エミール・ハビービー『そしてとうとうアーモンドの花が咲いた』
パレスチナ出身の作家エミール・ハビービー(إميل حبيبي)の『6日間の六部作(سداسية الآيام الستة)』を世界で初めて日本語に翻訳していくプロジェクトが続いています。
今回は同六部作の2作目、『そしてとうとうアーモンドの花が咲いた(وأخيرًا نور اللوز)』の日本語訳を公開します。
この作品の主人公である「俺」のもとを、「M先生」が20年ぶりに訪ねて来ます。
「俺」は「M先生」の話に耳を傾けながら、彼との思い出に思いを巡らします。
物語は劇的な終わり方を迎え、「自分が何者であるかを忘れてしまったら、もはや自分を失うことと同じである」という強いメッセージが伝わってきます。
イスラエル建国から75年が経った今、このメッセージは現代のアラブ人にも突き刺さるような感じがします。
そしてこのパレスチナ人の声を私たち日本人がどう捉えるか、よく考えていきたいと思います。
『そしてとうとうアーモンドの花が咲いた』
我が祖国に私を帰してくれ!
春よ、たとえ一つの花だけでも!
(ファイルーズの歌より)
俺は幼少期の素敵な時期に、ディケンズの二都物語を読んだ。愛する女の夫を救うために服を換え場所を替わり、バスティーユのギロチンの刃の下で自分の命を犠牲にしたシドニー・カートンをヒーローだと思った。
俺とは違い、ヒーローというものはボロボロになるまで物事に挑戦することはなかった。むしろヒーローはその歳によって勝ったり負けたりするもので、俺にとってヒーローと言えばヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』に登場する、惨めな物乞いグランゴワールしか残らなかった。グランゴワールは美しいジプシーのエスメラルダと入れ替わるよう頼まれ、それを拒否した。何のために生に執着しているのかと問われたとき、「私の最大の幸福は、他でもない私という天才的な男とともに朝から晩まで毎日一緒に過ごすことだ。これは誠に美しいことだ。」と答えた人物だ。
「お前はアラブ人らしい謙虚さを誇らないのか?」
「20年ぶりの再会だというのに、俺を非難したり疑ったりするのはやめてくれないか。」
これはM先生がアラブらしさというものに言及したとき、まさに俺が言いたかったことだ。あいつがある夜突然俺を訪ねて来たことに俺は驚き、あいつを疑う気持ちが掻き立てられたが、あいつは俺に辛抱強く話を聞くよう懇願した。
俺たちは小学校時代と高校時代には親友同士だった。俺たちは2人で、我が小学校初となる反英秘密組織を結成した。メンバーは創設者2人以外にはおらず、隠密作戦を実施する上で不可欠と思われた慢性的な喫煙という習慣だけを残した組織だった。高校の卒業式では男の涙を隠すために黒いサングラスをかけ、泣きに泣いた。そして俺たちの道は2つに分かれた。Mはエルサレムに行き師範学校で勉強を続け、その後は故郷に戻って今に至るまで高校で英語の先生をしている。
イスラエルが建国されてから、俺とあいつの関係は完全に断たれた。道端で偶然出会った時ですら、「やあ」という言葉をかけることもなくなった。あいつとの連絡が途絶えたことで当初は俺の心も痛んだが、次第に慣れた。俺はあいつを生活の中から切り落とし、あいつをある種の人間だと思うようになった。というのも、俺にはあいつが、次から次に小説を読むが、夫となる男を見つけた途端にトイレで新聞小説すら読まなくなる独身の女に似ていると感じられたのだ。
俺たちには共通の友人がいる。俺はそいつと一緒にハーリド・ブン・アルワリードの業績、預言者たちの哀歌、アブー・アルアラーの棄教歌を一緒に吟じていた。これがアラブらしさというものだ。あいつは仕事と結婚した。しかし、あいつはイスラエルでどうやってアラブらしさを守るというのだろうか。あそこで政府に対して反逆すれば、友人や親戚とのあらゆる関係を絶たなければならなくなる。それが自分と同じ両親から生まれた兄弟であったとしても。
そしてMはある夜、第三次中東戦争以降閉ざしていた俺の家の扉を突然叩き、20年ぶりに俺の近くに腰を下ろし、こう言った。
「最後まで俺の話を聞いてくれ」
あいつの心の中に虎のように舞い降りてきたのは何だったのだろうか。いずれにしても、あいつは勇気を出して俺を訪れてきた。
M先生は話をやめた。
「シドニー・ディケンズは惜しくも俺のヒーローにはなれなかった。しかしディケンズの『二都物語』という小説のタイトルは俺の後を追いかけて来て、俺に魔法をかけ、俺の好みに長年影響を与えている。この影響は、初めは俺を駆り立てる形で現れた。そして俺はそれに屈した。というより、人々が幼少期に父親に首に掛けてもらった魔除けをずっと持ち続けているように、俺はこのタイトルを愛しく思い、愛情という形で抱えることになった。
その不思議な影響を受け始めた頃、俺は『二都物語』を自分の手で書き始めた。ハイファとナザレという、俺の祖国の二都の物語だ。ところが第1章を書いたところで筆が止まってしまい、諦めた。次に俺は英語と法律業という2つのテーマを自分の専門にしようと決めた。しかし、そうはしなかった。俺は英語とアラビア語の2言語で作詩を始めたが、失敗した。俺に子供が1人しかいないということが俺を痛みつけた。俺は本当は子供が2人欲しいのだ。俺が高校で教えているお前の子供に聞いてみろ、俺は生徒たちに読む本は2冊しか与えないし、暗記のための詩人も2人、比較するための文学も2作品、試験のための時間も2時間しか与えない。さらに、今この場で話す必要はないと思うが、俺の人生で起きた様々なことによって、俺の好みと考え方は、この『二都物語』という魔法のタイトルにもある「二重性」に完全に支配されることとなった。しかしお前は、俺たちが若いころに友達だった時からこのことに気付いていただろうか。お前たちが俺のことを「2つ顎」というあだ名をつけたのを忘れたか?」
「お前はあの時とても太っていて、頬がブクブクだったな。」
「いや。むしろ俺の顎はお前たちと同じように1つしかなかった。そうではなくて、このあだ名は俺が「髭がない顎や髭を整えた顎があれば安心だ」と繰り返し好んで言っていたからだ。2つの顎、男の顎と女の顎、この2という数字は、『二都物語』から来たのだ。これこそがその二重性だ。俺はこの二重性という魔除けを若いころから首の周りに掛けていた。」
(この古い友人は見かけからしても話す内容からしても胡散臭い男だ。この不自然さを見せずに話すことはできないのだろうか。俺は昔と同じように、あいつの好きなようにさせておいた。俺はあいつの突然の訪問に驚いたので、この訪問の目的を透かし見たいと思った。そろそろ訪問の目的が分かってきたような気がする。どうせ、戦争で目を覚ました良心の束縛に突き動かされて20年間俺に会っていなかったことをこの二重性に基づいて言い訳しに来たのか、あるいは誰かが何かのために彼を俺のところに送ってきたのだろう。少なくともあいつは、この魔法のような二重性について話すことで、俺との関係を元に戻したがっている。俺はあいつを警戒しながら、話の終わりを待ち焦がれた。)
あいつは続けた。
「だから車で第三次中東戦争後初めてナブルスからラーマッラーに向かう道中、タルアト・ルッバンのジグザグ道を通り過ぎたとき、俺はあまり驚かなかった。
俺たちが最初の曲がり角を越えると、ため息が漏れ、俺の舌と、俺の手の中にある車のハンドルが震えた。そして一緒に車に乗っていた同僚たちに向かって、「20年間俺はこのジグザグ道のことを夢に見続けてきた。この光景は1日たりとも俺の記憶から消えたことはなかった。俺はここにあるすべての曲がり角を知っている。その数は4つだ、数えてみろ。ここに聳え立つ山々が緑色の平原を見守っている。その数は10だ、数えてみろ。そしてこの澄んだ空気。この芳香を俺は知っている。俺は昔からこの空気を吸っている。この場所こそ俺の場所だ!」と叫んだ。」
(この可哀想な男が20年の時を経て私のところに来た理由が今、分かった。時間というものは私たちに厳しいものだ! 疑ってすまなかった。俺はあいつと抱擁するために立ち上がろうとした。しかしあいつは俺にその時間を与えなかった。)
M先生は話を途切れさせなかった。
「俺は同僚たちに頼んで最後の、つまり4つ目の曲がり角で車を止めた。彼らは俺と一緒に車を降り、その空気を吸い、山々と、その山々に守られた平原で目を満たした。アーモンドの木々が山々と平原を覆っていた。彼らがその場所をアーモンドの道と名付けたのも頷ける。俺の内側から、何かが神にひれ伏せと呼び掛けて来るのが聞こえた。俺の眼の中で、涙が溢れ出さんばかりだった。俺は目の前に広がる不思議な光景に、何か聖地のような感じを抱いていた。過ぎ去った若かりし頃に牧場の中で再び生まれ変わったかのような気分だった。パンを焼く窯と猫2匹の香りがして、それが俺の中で燃えているようだった。
しかし、同僚たちは俺に時間を与えてくれず、俺は曲がり角の高原から麓の現実にすぐに引き摺り降ろされた。道路標識が俺たちにタルアト・ルッバンでは下車してはならないと告げていたので、ある者はすぐに旅行を続けたいと言った。またある者はその曲がり角で放尿しながら俺の20年前の記憶を嘲笑した。他の者たちは先生として自分たちの生徒や妻に言葉をかけるように急かしてきた。
俺はラーマッラーからエルサレム、そしてベツレヘムに至り、またそこから戻るまでの道中、この驚くべき出来事について独り言を言いながら、少年時代にこの曲がり角で俺に起こったことが再び起こるよう願い続けた。俺はその曲がり角の前で心を奪われ、永遠にそこから離れたくないと思った。
しかしそれは無駄だった。そして帰り道に同じ場所を通りかかった時、俺たちはそこで止まらずに通り過ぎた。ある同僚は俺を心配そうに見て、その薙刀のような手を俺の肩に置き、こういった。「ここはナザレからハイファに行く間にあるタルアト・アブハリーヤに似ている。きっとお前はそこと混乱しているんだろう。」
俺の胸から重い石が取り払われた。
20年ほど前から、ある高校で補修をするため、俺は週に2回ハイファに通っていた。タルアト・アブハリーヤにはその行きも帰りも立ち寄っていた。こことそこが似ていないということは俺は知っていたが、この同僚の単純な解釈は俺を納得させた。なぜなら、俺には自分の秘密、すなわち二都物語から来る弱さがあったからだ。タルアト・アブハリーヤが私の空想の中でタルアト・ルッバンに結びついていたことは疑いがない。俺はこの解釈を受け入れ、胸から重荷を取り去った。」
(何ということだ! こいつは自分の記憶の中から、時の流れに耐えられない部分を消していると言うのか? 俺は、彼らが良心を失い、心が硬くなっているのかと感じた。彼らには良心の呵責というものが無いのだろうか。しかし、そうなると事情は変わってくる。人は、自分の良心を殺せなかったなら、記憶を殺すというのだろうか! であれば、なぜこいつは私のところにこの話をしに来たのだろうか。)
この古い友人は言った。
「俺には西岸地区出身の知り合いや友人がたくさんいたのを覚えているか。学生時代以降に知り合った者たちだ。教師、医者、ビジネスマン、政治家、そして大臣に任命された者もいる。俺はあいつら全員のもとを訪ねて語った。記憶や友情が途切れたところまで記憶を辿り、あいつらは皆20年前と同様、俺の人生の大切な一部に戻った。1週間の内に、俺があいつらの誰かを訪れたり、あいつらの誰かが俺を訪れて来たりしないことがない。俺はあいつらが俺たちのことを忘れ、俺たちと友人になったことを恥じているのかと誤解していた。木を育て葉を茂らせるために枯れた枝を間引きするように、俺のことを彼らの人生から切り落としたのかと思っていた。」
「俺たちは枝だ。人生によって葉が茂った。」
「そうだ。あいつらは最初は俺が出迎えてくれるか自信なさげに俺のところにやって来た。そして俺は、古い友情に対する想像だにしなかった郷愁や、それに対する誇りに気付いた。そして、あいつらが俺たちの近況を追っていたことに気付いた。あいつらは俺たちのことを風の噂で聞いていたのだ。そして、あいつらは俺たちのことを、俺たちが思っている以上に良く思ってくれていた。俺は、20年間も貝殻の中に閉じ籠っていたことをあいつらから隠したいと思ったが、彼らはそれを知って、激しく擁護してくれた。あいつらは俺が俺を見ているようには俺のことを見ていないのだ。そしてあいつらは俺の運命を持ち上げてくれて、実際に俺は持ち上がった。実際に俺は持ち上げられて、俺は身長が伸び、俺の頭はあいつらより一段高かった。
そして俺はお前に、あいつらが俺の人生の中で大切な一部になったということを伝えたい。これは、お前が20年前から知っていたことだ。」
「それでお前はわざわざ夜中にその高くなった身長を俺に見せに来たというのか?」
「俺がお前を訪ねて来るのに、「わざわざ」じゃないことがあるというのか?」
「いや、だから、そのために来たのか?」
「いや、むしろ、俺には眠れないほど気がかりなことがあるのだ。タルアト・ルッバンと、その曲がり角が俺を動揺させた時、その驚きは長く続かなかったと言ったよな。そして俺のこの感情は、俺の人生を通して俺に付き纏ってきた魔除けや、また俺の考え方や論理の二重性、そしてタルアト・アブハリーヤという場所と俺との繋がりに伝染した。
それ以降、俺は何十回もタルアト・ルッバンを登ったり下りたりした。そしてこの不思議な郷愁に俺が不意に襲われたとき、俺はそれを感じ俺の良心を休息させていた。
そしてこの前に2月、あの日が来た時、つまり俺が妻と子供とともにエルサレム旧市街の友人のもとを訪問した帰り道、タルアト・ルッバンの曲がり道を下っている時、あれは正午ごろだった。アーモンドの芽が咲こうとしていた。白と赤の色が春の酩酊の中に抱き合い、10のすべての山が踊っていた。」
「何語でそのような詩を吟じたのだ?」
「目の言葉と心の言葉だ。最後まで聞いてくれよ。
家を飾るために花が咲いたアーモンドの枝を拾い集めるために、妻が俺に車を止めるよう懇願した。俺はその願いを、一番下の最後の曲がり角に至るまで聞き入れなかった。そこには、俺が若いころからある古い枝が残っていると思ったからだ。
そこで俺たちは車から降り、俺たちに笑いかけ、また俺たちからも笑いかけている4本の枝を折った。
そして妻にこのアーモンドの枝を土に植えたら気が育つかしら、と尋ねられた時、俺の胸が縮むのを感じ、思い出した。
俺たちがまだすごく若かった頃、エルサレムかベツレヘムかどこかの出身の女の子のことが好きだった友達がいたのを覚えていないか。俺たちはあいつの愛を愛していた。」
「俺たちが、その愛を愛した友人だと。」
「いや、この友人の愛は、俺たちの愛よりも美しいものだった。こんな話だ。俺たちは旅行中だった。俺たちはタルアト・ルッバンへの入り口にあるこの木の前で車を降りた。そこには家があった。その家には鳥と牛がいた。その家はまだ残っているが、今はもう鳥も牛もいない。俺たちはその家の住民に水を求めた。そこで俺たちは、エルサレムからの旅行中だったのだが、少女たちが咲いたアーモンドの枝を折っているのに気付いた。その中に、俺たちの友人の友人がいたのだ。」
「それがどうしたんだ?」
「これについて美しい話があるんだ。今やどうしてこの話を思い出したのか思い出せないが。その子は折った枝の片方を俺たちの友人に差し出し、片方は自分で持っていた。そして2人はその枝をそれぞれ持っておき、次の春、アーモンドの花が咲くころに再会しようと約束した。そしてそいつは家族を連れて来てその子の家族の前で婚約した。だが、この美しい話の最後はどのようなものだっただろうか。」
「その2人のことが、お前にとってどうして大切だというんだ。」
「分からない。ただ、俺は何か強いものに押されて、古い友情というページが二度と破けることが無いように、すべて開けるよう急かされている。過去には希望が迸っていた。過去は大地と大地の中にあるものと抱擁していた。過去は子供の目のように澄み切っていた。今の俺は、この状況から俺を救い出すために過去の糸に固執したがっているかのようだ。お前から俺を見たら、空気の中で溺れているように見えるか?」
「だったらどうしたというのだ」
「第三次中東戦争以降、俺は古い友人を探しながら彷徨っていた。ある者と会う度に、他の者と会いたいという悲嘆が燃え盛った。そしてこの友人の話を思い出してからというもの、俺はそいつについて調べ、探してきたが、誰もこの話を覚えていないと言うのだ。この話は俺を窮地に陥れた。俺は古い友人に会ってはこの友人がどのようにして妻と出会ったのか教えてくれと頼んでいた。
この俺たちの友人について聞ける若いころからの友人は、もうお前しか残っていない。だから来たのだ。お前はあいつのことを思い出して、俺のことを安心させてくれるか?」
「友よ、お前はいつも奇妙な行動ばかりしていたよな。しかし今夜は過去にも増して奇妙だ。お前の悲嘆というのは、どうしてそうつまらないものなのだろうか。」
「つまらないと言うのか! 俺は今、俺の過去との繋がりは断たれてしまったものの、貝殻の中にも閉じ籠ってもいなければ、猫背にもなっていないということに気付いた。では、この過去とは何なのか? 過去とは時ではない。過去とは、お前のことであり、またあいつやこいつや、すべての友人たちのことである。俺たちは共にこの過去という絵を描いてきたのだ。俺たちは皆、それぞれの色で色を塗り、大地と大地の中にあるものを抱擁するうら若き燃え盛る少女の絵が完成しつつある。あらゆる色を使ってこの絵の隅々までを完成させなければ、俺は過去と再び繋がることができない。俺は、この友人が、美しい愛を抱いて微笑んでいるのが、この絵の隙間から見える。彼がいなければどのような過去が残ると言うのだろうか? モナ・リザから微笑みを消し去ってしまったら、何が残るのか? 彼の話が、俺たちの過去という春がどのようなものだったかを最もよく表しているだろう。それが、愛する男が愛する女のもとへ戻って再会するという幸せな終わり方をしていたとしても、永遠の別れという悲しい終わり方をしていたとしても。冬の後には必ず春が戻って来るように、この春にも戻って来てほしいものだ。」
「俺には、お前が二都物語に戻ったように見える。2本の枝、愛する男と愛される女、幸せな終わり方と悲しい終わり方、などと言って。人生というものは、糸が1本ずつ存在するものではなくて、むしろたくさんの糸が交錯したものなのだ。そして高い山々への春の郷愁によって呼び覚まされたお前の幻想は、この話を正確に覚えていないのだ。」
「俺の幻想は本当に目を覚ました。そしてこの幻想には、再び眠って欲しくないのだ。だから俺はこの友人を探している。お前があいつのことを覚えていないなんて、信じられない」
「頑張ってみる。思い出したら連絡する。」
M先生は、今まで見たことがないほど思い悩んでいる様子で帰路に就いた。俺はその場に残り、今までにないほど思い悩んだ。彼が出て行ってから数分間、追いかけて行って彼の記憶を揺さぶり、死から救い出してやりたいという想いを押さえるので精一杯だった。
しかし、俺は死んだものを生き返らせることができるのだろうか?
M先生は嘆き悲しんでいたが、どうしてこのような美しい愛の話を、その話の本人の口から聞いて思い出せないことがあろうか! 俺は自分に「一体どうして人は自分の心の中でこのような美しい愛を殺すことができるのだろうか」と何度問うたことだろう?
第三次中東戦争の後、俺はエルサレムかベツレヘムにいた、M先生の話に登場した高貴で誠実な女性のもとを訪ねたことがある。そこで彼女は未だに持っていた乾いたアーモンドの枝を私に見せてくれた。その枝は赤や白の花を付けようとしているところだった。彼女は例の話をして、あいつがたくさんの同僚の先生たちと一緒に彼女のもとを訪れてきたことがあると言った。あいつは終始たくさん話し、とても喜んでいたという。彼女は収集した本や美術品を見せるために彼らを書斎に通したところ、あいつはその乾いたアーモンドの枝に気付き、これは何か、と聞いたという。彼女はあいつにアーモンドは2月に咲くのですよ、と答えたのだが、あいつは杏や「杏の金曜日」の話をし始めてしまい、彼女は愕然したのだという。
しかし今や、M先生が俺のもとを訪れて来て色々詳しく話してくれたおかげで、すべてが分かった。
M先生は自分のことをすっかり忘れてしまい、またそれを思い出すために悲嘆に暮れているのだ。あいつは、その内なる不思議な力によって、自分こそがその美しい話の主人公だということを忘れ、俺たちの青春時代を輝かせた微笑みを忘れてしまった。
頼まれた通りに俺があいつにこのことを伝えて安心させてやらなければならないのだろうか? あいつはなぜ安心しなければならないのか? 俺は本当にあいつを安心させてやることができるだろうか?
あいつの言う通り、確かにあいつの身長は高くなった。では、あいつの手がこの物語に届き、読む日が来るだろう。そうしたらあいつは思い出し、過去との繋がりを取り戻し、自らの手で自らを救い出すことができるだろうか?
そしてとうとうアーモンドの花が咲いた。2人は出会った。春が笑っていた。運命は高笑いしていた。