関するマギルクリストの論考(The Matter with Things, 16章)を数回に渡って紹介してみたい。
 
まずは有名な古代ギリシャの哲学者ゼノンのパラドックスについて:
 
「二分割のパラドックス」
あなたは部屋を出たいと思っている。ドアに到達するには、まずドアまでの1/2の地点に達しなければならない、でもその前に1/4、1/8、1/16と無限に到達しなければならない地点がある。従ってあなたは永遠にドアをたどり着けない。
 
「アキレスと亀」
亀が俊足で有名なアキレスに徒競走を挑む。アキレスは亀に先にスタートさせて追いかけるが、決して追いつけない。何故なら、亀が最初にいた地点にアキレスが着いたときには、亀は少し先に進んでいるはず。その地点にアキレスが着いたときには、亀はまたその少し先に進んでいるから。
 
「飛ぶ矢」
飛ぶ矢は、いつの時点でもその瞬間は止まっている. いつの時点でもその瞬間は止まっている。したがって、矢は止まっていて動かない.
 
これらの問題では、まず到達点が想定され、そこから振り返っての分析が行われている。到達点を想定すれば、それを(理論的には無限に)細かいスライスに分けることは可能である。しかし、出発点から先に向けて時間と空間のスライスを積み上げることはできない。時間や空間のスライスは、左半球による表象で、メンタルなフィクションである。先に線があれば、その中に点を見つけることはできるが、たとえ無限個の点があっても点から線を作り出すことはできない。点には長さが無いからである。鉛筆で点をたくさん打てば線になるではないかというかも知れないが、鉛筆の点には既に長さがあり、実際は短い線なので、それはごまかし。
 
アキレスに聞けば、「無限ではなく、数歩で亀を追い抜けた」と言うであろう。現実に経験される時間や空間は、細分化された瞬間や部分に還元できない。徐々にアプローチできるものではなく、全体として捉えなければならない。
 
脳の左半球の分析的な性向は、物事を、事後に振り返り、抽象的な表象を、静的な瞬間へ断片化しようとする。一方、右半球の直感的な理解は、現在進行形で、体感される運動の本質を、不可分な全体として捉える。これらのパラドックスは右半球によって全体として把握されるべきことを、左半球が分析しようとすることによって生じるといえる。
 
なお、「二分割のパラドックス」は実は数学的に説明できる:
1+1/2+1/4+1/8…という無限級数は無限ではなく2に収束するので、無限の歩数は必要ない。では、次のパラドックスはどうだろう?
 
「トンプソンのランプ」(哲学者JF Thompson考案のパラドックス)
もし、ランプのスイッチオン ・オフを無限に切り替えることができ、それぞれの切り替えには、前のスイッチの半分の時間がかかるとしたら - 最初のスイッチは1分、2番目のスイッチは半分、3番目のスイッチは1/4分(とゼノン的に続く)- この一連の操作を終えるのにかかる2分の終わりに、ランプは消えているか点いているか?
 
オフということはない - 何故ならオフの後に必ずオンされるから。オンということもない - 何故ならオンの後に必ずオフされるから。この連続は収束しない。この問いには解がなく、この仕事は実際的にも本質的にも不可能だと言うしかない。
 
現実世界への適用という面では、無限に関することに限らず、数学には本質的な不完全性がある。無限小の点やスライスを集めても空間の広がりや時間の長さが得られないように、直線を使って曲線を得ることはできない。接線で曲線を近似したり、多角形を円に漸近させたりすることはできても、決してこのプロセスでは曲線や円を実現できない。別の領域への「飛躍」としか呼ぶことができないものが必要になる。曲線の下の面積を無限の近似によって解く微積分法を発明したライプニッツも有限と無限のギャップを跨ぐことはできない、超えるには飛躍が必要だと言った。
 
多くの人にとって理解しがたいのは、何十億光年もの長さに引き延ばされた線は、1000分の1ミリメートルの線に比べて、無限の終わりに近づいているわけではないということだ。全ての整数の数列は無限だが、全ての偶数の数列も無限である。偶数の数列は奇数の数列を含まないが、数学者のカントールはこれが整数の数列と一対一で対応していることを証明している(「濃度」が等しい)。
 
これらのことが示唆するのは、無限は左半球の見方に従って定量的な、完成されたモノと考えてはならず、右半球の見方に従って、ある種のプロセスと理解されなければならないということである。これは、実は無限に限らず、他の数学の記号についてもいえる。数学の記号は、モノとみなすこともできるが、プロセスの略記法とみなすこともできる。例えば、3/4は、ケーキの3/4切れというように、モノのように見えるが、これは3を4で割るプロセスを示しているのである。πや√2などの無理数のシンボルは、決して終了することのない分割のプロセスを示している。

数学は無限に関する科学であり、その目的は有限の身である人間が、記号を用いて無限を理解することである。

数学者ヘルマン・ワイルの言葉(The Matter with Thingsからの再引用)


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