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夏休みが終わりました

抹茶の会の夏休みが終わり、今日は新学期?初日だった。
ごく普通のお点前のあと、今日は濃茶を教わった。
濃茶は格上の点前で、いろいろ難しい。

茶会だと、懐石料理のあとにこの濃茶が供される。
コロナ禍以前は、3人分の濃茶を一つの茶碗に点てて、回し飲んで行く。
しかし以後は、1人分づつ点てることになった。先生曰く、もう3人の回し飲みはなくなるでしょうね。

従来の濃さで1人分だと、濃度があるのに少ないので、茶碗を傾けても容易に口まで降りてこない。だから、これからの濃茶は前よりも薄く点てるようになっている、ということだ。
一度だけ3人分を回し飲みする濃茶を飲んだことがあったが、本当に濃くて、ゆっくり口元まで降りて来て、なのに茶碗の内側に相当量が残ってしまう。もったいない!と思ったものだった(ゴムベラでこそぎ取りたい!)。
濃いからさぞかし苦いだろうと思っていたが、薄茶のほうが苦みがある。
濃茶はむしろ甘みを感じて、美味しいものだと思った。

濃茶は、茶入れからして違う。
茶入れは口の小さい、こぶし大より小さな壺のようなもので、豪華な袋「仕覆(しふく)」に入っている。名のある織物とか、古代裂、金糸銀糸の刺繍があり、艶のある組み紐が掛けられている。その扱いがことのほか丁寧で、手順や結び方も決まっている。
仕覆の織りの部分には手を触れないように、紐だけを取り扱う。
布は由緒ある貴重なものであり、古いものも多いから、傷めないようにということだ。

先生の稽古に使う仕覆も美しいが、稽古用でもあり、リーズナブルなものだろうと思う。でも貴重品としての取り扱いを教わる。
宝物であろうがありきたりな物であろうが、道具を丁寧に取り扱うことは、お客への心遣いなのだろう。
自分の道具、ひいては、もてなしたいという心も、大切にしていることになると思う。


この濃茶点前では、最後のほうで茶碗をすすぐとき、手ですすぐ。
いつもならお湯を注いでぐるぐると回して捨てるが、手の指で洗うのだ。
「お湯と水を半々、手で洗います」
そう言われたとき、まったくどういうことかわからなかった。

茶碗に柄杓でお湯と水を半々に注ぎ、左手で茶碗を持ったら右手の親指を茶碗の内側に添わせるようにして軽くこする。それを3回。
そのあと茶碗の底に親指をあてがって、底をきれいにこする。
その濡れている親指は握り込んで、「まあ、拭いたということにして」、次の動作に移る。

茶道では手や指が濡れることがあっても、両手を合わせてにぎにぎして、ハイ綺麗になった、という場面がいくつかある。
それがなんとなく好きだ。
作法がすみずみまで行き届いているのに、なんで手が濡れたらにぎにぎで済ませるのか、このちょっと破格なところが楽しいと感じる。


夏休みの間、抹茶の缶を一缶使い切るぞ!という目標で自主練をしたが、結局、三分の一ほど使い切れなかった。
暑い午後、エアコンをつけているとはいえ、あのけだるさを振り払って練習するのは難しかった。
それでもまあ私にしてはやったほうだと思う。
・・・抹茶が飲みたくなって練習をした、というのが正直な所だ(笑)

その甲斐あってか、今日は「できてますね」と褒めてもらえるところが何度かあった。おお、やっぱり練習はウソをつかない。うれしやうれしや。

次回は、本当に抹茶を使って、濃茶の稽古だ。
(今までの濃茶は、茶入れに「お茶が入っているつもり」での稽古だった)
楽しみ。

今日のお菓子は虎屋の水ようかん。
稽古後に先生と気軽なお茶で雑談する時は生八つ橋(紫芋とかぼちゃあん)でした。
床の間の掛物は「竹風松聲」、お花は露草とエノコログサ、もう一種類、名前忘れた(>_<)。花器は「虫かご」でした。

やっぱりお茶の稽古は楽しいな。

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