情報をつめこめばいい記事ができるわけではない
「あの記事さあ、誰を(読者として)想定して書いた?」
その時の友人の声は、今でもはっきり思い出せる。
その少し前にアップされた、プラド美術館展について書いたコラム記事についての話だった。
私自身、展覧会がスタートする前から、「絶対に書きたい!」と強い思い入れがあった。
オールドマスターズこそ私の得意分野、と意気込んで書いた。
だからこそ、次に来た言葉が衝撃だった。
「……正直マニアックすぎる」
つまりは、わかりにくい、と。
確かに、やる気が空回りしているような感は、自分でもあった。
情報は間違っていないか、書くべきことを書いているか。
色々と考え、詰め込み過ぎて、最後は無理やり縫い合わせた感がある。
情報を詰め込むことばかり考えていなかったか。
読みやすさは考えていたか?
特に、美術についてあまり知らないであろう人でも面白い、と思えるように書いていたか。
その問いに対して、ちゃんと答えられない自分がいた。
家に帰った後は、頭を抱えてベッドの上を転げまわった。
コラム記事を書く時、いい加減な情報を書かないことは、基本ルールだ。
年代、タイトル、作者名…。何かの文を引用する時は、ちゃんとその引用元を記載する。
それは言ってしまえば、食材。
それらをどう料理するか。
何を主役として、どのようにしてその味わいを引き出すか。
だが、考えるべきはそれだけではない。
そして数か月後。
別の展覧会(「ロマンティック・ロシア」展)記事に取り組んだ時も、「マニアック」の言葉が頭の中をぐるぐると廻っていた。
題材は、ある意味プラド美術館展の時よりも厄介だった。
ベラスケスなら、<マルガリータ王女>の肖像で、ある程度知られている。
が、今度は日本ではマイナーなロシア絵画だ。
私も、「ちゃんと書けるのか」と取材に行く前は正直不安で仕方がなかった。
だが、入口をくぐり、最初の絵の前に立った時、憂鬱な気持ちも不安も、全て爽やかな風が吹き飛ばしてくれた。
その風の源は、冒頭を飾る一枚の絵だった。
アレクセイ・サヴラーソフの<田園風景>である。
どこまでも広がる広い大地。空には一羽の鳥の影。
花をつける林檎の木々。
日本人にとっての桜のように、林檎の花はロシアの人々にとっては春の訪れを告げる代表的な花だ。
それが、風に吹かれて、さらさらと花びらを散らしている。
それまでロシアというと、「寒そう」、「厳しい冬」のイメージが強かったが、それを一息に塗り変えてくれる一枚だった。
そして、この絵の後も、春夏秋冬と四季のそれぞれの美しさを描き出す絵が続いていた。
一歩進むごとに、風や草の匂い、木々のこすれあう音を感じた。
音声ガイドから流れてくる情報に、時に「へえ~」と頷いた。
会場にいた時間は一時間にも満たない。
が、その間に見聞きしたことは、2泊3日のパック旅行にも匹敵した。
帰宅する道々、展覧会のことを思い起こしながら、それをどう伝えるかをひたすら考えた。
「『ツアー旅行』のようだと思うなら、そのイメージで書くのはどうだろう?」
「…自分がこの『旅行の参加者』(モニター)として、何に感動したか、を素直に書いてみよう」
そう、できるだけ、難しい言葉は使わずに。(この場合は、生半可な知識がなかったのが、却って幸いしたかもしれない)
そして、一週間かかって、書き上げた記事がこちら。
この記事は、今でも「自分の代表作」として胸を張って見せられる。
さらに後、友人に、その内容をかいつまんで話した。
「こんな感じでどう?」
「面白いと思う」
私はニヤリと笑った。
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