タイトルが必要なのか…

レスポンス良く、物分かりの良いふりをするのはもうやめる。

自分の内側にいる時、そもそも外からの働きかけに対しての反応は遅くなること。(わたし、またここに戻ったんです)

逆に、素直に気持ちよく、素早い反応ができる場合、それはゴーサインだし、欲しいものだし、肚の声だ。(だからわたくしという人間が理解できるのだろう)

もしくは、自分の内側の声ではなくて、今までの慣れ親しんできたやり方をただただ繰り返しているだけ。

それ、自分を生きてるって言える?

そして、

物わかりの良いふりは、わたくしの得意なやつ。

得意というか、それがわたしのやり方、生存戦略なのだ。今までの。

その戦略をもう捨てる。

いらない。

物わかりのいい奴になって、どうするつもりだったのか、何を得たかったのか、そんなこと考えると吐きそうなほど。そしてなにをどうしたかったなかなんて、とうに知っていたけれど、結局欲しいものは得られなかったし、あると思っていた場所にはそもそも用意されていない。

そんなこともとっくに気がついていたし、何がどういうことなのか、一時は知っていたこともあった。

またそこに戻りたい、という意識はなきにしもあらずだが、とにかく。

もう飽き飽きだ。

物わかりのいいふりなんて、もうしたくないのだ。

むしろ物わかりは悪い。本当は。

良くないを通り越して、悪い(笑)

もうここは、、諦める。自分に諦めます。


今朝、わたしが今どこにいるのか確認した。

自分の中の小さな自分をみた。

今度は、今度こそは、彼女に寄り添う。

そのままでいいよ、と、言える。

物わかりの悪い、すんなりいかない、小さなこの子。

そのままでいいんだ。



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