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雨の日の心模様

講演会でよく聞かれる質問の一つに

「目が見えなくて困ることはなんですか?」

というものがある。私はいつも

「地震などの災害、非常時が一番困ります」

と答えている。

生まれたときから見えない私は、今の状態が当たり前で暮らしてきた。日常生活の中での「困りごと」はいくつかあるものの、生活ができないほどのものではない。でも、災害などの非日常では、見えないことが大きなマイナスになる。講演会では、阪神大震災での被災経験、東京で2カ月の娘と過ごした東日本大震災の経験を話しながら、周囲との繋がりや避難所で感じた自身の障害についてお話ししている。日常の中での困りごとがあっても、周囲に手伝ってもらったり、ICTの力で解決していることが多く、普段は「見えないこと」を意識せずに生活している。それでも、ときどき見えないと困るな、と思うことがある。先日も久しぶりにそんなことがあった。

出勤前にみどりの窓口に行こうといつもより早めに家を出た。朝から雨が降っていて、慎重に白杖から伝わる感覚に集中し、周囲の音を聞きながら駅へと向かった。みどりの窓口の入口を探す方法として、自動ドアのガラスに白杖が当たったことを確認して、扉を開けるために手を延ばす。最初の目印を探しながら歩いていたのだが、なかなか杖が扉に当たらない。この辺りかと進むと、普段は閉まっている扉が開いていた。部屋に入ったことは周囲の音が遮断される感覚で分かった。しばらく進むと、シャッターのようなものに白杖がぶつかった。確か9時半からだったなと思い出し、まだ時間もあったので先にお昼を買うために隣のアトレへと向かった。いつもおにぎりを買っているお店は、エスカレーターを上がり切ったところから右斜め前にあり、注文する人の声やおにぎりをパックに詰める音を目印ならぬ耳印に探している。列の最後尾を探しながらゆっくり進む。
最後尾を見つけて止まれるわけではなく、前に並んでいる人に白杖が当たることでしか人が立っていることに気づけない。前に立っていた人に白杖が当たり、すみませんと謝って

「列の一番後ろはここで合っていますか?」

と尋ねると、女性の声が返ってきた。

「後2・3人並んでますけど、ここにどうぞ」

とその方の前に私を入れようとしてくれた。

「いえいえ、大丈夫です。並びますので」

と答えてから

「どうぞどうぞ」
「大丈夫です」

のやり取りを二回繰り返した。ここで押し問答をしていても仕方がないので、その方の前に入らせてもらうことにしたものの、後ろに並んでいる人たちに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。見えないからといって、列に並ばなくていいことにはならないからだ。

「一番後ろまで誘導してもらえますか?」

と言えるときもあれば、今回のようにタイミングを逃してうまく言えないこともある。数歩先の列の後ろが分からない。見えなくてもどかしい気持ちになるのはこういうときだ。

おにぎりを買って、みどりの窓口へと戻った。まだシャッターは閉まったままで、9時半まで5分ほどあったので、待つことにした。時間になってもシャッターが開かず、駅員さんに尋ねに行った。

「みどりの窓口、営業終了したんです」

と教えてくれた。お礼を言って職場へと向かった。どこかに張り紙がしてあったのだろう。数メートル先の張り紙が見つけられないことも、列の一番後ろが見つけられないことも、見えない私の日常ではよくあることだ。さらっと流せる日もあれば、この日は少し疲れてしまった。駅の構内から外に出ると、朝から降り続いていた雨が強さを増していた。

出勤した私を元気に出迎えてくれたクラスの方たちに

「さっきこんなことがあったんですよ」

と一連の出来事を話すと

「そういうことありますよね」

と明るく答えてくれた。視覚障害当事者として働いていて、日常の出来事から感じた気持ちを語れる環境はありがたい。クラスの方々や同僚に話すことで、少し気持ちが浮上してきた。雨が降るからこそ、晴れている日が当たり前じゃないことに気づく。少し経てば忘れてしまうような小さなことも、私の日常を作っている要素なのだと気づいた出来事だった。

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