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新世紀エヴァンゲリオン

なんと言っても印象に残っているのはTV版の最終回の「おめでとう」。

この最終回の解釈やその後に続く物語はいったん置いておくとして、1996年にこのような話が流れて多くの人が訳もわからないまま記憶に残したこと。


(今回は本作品を知っている前提なので、未見の方は下記のあらすじをご参照ください)


新世紀エヴァンゲリオンは、1995年(平成7)から始まったアニメシリーズで、その後社会現象となりながら25年経った今でも人気のある庵野秀明監督の代表作です。

私も最初TVシリーズを再放送で見たときは、まさに「恐ろしいものの片鱗を味わった」ような衝撃を受けました。

全26話の24話までの緊張と、最後の2話の謎の落差。個人的にはそういう表現がアニメで許されるという意味でも、最も印象に残る回でした。


何がおめでとうなのか?という話。


私の非常に勝手な解釈では、こうなります。

「シンジのような、内向的で男らしさはないが個人主義で共感性が高い人が、外に踏み出していける世の中になっていく」。

自己評価が低く自分勝手なシンジは、突然突き付けられた人類を救うという大義名分、父親の命令、自分の役割、同じ立場の友人との交流も、不安や自信のなさから受け入れることができません。

エヴァンゲリオンとシンクロできるのが唯一の心の支えです。

あとは気分次第でやったりやらなかったり、ふらふらしています。とても褒められたものではありません。


その後劇中のシンジは、さまざまな事件や他者との交流を経て、自分自身を嫌うのではなく受け入れることが必要だと考えられるようになり、「僕はここにいてもいい」と気づきます。

そういった成長物語と捉えるのが普通ですが、私は、この物語をあの時代になぜ提示したかの意味を考えると、別の見え方がしてきました。

それは「めんどくさい個人主義の肯定」です。

シンジ視点に立つと、人類を救うという多数派の正義、父親という年長者や立場が上の人の不合理な圧力、相性も話も合わない同僚や友人との交流は、嫌ならお断りしてもいいよね?となります。

個人主義は、立場の上下のない対等な個人同士で、常に自分と他人の合わない考えを調整しながらやっていくしかない非常に面倒な生き方。でもそれでしか自分の自由は確保できない。

だとすると、自分に自信を持って決めることさえできれば、ある意味OKなんじゃない?となる。
「僕はここにいてもいい」というのは、その決意の表れということもできるのではないかと思います。


平成の前半に崩れた昭和の文化は多くあります。

まず、集団主義的な日本の文化、例えば新卒一括入社という常識が氷河期到来で図らずも崩れた。

女性は控えめでなければいけないという世間の常識が、援助交際やコギャルブームで古いものとなった。

その当時の空気感の中で、別にカッコよくもない面倒な少年の「個人主義」を肯定するかのようなメッセージが流れたのだと考えると、製作者の本当の意図は分かりませんが、非常に意味深いと感じます。


もう一つ、個人的に記憶に残る映画として、同じ庵野監督の「ラブ&ポップ」という実写映画があります。原作は村上龍。

特にヒットしたとか評価が高かったわけではありませんが、崩れていく昭和の空気感、マークシティなどがまだない昔の渋谷が映っていて、現代なのにノスタルジックな雰囲気があってとても良かったです。

また渋谷でコギャルが援助交際するという今から見るとありがちな筋書きですが、それらは現実にあったこと(もちろん私は見ていませんが)なので、その記録として貴重な映像と感じます。


バブル後の混乱の中で昭和の「普通」という感覚が失われていき、ちゃんと勉強して就職できた恵まれた人でも将来の展望は見えず、多くの人は個人で戦わないとまともな仕事にもありつけないという状況でした。

そんな不景気の中、いわゆる援助交際やクスリなどの違法な稼ぎや、ネット系の仕事での一攫千金が身近に迫り、過去の倫理観を無視して自分本位に振る舞わざるを得ない状況がありました。

「ラブ&ポップ」には、バブル崩壊とともに一般社会が少しずつ崩れていき、昭和の価値観が消えていくという変化が、奇妙でドキュメンタリー的な撮影方法と相まって映されていたように思います。


[マガジン] 平成って何だったの? こちらからもぜひお読みください!

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