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父と私(前編)

父が実家に戻った。と先日母から連絡があった。
それまでは私名義で借りてあげた埼玉の安いアパートに父は住んでいた。

私は父が大嫌いであった。
大人になって、私は父に良く似ていることを自覚するようになったのだが。

小学生くらいになると、すでに父のことが嫌いになった。少しずつ自分の家が他の家と違うのではと気づいてくる。父を憎めば憎むほど、私は自分を責めた。私のせいだと。私には常に罪悪感があった。父を嫌いな自分へ対する罪悪感か、自分が存在することへの罪悪感か。時々教会へ通っていたからかもしれない。

母が妊娠するたびに祖母は私たちの前で「殺せ」と言った。ナイフを持ってくることもあった。そんな頃、母が5人目の子供を妊娠した。逃げる為の家族会議が幾度となく繰り返され、私はわくわくした。一緒に住んでいた祖母を置き去りに、ある日の明け方、私たちは姿を消した。

小学校も突然転校することになったので、お別れ会とかも、最後の別れとかもなかった。逃亡から数ヵ月後の小学4年生最後の日、妹がまたひとり生まれた。その日の学校の帰り道、私は気づかず後をつけられていた。真っ青な顔で私はひとり病院に行き、産婦人科の看護婦さんたちを心配させた。この世の終わりだと思った。そして祖母に居場所を突き止められた私たちは、結局戻ることになった。家に帰りたくないから、というのもあったのかもしれない、いつも朝早くから夜遅くまで学校でトランペットを吹いていた。

父は定職につけない人であった。昔は病院の精神科で働いていた。私が小学校あがるかあがらないかの頃、ある日突然病院を辞めてきた。それから転々と仕事に就くが、1年ももたずにやっぱりある日突然辞めてくるのだった。

家には図書館のように医学書やら歴史書やら、哲学書やら法律書、ドイツ語の本、英語の本などがびっしり、壁一面に作りつけられた本棚を埋め尽くしている。小学校4年生の頃には図解入りの本を渡され、子供がどうやってできるのか、避妊には解禁されていないがピルがある、なども知っていた。中学くらいに少し哲学に興味が沸くと、父はまずキルケゴールとプラトンの本を読めと渡した。私はソクラテスが読みたかったのだが。

持っている能力や、勉強したことを、社会でうまく出せたならば、うちはこんなに貧乏ではなかった。子供ばかりを無責任に作り、仕事もせず、苦労しているのは母ばかりに思えた。子供の目にもひどい祖母、難しい父親、たくさんの子供たちを育てる為のお金・・・。そんな間に挟まれ、精神的にも、肉体的にも限界を通り越していた母は、視力を一時的に失ったりもしていた。

箱入り娘だった母。苦労はさせません、お嬢さんを必ず幸せにします。そう言って、毎日大地主の母の実家まで通いつめて、母の両親を口説き落とした父。教会に通っていた母に、グリークラブで歌っていた父が一目ぼれしたらしい。母は18歳で26歳の父に嫁ぎ、1年後にはひとつ年上の兄が生まれ、次の年には私が生まれた。将来有望にしか見えない父に、少なくとも経済的な苦労はないはずだった。

お前を父親とは認めない。
そう言って、中学生の私は家を出た。とはいっても昔家を建て替えるときに住んでいた小さな近くの小屋に逃げただけなのだが。
地元ではいいとこの中学へ入学した私を、父は誇りに思っているようだったが、中学生で新聞配達などをする私を父はよく思っていなかった。私には学校へ行くことよりも働いてお金を稼ぐ方が、最優先事項であるように思えた。誰のせいで働いていると思ってるんだ、と言うのもうんざりだった。中学3年も終わりになると、高校進学も考えなくなり、音楽も辞めみんなが受験勉強にラストスパートをかけている頃、私は漫画ばかりを描いては投稿した。地元で掃除婦をしながら漫画を描いて生きていこうと思っていたのだが、最後は母がもっと働くから、高校へ行きなさいと説得にきた。漫画を描くにも、高校行ったほうがストーリーも浮かぶだろうと・・・さすがは私の母らしい。受験勉強はせず、割のいいバイトをはじめ、私は夜中も働くようになった。

その中学から行くには各段にレベルの低い高校へ進学し、明け方まで働き、嫌いな先生の授業はとことん睡眠の時間として確保したが、私の成績は悪くなかった。1年生から生徒会役員もやった。

夏休みの海外研修のメンバーにも選ばれ、サンフランシスコに行って、私の人生は180度方向転換してしまった。


(つづく)

20050513

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