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ミケランジェロの矜持

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「これは…」

 1529年、フェラーラ公のコレクションルームで、その作品を目にしたミケランジェロは、しばし見入ったのではないだろうか。

 美しい田園風景の中、ワインの入った盃を掲げ、あるいは容器から直接飲み、歌い、踊る人々。画面の右端には、酔いがまわったのか、無防備な姿勢で眠り込んでしまった女性までいる。

 まさに歓楽そのものと言うべき空気が、こちらにまで伝わってくるかのよう。広い青い空、こんもりと繁った木々(よく見ると、葡萄のツルが絡まって居たり、鳥が止まっていたりと面白い)など、自然の描写も美しい。

 理想郷とも言うべき場面である。

 タイトルは<アンドロス島の人々(バッカス祭)>。作者はヴェネツィアを中心に活躍する画家ティツィアーノ・ヴィチェリオ。

 「デッサン(線描)」を重んじるミケランジェロたちフィレンツェ派とは対照的に、「色彩」を重視し、明るく華やかな場面を作り出すヴェネツィア派の中心的存在だった。

 全く違う教えを芯に据えた、自分とは異質な「美」。

 特に目を引いた要素の一つは、画面前景で眠り込む裸婦だっただろう。

 白く透き通るような肌は、群像の中でほのかに淡い光を放っているかのよう。顔だけはほんのりと酔いで赤く染まっている。

 女性の肌の柔らかさ、体温すら感じさせる表現はティツィアーノはじめヴェネツィア派の絵の魅力の一つでもある。

 また、「横たわる裸婦」は、当時のヴェネツィアで流行していたモチーフでもあり、このティツィアーノの<ウルビーノのヴィーナス>は、その代表例として名高い。

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 ミケランジェロも、絵を前にその美しさを認めないわけにはいかなかった。と同時に、闘志も燃やした。

「俺は、俺のやり方で、これを越えたい…!」 

 そう思ったのではないだろうか。

 そして、フェラーラ公から「テーマは任せるから、作品が欲しい」と注文を受けたのをきっかけに、彼は自ら「横たわる裸婦」のモチーフに挑戦するのである。

 それが、<レダと白鳥>だった。(オリジナルは既に失われ、今見られるのは、コピー作品)

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 スパルタ王妃レダが、自分を見初めたゼウスの化身である白鳥を、足の間に抱きかかえ、キスしているというなかなか際どい構図。

 肉付きの良いがっしりした体格は、ミケランジェロらしいといえばらしいが、この姿勢は体が痛くなりそうで無理があるのでは、と少し心配にもなってくる。

 しかし、このような構図やポーズをミケランジェロがわざわざ選んだのには、それなりに意味があったのではないか。

 ミケランジェロは、彫刻だけではなく、絵画や建築にも才能を発揮していた。だが、20代で制作した<ピエタ>像の聖母の帯に「彫刻家ミケランジェロ」と彫るなど、自分の本分は何よりも「彫刻」にあると考え、終生誇りにしていた。

 彼にとって、芸術の中で最高のジャンルはもちろん「彫刻」―――その特徴は、あらゆる角度からの鑑賞に堪えられる立体表現。

 彼は、<レダと白鳥>を真横から描いているが、彫刻で同じモチーフを取り上げた場合の立体イメージも、彼の中には明確に出来上がっていたのではないだろうか。

 たぶん、材料さえ揃えば、(そして彼の気持ちが向けば)、彼は小型のフィギュアを作ることだってできるだろう。

「どうよ?」 

 彼は、ティツィアーノの前でどや顔の一つや二つはしたかったのではないか。

 これが、デッサンを積み重ね、人体を研究してきた結果だ、と。

 絵画などという小手先の技で満足しているんじゃあ、それまでだ。

 そもそも「彫刻」は、「絵画」なんかと違ってごまかしが効かないんだ。

 こんな構図、お前さんたちじゃあ、思いつけないだろ?

 

 話には続きがある。

 絵が制作されてから12年後の1541年、ミケランジェロの弟子であり友人で会ったヴァザーリがヴェネツィアを訪れた際、<レダと白鳥>のコピーも携えて行ったのである。

 これは、言ってしまえば、ヴェネツィア派、特にティツィアーノへの挑戦状だった。

 もちろん、ティツィアーノも、打ち込まれたサーブを無視はしない。

 4年後、ローマで彼は一枚の作品を描きあげる。

 それがこちら。

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 クッションにもたれかかり、緩く上半身を起こした姿勢、折り曲げた足など、ミケランジェロの<レダと白鳥>のポーズを左右反転した上で引用している。

 ティツィアーノは、ミケランジェロが打ち込んだサーブを、ちゃんと打ち返したのだ。自分ならではのやり方で。

 しかも、この作品は絶賛され、「<ウルビーノのヴィーナス>よりも色っぽい」とまで言われた。

 ちょうど同じころにローマにいたミケランジェロもやはり気になったらしく、作品を見に来た。

 進化したティツィアーノの作品を前に彼が、どうコメントしたか…。

 それはまたの機会に。

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