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テレビジョン・プロクシミティ・アンド・コラボラトゥール

週末の夕食時にテレビがついていて、強盗致死のニュースをやっていた。息子がテロップの字面から「強盗が死んだんだって!」と言う。息子は6歳で、漢字は読めるが、その熟語は知らない。公正に言って、まあ、「強盗」が「死」に「致」ったという理解も間違ってはいない。うん。この場合、熟語が悪く、息子は悪くないとすら言える。
 
そこで、妻が訂正して息子に教える。いや、これは強盗に入って殺しちゃったってことで、物凄く悪いことなんだよ。一番重い罪なんじゃないかな。
 
正確には、強盗致死は故意が無く殺人罪にならない場合に適用されるので、殺人よりも刑期は短い。まあ、人を殺すのは悪いことだということを強調したかったのだろう。その日の食卓には母も一緒だったのだが、そうだね、刑期はかなり重いと思う、と妻に同意する。
 
何だって? 僕は反射的に遮る。いや、最も重い罪は外患誘致でしょ。そして、その場でググった上で付け加える。ほら、法定刑は死刑のみ。刑法の規定では一番重い。
 
妻と母が、微妙な表情で僕を見返した。妥当な反応だ。夕食時の子供との会話で、文脈から離れたトリビアルな知識でマウントを取ろうとするなど、ある種の異常者のすることかもしれないからだ。そして実際、僕はそういう人物である。
 
ただ、待ってほしい。この発想の違いは、本当にトリビアルなことなのか。子供の前で語っておくべき、重要な違いがあるのではないか。
 
こう例えてみよう。ある古代の部族で、飢えた奴が隣人を殺して物を奪った。その部族の中で、今度は別の奴が、隣の部族を引き連れて村を襲うことを計画し、本当に殺し合いが始まってしまった。そして、その部族の長は、こう掟を書き換えた。強盗殺人よりも外患誘致の方が重い罪である。まあ、古代であれば、どちらも極刑であろうが、やはりこの二つの罪に本質的な違いがある。
 
前者は、言ってしまえばよくあることだ。弁護する奴もいただろう。もう一つの方は、社会集団全体への罪だ。これを許しては、部族の掟の前提が無くなってしまう。何も、国家主義的な方向に話を持っていきたいのではないが、社会秩序とその外部、という構造上の違いを見てほしい。国家転覆や革命の企図が、その国家内での人間の営みの中で生じる罪よりも重いのは、制度設計上、当然ではないか。
 
そう。息子の前で殺人が一番重い罪だと言ってしまっては、社会の構造についての視野が広がらない。つまり、僕は妻に睨まれるほど変なことは言っていない。うむ。ジャスティファイ可能だ。そう考えて僕は食卓を後にした。
 
そして一人になってからふと考える。先ほどの考えは、本当にそれで良かったのだろうか。直接殺して奪うこと。それを容易に成し遂げる思考ができること。それは何か、本能的に人間が持っているべき倫理を逸脱しているのではないだろうか。逆に、隣の部族を唆して、村の襲撃を手引きすることは、別に人間の本能を逸脱しているとまでは思えない。個人の頭の中、脳の生理学的反応まで考えた時、同じ社会集団の構成員に直接手を下せることの方が野蛮だとも感じる。
 
殴り合い、相手を制圧した後、首を絞め、その手を緩めずにそのまま、その先まで行けること。これは何か、その人の脳がヤバい感じがする。対して、例えば子供の時にE.T.と仲良しになってしまった少年が、その地球外の知的文明に魅了され、同化し、ついには地球人滅亡の計画に加わったとしよう。これは別に、その人の脳がヤバいとは思えない。
 
そのような直感に従えば、殺人は悪だが、革命は悪ではない。外患誘致の方が重罪だと子供の前で語ることは、もしかすると、権威主義を植え付け、体制の奴隷であることを勧める悪手だったのだろうか。
 
考えながら、僕はリビングと自室を繋ぐ廊下を行ったり来たりする。
 
ホッブズのリヴァイアサンが絶対王政を支持するように捉えられるのと同様、法規範全体に対する反抗を危険視する立場は権力を補強する。対して、アリストテレスの徳や、カントの目的としての他者の概念は、殺人を問題視するが、国家転覆の危険を重視しないことになる。産業革命期には個々人の実存が疎外されているという下部構造の分析から共産主義が設計された。
 
これらは単なる対立概念ではなく、人類の歴史の中で振り子のように行ったり来たりしてきたテーマだ。どちらがより問題視されるかは時代背景に左右される。ナイーブに言ってしまえば、その時代が戦争状態であれば前者が、平穏な状態であれば後者が注目されやすいと言っていいだろう。さて、今はどのような時代だろうか。
 
生活を脅かす外部の部族や、先の例で言う宇宙人がいなければ、全体の秩序よりも集団内での人権が重視される。そう考えると、カントの自然科学方面の著作から宇宙人についての記述を漁ってみることには意味がある。しかしそもそも、ここで言う宇宙人とは何だろう。人間の知性が及ばない外部、という意味だろうか。
 
例えばAIはどうだ。現代の言語生成モデルは、計算資源の外部には立てないので、人間に反乱を起こすほどの可能性はまだ秘めていないが、多くの人々がそれを現実的危機として捉え始めた。冷戦後の安定期を超えて、僕たちは仮想敵としての宇宙人のいる世界にやってきた。となると、やはりこれから社会の権威主義は加速するのだろう。
 
そして、権威主義が強まると、思索する個人の倫理的志向はその逆を行く傾向があると考えるべきだ。その時代の空気に埋もれてしまった大切なことを掘り起こす。哲学とはそういうものだろうし、子供たちへの言葉もそうあるべきだろう。つまり今は、この社会をどう維持するかよりも、個人が他者をどう扱うかの方が、より重要だということになる。
 
個別の政治状況や民主主義とテロリズムの関係にまでここでは立ち入らない。この文章はメタファーであって、メタファーではない。
 
つまり、何が言いたいかというと、妻が息子に対して、殺人が最も重い罪だと言ったことは、決して否定されるべきではなく、現代における教育方針として一理あるということだ。
 
そのことを言いに食卓に戻ったのだが、テレビでは既に別の番組が流れており、周りは数分前のそんな会話のことなど忘れているのだった。
 

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