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茶道を続けるということ

こんばんは。もこみです。
最近専ら料理のことばかり書いていますので、たまには別の話を。
以前私の好きなものとして料理、読書、茶道を挙げたように、10代半ばから茶道を習っています。ちなみに流派は裏千家です。

一般的に茶道というと
・堅苦しい
・細かい作法があって面倒くさそう
・ひと昔前の花嫁修行
そんなイメージでしょうか。
確かに作法にしても点前にしても、決まりはあります。
それを面倒くさいと言われたらそれまでですが、それだけではない奥深さや魅力があります。
私がなぜ茶道を始めたのか、その魅力、目指すものなどについて書きたいと思います。

茶道、茶の湯、お茶

茶道は、日本人はもちろん、外国の方々にとってもポピュラーな日本の伝統文化のひとつでしょう。
茶道、茶の湯、お茶など、茶道に関する言葉は色々ありますが、そもそもどう違うのでしょうか。
ある辞書によると、(一部抜粋)

【茶道】茶の湯によって精神を修養し礼法を究める道
【茶の湯】客を招き、抹茶をたてて楽しむこと。また、その作法や会合
【お茶】茶の湯

茶道の他にも華道、書道、剣道、柔道など、「道」のつく日本の伝統文化はたくさんあります。
私のイメージですが、「道」とつくものは、ただ技術の向上(例えば茶道ならきれいな点前をすること、武道なら強くなること)を目指すのではなく、稽古を通して精神的な修練も目的としているのだと思っています。

茶道において、茶の心を表すものとして「和敬清寂」という言葉があります。

和…お互い同志が仲良くする、和し合うということ
敬…尊敬の敬。お互い同志が敬い合い、自らを慎むこと
静…清らかという意味。見た目だけではなく、心の清らかさをさす
寂…どんな時も動じない心

これらは、点前をする上では直接関係ないかも知れませんが、稽古を通してこのような境地を目指すこと、それが茶道なのだと思います。

一方、茶の湯は抹茶を点てて客をもてなすこと、そのもの。お茶は茶の湯と同義です。

とは言え、現在茶道=お茶というのが一般的な捉え方になっています。
私自身、趣味の話になった時には「お茶を習っている」という言い方をします。
厳密には違うけれど、一般的にほぼ同義となっている以上、そこまで厳しくこだわる必要はないと思います。

茶道を習ったきっかけ

始まりはなりゆき

最近新しくお稽古を始めた方で、映画「日日是好日」を観てお茶を習いたいと思ったという方がいます。
人それぞれ、興味を持ったきっかけ、始めるきっかけがあると思います。
私のきっかけは10代半ば、中学卒業間近のこと。
私には少し年の離れた姉がいるのですが、その姉が茶道に興味を持ったらしく、習ってみたいけれど一人では不安だということで、一緒に連れて行かれたのが始まりでした。
我ながらかなり消極的、というか受動的なきっかけだと思います。
私自身は堅苦しい、面倒くさいというようなマイナスのイメージを持っていなかったものの、特に興味もない状態で始めたお稽古。
最初の内は点前の順番や所作を覚えるので精一杯でした。
それでも自宅にはない茶室の非日常的な雰囲気に、自然と心が落ち着くのを感じました。
簡単に言うと、性に合ったということでしょうか。
事実私を誘った姉は「性に合わない」と言って一年も経たない内にやめてしまいましたので。

姉がやめた後も私は一人でお稽古に通い、今も続けています。
たまに会うと、いまだにお稽古を続けていることに驚き呆れる姉ですが、私としては何の興味もなかった私を、茶道の世界に引き込んでくれた彼女に感謝しています。

茶道の魅力

10代半ばから続けているお稽古ですが、その間にはやめるきっかけとなり得る事はいくつかありました。
例えば大学受験や就職、結婚、引っ越しなど。
言ってしまえばお稽古事は趣味です。
一方、進学や就職、結婚などは人生を左右する問題。
趣味が後回しになるのは仕方ないとは思うのですが、それでもやめずに続けようと思ったのは、シンプルに茶道が好きだったから。
私が感じる茶道の魅力について書いてみたいと思います。

季節を感じる

茶道において季節感を大事にしているということは、お茶に縁のない方にも想像がつくのではないでしょうか。
四季折々その季節に合った道具を使い、花を入れ、季節を感じる和菓子をお出しする。
例えば6月だと、床の間にはこの時期の花を入れ、傘の絵が描かれた茶碗を使い、和菓子は雨上がりの虹をイメージしたものを使うなど。
取り合わせと言いますが、私は連想ゲームのようなものだと思っています。
6月→梅雨→雨→傘→雨上がり→虹、そういう言葉遊びのような楽しさがあって、私は好きです。

実はシンプルかつ合理的

多くの方が、茶道には細かい作法や決まり事があってややこしいというイメージを持っているのではないでしょうか。
確かに決まった作法はありますが、根本は至ってシンプル。
それは、お客様に美味しいお茶を飲んで、くつろいでいただくということ。
作法云々よりも、美味しいお茶を差し上げることが最も重要なのです。

「お茶を習っている」と言うと、「お茶を飲む前に茶碗を何回回すとか決まってるんでしょ」「ただお茶を飲むだけなのに、なんで茶碗を回さないといけないの?普通に飲んだらいいのに」と言われることがあります。
確かにお茶をいただく時にお茶碗を回しますが、大事なのは回数ではなく、回すという行為の意味です。
お茶碗に限らず、物には正面があります。
その正面を避けて、茶碗そのものやそれを作った人、お茶を点ててくれた人への敬意を表す、それが茶碗を回すという行為の意味です。
何回回すかは流派によって違うので、とにかく正面を避けるという意味を分かっていれば、何回回そうが問題ではないと思います。

このように面倒くさいと思われがちな作法、点前にも、きちんと意味があります。
そして、点前自体も無駄な動きがないように、とても合理的に考えられています。
習いたての頃は気付きませんでしたが、慣れてくるとその無駄のなさに「よく考えられてるなぁ」と感心してしまうことしきりです

もてなしの心

先に触れたように、大事なのはお客様に美味しいお茶を点て、くつろいでいただくこと。
ただそのためだけに、様々な気配りがされています。
茶室や庭をきれいに整え、抹茶やお菓子を準備し、取り合わせを考える。
それもお客様に楽しんでいただくためのものですが、点前そのものにも気配りが見られます。
例えば、冬によく使う筒茶碗と呼ばれるお茶碗があります。
通常の茶碗より深いので熱が逃げにくく、寒い冬に少しでも温かいお茶を飲んでいただこうという気遣いが見えます。
また、夏には涼を感じていただくために考えられた点前があります。
日々のお稽古でこのような気遣いというか、もてなしの心を感じるたびに、素敵だなぁと思います。

茶道を続ける上で目指すもの

お稽古を始めてから今日まで、私が教えていただいた先生は何人かいらっしゃいます。
高齢でお稽古をやめられたり、引っ越しにより物理的に通えなくなったりと、理由は様々ですが、やめた後も先生とは交流がありました。
今の先生のところで茶名(茶人としての名前。裏千家では歴代家元の「宗」の一字をいただきます)を拝受したことを、以前習っていた先生に報告した際、これからは何を求めてお茶を続けるのか考えるように、と言われました。

ただ好きだから続けてきたというのが正直なところ。そしてお稽古を始めた頃から、漠然と茶名までは取ろうと思っていただけだったので、見透かされたような思いでした。
改めて「何を求めてお茶を続けるのか」考えてみました。

今習っている先生のもとで、学校茶道やカルチャーセンターでの講習に携わる機会をいただきました。
その中で私が感じたことは、きちんとした道具がなくても茶道はできるということ。

以前習っていた先生は、とにかくお道具が好きで、古いお道具や貴重なお道具をたくさんお持ちでした。
茶会になると、その道具を使ってお点前する機会をいただいたことは、とても貴重な経験でした。

ただ、私を含め誰もがそのような道具を持てる訳ではありません。
確かに、弟子をとって稽古場を構え教えようと思うなら、ある程度道具を揃える必要があるでしょうが、純粋にお茶を楽しむということなら、道具を揃える必要はありません。

お茶を点てる茶筅は仕方ありませんが、茶碗はカフェオレボウルやご飯茶碗で代用できますし、茶杓はティースプーンで、抹茶を入れる棗は蓋付きの容器で大丈夫。

これを見立てと言いますが、身近にあるものの中から使えるものを探し出し、取り合わせを考えることも楽しいものです。

これまでの経験を踏まえ、いま私が思うのは、もっと気軽にお茶を楽しんでいいのではないかということ。
道具がなくても、美味しい抹茶を飲みたい、誰かに点ててあげたいという気持ちがあれば出来るということを、より多くの人に知って欲しいと思います。
今後私が直接弟子をとって教えることはないと思いますが、私がこれまで教わってきたこと、何より茶道はもっと気軽に楽しめるものだということを伝えられたらと思います。

「何を求めてお茶を続けるのか」
この言葉をくれた先生は、一昨年病気で亡くなってしまいました。
私が目指すもの、その思いをお伝えする機会がないままの突然のお別れだったので、これが先生の仰ったことへの答えになるのかは分かりません。
それでも、私が目指すもののために茶道を続けていこうと思っています。

長々と思いのまま綴ってしまいましたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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