自分らしく生きるため、怖がりだった私にサヨナラを。
傷ついたらすぐに泣いてしまうような子どもだった。
失敗をしたら感情のままに何日か落ち込んでしまうような子どもだった。
それでいて立派に自己防衛本能を働かせて、次の一歩が出なくなってしまうことがザラだった。
「いい子だね」「マジメだね」「優秀だね」といわれ続けた。
引き換えに、失敗がどんどん怖くなっていった。
そうして評価が下がり嫌われることが、どんどん怖くなっていった。
失敗したら、上手く出来なかったら、自分が否定されるような感覚。そんな感覚にいつも追われているような気がして。息切れしながらなんとか生き延びていた。
そのときの私の判断基準は、
「正解か、不正解か」「常識か非常識か」。
なぜなら、そうしたら褒められるから。認められるから。
、、、皮肉なことに、褒められ認められても、私の中の私はどんどん「空っぽ」になるばかり。どれだけ人に囲まれても、いつも満たされないのだ。
「なんで、、、?」
当時はそれがなぜだか分からなかった。
ただ自分が"何か"を偽り、"何か"を隠し、そのために演じながら生きていることだけは分かった。
2020年、12月。
今年はそんな「いい子だね」「マジメだね」「優秀だね」と言われ続けた私にとって大きな出会いに恵まれていた。
過去の私の判断基準は「正解か、不正解か」「常識か非常識か」であった。
そんな基準を持っていた私が、偽りながら隠してきた"なにか"が、その出会いによってなんだったのか判明した。
それは、"本当の自分の姿"であった。
いろんな顔を持つ、"本当の自分"であったのだ。
出会いによって暴かれた"本当の自分の姿"は、どうやら「面白い」らしい。きっと私が予想外なことを突然言い出したり、やり始めたりするからであろう。
そういえば私はそれほど「我儘で自由な子ども」だったのだ。
それを忘れるほどに、まわりからの"期待や評価"の存在を大きくしまっていた。大きくしまっていたそれらの存在に、自分を隠してしまっていた。
だから、怯えていた。
そこから外れてしまうことに。
でも、違った。
外れてしまうことは、怖いことではなかった。
本当に怖いのは、"本当の自分の姿"を見失ってしまうことだった。
過去の怖がりだった私は、もういない。
目に見えない期待や評価に追われ、脅威にさらされていると思いこんでいた私はもういない。
いるのは、"本当の私の姿"だけ。
今の私の判断基準は、
「自分の選択に納得できるかできないか」
「面白いと思えるか思えないか」になっていた。
「自分に納得できるかどうか」「面白いと思えるかどうか」は、"本当の自分の姿"をいかに感じて、向き合えるかどうかにかかっている。
本当に大切にしていきたい自分の姿が、いまここに在るかどうかにかかっている。
そのためには、自分自身が、ちゃんと今の自分を見つめてあげる。
どんな感情を持っていて、どんなことがやりたくて、どんなことが好きなのか。なにが心地が良くて、なにが心地が悪いかを知っていく。
そして、自分自身が、「自分自身の一番の理解者でいてあげること」を、決してあきらめない。
そんなことを少しずつ少しずつたいせつにしていたら、いつのまにか「怖がりだった自分」にサヨナラを告げていたのだった。
***
私は、大切にしたい気持ちに出会ったとき、決まってお花を買うようにしている。
最近買ったこのお花は、オレンジ色のガーベラ。
花言葉は『冒険心』『神秘』「我慢強さ』。
「怖がりだった私」にサヨナラを告げた私への餞の言葉にぴったりだった。
"本当の自分"に舞い戻り、素直な心で生きる時間があるというのは、なんて心地良いのだろうか。
この私で生きて、この良い循環を巡らせていけますように。
だからあなたも。
大切に、大切に。ね。
アズ
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