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【山梨県立博物館】企画展「小林一三生誕150年 宝塚歌劇の世界」を見に行く

はじめに

 笛吹市に所在する山梨県立博物館にて企画展「小林一三生誕150年 宝塚歌劇の世界-清く、正しく、美しく」(2023.10.14~12.4)が開催されています。
 阪急電鉄や宝塚歌劇団を創設した小林一三は山梨県韮崎市の出身です。本年は一三の生誕から150年の節目となります。そうしたことから、阪急財団の協力のもと一三と宝塚歌劇に関する展示が実現しました。
 サインボードやチラシは、華やかな宝塚の世界観を全面に押し出しています。しかし、展示内容は一三と宝塚歌劇の関わり、そして宝塚歌劇の歴史に触れる内容が中心です。もちろん衣装などの展示はありますのでファンも楽しめる内容です。
 昨今の宝塚歌劇団におけるハラスメント問題がありますが、被害者の主張が事実ならば決して許されることではありません。今回の展示からも宝塚の伝統の重みを意識せずにはおられませんが、この問題に関する私見は差し控えますのでご了承ください。

メインビジュアルの2023年雪組公演「ジュエル・ド・パリ!!」フィナーレ
出典 : 山梨県立博物館HP

小林一三生誕150年 宝塚歌劇の世界

 副題である「清く正しく美しく」は、一三の教えであり、宝塚音楽学校の校訓ですが、本展示では一三が心血を注いだ宝塚歌劇の象徴と考えるのがよいでしょう。
 ただし本展は、宝塚歌劇の紹介ではなく、実業家として一三や、宝塚歌劇の歴史的部分など、博物館としての展示要素の高い内容になっています。展示資料はおよそ100点です。

2023年雪組公演「ジュエル・ド・パリ!!」フィナーレ
裏面も宝塚の華やかさ

 宝塚歌劇に関しては肖像権、著作権などから、公式図録ですら資料名のみで図版は掲載していない資料が多々あります。一三の地元とゆえに阪急財団から特別に貸し出しできたものも多いといいます。こちらも注意をはらっておりますが、不手際があればすぐに削除等の対応させていただきます。

プロローグ

 エントランスから進むと企画展示室が見えてきます。

「宝塚歌劇の世界」ゲート

 ミュージアムショップで扱っているグッズや図録の案内のケースもあります。これだけで宝塚の世界観が目に入ってきます。

ミュージアムショップで扱っているグッズの紹介

 撮影可能な展示として入場ゲート前に衣装が2点展示されています。
 各組のスターが一同に会する「タカラヅカスぺシャル」のうち「タカラヅカスぺシャル2014-Thank you for 100yers-」で着用された衣装の一部です。

「タカラヅカスぺシャル」の衣装は撮影可能
男役スターのタキシード
スパンコールもまぶしい娘役スターのドレス
「タカラヅカスぺシャル2014-Thank you for 100yers-」の模様

 展示室へ進むと、109期生が正装の緑はかまで口上を述べるシーンがあります。舞台上部に一三の書で「清く、正しく、美しく」とあります。

宝塚大劇場の初舞台で口上を述べる第109期生 出典 : 山梨県立博物館HP

 展示には、上記向上で掲げられた「清く、正しく、美しく」の元となった扇面の書があります。ただし複製です。

「清く、正しく、美しく」の扇面(複製)
出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』
所蔵 : 阪急文化財団

 担当学芸員のうちのひとりの解説によれば、この「清く、正しく、美しく」には一三が参考にしたと思われる出典を調査中でいずれ公表できるかもしれないとのこと。

第1章 宝塚歌劇の原点

 まず、小林一三の生まれから学生時代を経て、鉄道事業と宝塚歌劇を生み出すまでを紹介しています。
 一三が山梨で過ごしたのは15歳までで決して長くはありません。山梨を出て慶応義塾に入りますが、在学中に小説を書くなど文学的な才能を持った学生でした。宝塚歌劇の創設にはそうした文学青年が素養が下地にあったことが分かります。

小林一三 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』
原典 : 阪急文化財団

1_1 韮崎に生まれる

 小林一三(1873年~1957年、明治6年~昭和32年)は巨摩郡河原部村(現在の韮崎市本町)の豪商の家の分家に生まれました。1月3日に生まれたことから一三と名付けられました。生後数か月で母が亡くなり、父は婿だったため離縁となり、一三は本家にて養育されました。

『甲府繁盛記』1903か? に載る一三の生家 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』

 生家跡は、長らく一三の美術コレクションを所蔵する逸翁美術館の所有でしたが、2010年(平成22年)に韮崎市に寄贈されています。

「にらさき文化村」となっている生家跡 出典 : 峡陽文庫

 一三は、韮崎学校(現在の韮崎小学校)の高等科を卒業しています。一三の卒業証書が展示されていました。卒業証書に付された番号から3番目の成績で卒業したことが分かります。

小学校高等科卒業証書  出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』

 卒業後は、1886年(明治19年)13歳で東八代郡南八代村(現在の笛吹市八代町)の私塾「成器舎」に進学します。成器舎からは、富士身延鉄道(現JR身延線)の建設や富士急行を創業した堀内良平や、山梨交通の社長を務めた河西豊太郎などの実業家を輩出しています。
 しかし、一三はというと、腸チフスに罹り2年で成器舎を退学しています。

1_2 文学青年一三と「練絲痕」

 成器舎を退学後の一三は、1888年(明治21年)に上京し慶応義塾に入学します。
 一三はもともとは作家志望の文学青年でした。慶應義塾在学中に小説を執筆していて山梨日日新聞に連載9回(明治23年4月15日から25日まで)で掲載されています。17歳で小説が紙面に載ったということになります。
 一三の小説は「練絲痕れんしこん」といい、明治23年に宣教師であるラーヂ女史が殺害された事件を題材とした小説でした。そのため事件の内情を知るのではないかと一三は麻布警察署より事情聴取をうけることになったといいます。
 後年、一三は、この小説の載った紙面を探してもらうよう交流のあった宮武外骨(1867年~1955年、慶応3年~昭和30年)に依頼しています。紙面が手に入ることが分かると外骨から30円の要求に対して、一三は100円出そうとまで言っています。100円は現在の価値で30万円に相当します。
 「練絲痕」は発見された新聞紙面から一冊にまとめ、外骨の編集している『公私月報』第47号の附録として、昭和9年8月に発行されました。

『練絲痕』『公私月報』第47号の附録
  出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』

 「練絲痕」の掲載紙の入手に至る書簡のやりとりや外骨と一三の交流の様子が分かる資料などが展示されています。「練絲痕」については、多くの展示を割いています。

小林一三筆 宮武外骨宛書簡 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』

 「練絲痕」以外にも、慶応義塾時代に一三が書いた小説として1891年(明治24年)「甲州路」(未発表)、1892年(明治25年)「笹子峠の露宿」(未発表)などがありこれらの原稿も展示されています。

1_3 阪急電鉄と沿線開発

 文学青年であった一三は、卒業後の進路は新聞記者を志望していたといいます。実際には三井銀行に入行することになり、気が進まなかったと自伝にて書いています。
 三井銀行を1907年(明治40年)34歳で退職します。証券会社の設立に参加する予定でしたが日露戦争の余波を受け紆余曲折の末、箕面有馬電気軌道みのおありまでんきてつどう(現在の阪急電鉄)の専務(事実上の経営者)に就任します。1918年(大正7年)に阪神急行電鉄と名を改めます。1927年(昭和2年)一三は正式に社長になります。

開業当時の箕面有馬電気軌道
出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』

 『最も有望なる電車』は箕面有馬電気軌道開業前の宣伝パンフレット冊子です。QA方式により疑問点・不安なポイント・将来展望を表し出資を集っています。

『最も有望なる電車』1908年(明治41年)
出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』

 箕面有馬電気軌道の沿線は田畑ばかりで「ミミズ電車」と揶揄されるなか一三は乗客を誘致するためにさまざまな多角経営のアイデアを実現していきます。これらは現在でも通じる民鉄の経営の模範となっています。大きなものは次のものです。
 沿線に住宅地を開発して分譲
 宝塚新温泉など観光施設の設置
 駅に直結した百貨店の建設

 一三が著述などで山梨時代のことについて語る著述は少ないのですが、前述とは別の担当学芸員によれば、一三の「民尊官卑」の思想の基礎は山梨にあるといいます。山梨(甲斐)は長らく幕府の直轄領でした。一三は山梨には士族がいなかった、士族がいればむしろ軽蔑していたと著書『私の生き方』で振り返っているのだといいます。
 こうした一三の、民間主導の姿勢が多角経営のアイデアへと繋がったのです。

 沿線に住宅地を開発と分譲においては、初の住宅ローンともいえる月賦による住宅販売を始めています。一三は住宅販売においても冊子を作っていて『如何なる土地を選ぶべきか、如何なる家屋に住むべきか』にて、沿線の優位性や月賦販売を宣伝しています。こうした宣伝冊子は文学青年だった一三ゆえの発想です。

宅地販売のための冊子
出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』
原典 : 『阪神急行電鉄二十五年史』

 また、観光施設の建設として、箕面に「箕面動物園」、宝塚に「宝塚新温泉」を作りました。下記は箕面有馬電気軌道の見どころなどを紹介し売り込むためのスゴロクです。こうしたものも一三のアイデアでした。

箕面有馬電気軌道回遊双六、1913 
出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』
原典 : 阪急文化財団

 1929年(昭和4年)、起点である梅田駅に直結したターミナルデパート阪急百貨店を開業させます。呉服店を母体とする百貨店が多い中で、駅に直結する立地の良さを目指しました。宣伝文句は「どこよりもよい品物を、どこよりも安く売りたい」です。
 また、同じ山梨の出身の「地下鉄の父」こと早川徳次は一三に経営のノウハウを学び「地下鉄ストア」として活かしています。

梅田阪急ビル、1929年 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』原典 : 阪急文化財団

第2章 宝塚歌劇の誕生

 多角経営の3つめは、百貨店や住宅より先立つこと1911年(明治44年)に小さな温泉町だった宝塚に「宝塚新温泉」を開業させたことです。大理石づくりの大浴場で、その温泉施設の余興として始まったのが宝塚少女歌劇です。第2章では宝塚と生前の小林一三とのおよそ40年の歩みを紹介しています。

宝塚新温泉の風景 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』

2_1 少女歌劇の誕生

 「宝塚新温泉」は当所目玉施設として屋内プールを備えた娯楽施設の洋館「パラダイス」を開設しました。しかし、プールは現在のような温水でなかったことや、男女が一緒プールに入ることが風紀上できず、客足が伸びませんでした。

プールを備えた洋館「パラダイス」 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』
「パラダイス」の室内プール
 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』

 一三は、プールを劇場として余興に使うことを思いつき1913年(大正2年)「宝塚唱歌隊」を編成しました。これは、当時好評だった三越百貨店の「少年音楽隊」をヒントに少女だけの音楽隊にしたもので「宝塚少女歌劇団」の起源です。
 最初の公演は大正3年(1914)4月で、新温泉パラダイスの室内プールを改装したパラダイス劇場(500人収容)でおこなわれました。演目は合唱のほか、舞踊と歌劇「ドンブラコ」「浮れ達磨」などでした。温泉の入場客は無料で観覧できたといいます。公演は好評を博し、宝塚歌劇の歴史が幕を開けたのです。

パラダイス劇場での公演 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』
「ドンブラコ」 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』

2_2 脚本家小林一三

 一三は経営だけでなく、歌劇団では脚本も製作しました。「紅葉狩り」(大正3年)、「雛祭り」(大正4年)、「クレオパトラ」(大正7年)など数多くの作品を手掛けています。また、海外公演のために計画した「恋に破れたるサムライ」は歌舞伎の演目を基にしたレビュー作品でしたが海外公演は実現しなかったものの大正12年に宝塚大劇場と東京宝塚劇場で公演されています。一三の脚本執筆は、昭和20年頃までを行われました。

小林一三脚本「クレオパトラ」 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』

 一三の脚本は『歌劇十曲』、『続歌劇十曲』などに収録されています。

小林一三『歌劇十曲』1917
 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』

 宝塚歌劇の機関誌「歌劇」は、1918年(大正7年)に創刊され現在も月間で刊行が続いています。はじめの頃は一三自身が編集長を務めていました。

2_3 宝塚音楽学校

 1919年(大正8年)、宝塚音楽学校が創立されます。「宝塚唱歌隊」は「宝塚少女歌劇団」と名称をあらためました。
 宝塚音楽学校は、予科と本科で2年間通い、その後歌劇団として舞台に立ちます。一三は初代校長となっています。生徒にはお父さんと呼びなさいと言っていたようですが、校長先生と呼ばれていました。のちに一三が亡くなり宝塚音楽学校葬が営まれたときも、弔辞で校長先生と呼ばれていました。
 緑の袴が正装とされていますが、丈はやや短めが特徴ですが、当初袴の色は自由だったといいます。1921年(大正10年)に一部の生徒の緑色の袴を見た一三の発案で緑で統一されることとなったといいます。

小林一三筆「芸また芸」出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』 所蔵 : 阪急文化財団

 少女歌劇団の団員の芸名は当初百人一首から採っていたといいます。一つの和歌から3名分の芸名を採用した例もあるものの、すぐに枯渇してしまい、団員が個性的な芸名を考え用いるようになったといいます。

2_4 宝塚大劇場

 好評であった宝塚少女歌劇は観客の増加に対応するため、1919年(大正8年)に箕面公会堂を移築し新歌劇場(通称、公会堂劇場、1500人収容)とします。1921年(大正10年)にはパラダイス劇場(500人収容)と公会堂劇場の二か所で公演を行っていました。公会堂劇場には左右に桟敷席が設けられ20銭の予約席でした。一方中央の椅子席はパラダイス劇場のように無料で観覧できました。しかし、その後公会堂劇場からの失火があり公演は打撃を受けます。
 1924年(大正13年)、宝塚大劇場は4000人収容と現代考えても大規模な劇場が完成します。ここには、多くの人に歌劇を楽しんでほしい、値段を安くするために収容人数を増やしたいという一三の考えです。また、4000人が鉄道を利用することは鉄道経営にも有利に働きます。
 1993年(平成5年)に新・宝塚大劇場となるまで、およそ70年間公演が行われました。

宝塚大劇場(大正13年) 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』
4000人収容の宝塚大劇場内部 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』

 1934年(昭和9年)には東京宝塚劇場が完成します。下記画像は、東京宝塚劇場こけら落としとなった月組公演のプログラムです。

宝塚少女歌劇番組(昭和九年正月 東京宝塚劇場 月組公演)
 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』
所蔵 : 阪急文化財団

 1938年(昭和13年)には、ヨーロッパ公演をしています。戦争の影が近づく時代でした。「日独伊親善芸術使節団」としてドイツ・ポーランド・イタリアの26都市で半年にわたる公演をこなし帰国します。また翌月は「日米親善芸術振袖使節団」としてアメリカ公演に行っており海外公演は大成功を収めています。

 時は流れ、1957年(昭和32年)、一三は84歳で急逝します。葬儀は宝塚音楽学校葬として、宝塚大劇場にて営まれました。黒紋付に緑の袴姿の劇団や音楽学校の生徒、劇団関係者のほか、各界の名士ら3000人に見送られました。

2_5 組の歴史

 1914年(大正3年)に16人で発足した宝塚少女歌劇でしたが、観客の増加に対応するため、1921年(大正10年)にはパラダイス劇場と公会堂劇場との2部体制にしました。のちの花組と月組です。
 その後、1924年(大正13年)宝塚大劇場の完成を機に雪組を創設し3交代による公演としました。
 1933年(昭和8年)東京宝塚劇場の完成の前に星組を創設し、宝塚大劇場と東京劇場で同時に公演を行えるようにしました。1998年(平成10年)に宙組が誕生しました。特定の組に所属しない専科と5つの組が現在の体制です。

第3章 宝塚歌劇の歩み

 後半は、小林一三の没後の宝塚の歩みです。有名作品の衣装や過去の公演のポスターの全展示など、一三の出生地であることから阪急財団の貸し出し許可が下りているものが多々見受けられます。

 1974年(昭和49年)に初上演され、大ブームとなった「ベルサイユのばら」を始め、「風と共に去りぬ」「エリザベート」といった宝塚歌劇の名舞台の歩みを衣装などともなに紹介する内容です。

 「ベルサイユのばら」は池田利代子のコミック作品で、「ベルばらブーム」を起こすほどの一大ブームとなる作品でした。フェルゼンとマリーアントワネット編やオスカルとアンドレ編があり、過去15回の公演が行われました。
 展示ではオスカル、フェルゼン、マリーアントワネットの衣装を見ることができます。衣装の両側の壁には過去の全15公演のポスターが一同に展示されています。

内覧会の様子、衣装とその向こうに全公演ポスター 出典 : 山梨日日新聞

 最新の「ベルサイユのばら」は2015年花組公演「ベルサイユのばら-フェルゼンとマリーアントワネット編-」です。3点の衣装もその時のものです。左より、
 オスカル(柚香光着用)
 アントワネット(花乃まりあ着用)
 フェルゼン(明日海りお着用)
です。

開幕初日の様子 出典 : 山梨日日新聞
オスカルとマリーアントワネットの衣装
出典 : 山梨県立博物館HP

 ほかに台本として、
 昭和50年宝塚大劇場 雪組公演「ベルサイユのばら-アンドレとオスカル-」
 昭和51年宝塚大劇場 星組公演「ベルサイユのばらⅢ」
 昭和51年東京宝塚劇場 月組公演「ベルサイユのばらⅢ」
 さらに、小道具や小道具のデザイン画なども紹介されています。

 宝塚110周年となる2024年、そして初演からちょうど50年目の節目として雪組による「ベルサイユのばら」の公演が決定されています。

 さらに、名作の公演ポスターと衣装が紹介されています。

内覧会の様子 出典 : 山梨日日新聞

 展示されている作品と衣装です。

 「THE SCARLET PIMPERNEL」(平成22年宝塚大劇場 月組公演)
 パーシー・クレイニー(霧矢大夢着用)
 マグリット・サン・ジェスト(蒼乃夕妃着用)

 「風とともに去りぬ」(平成25年宝塚大劇場 宙組公演)
  レット・バトラー 凰稀かな着用
  スカーレット・オハラ 朝夏まなと・七海ひろき(役替わり)着用

 「エリザベート-愛と死の円舞曲-」(平成30年宝塚大劇場 月組公演)
  トート 珠城りょう着用
  エリザベート 愛希れいか着用

 「ファントム」(平成30年宝塚大劇場 雪組公演)
  ファントム 望海風斗着用
  クリスティーヌ・ダーエ 真彩希帆着用

「THE SCARLET PIMPERNEL」の衣装 出典 : YBS NEWS NNN 山梨放送のニュース

第4章 宝塚歌劇の魅力

 続いて、舞台に輝きを添える衣装や小道具を紹介しています。舞台のフィナーレは、トップスターを中心に大きな羽根の飾りを背にして、スポットライトを浴びながら大階段を降りてくる、あまりにも有名で印象的な姿です。
 ヨーロッパで流行した歌と踊り劇を組み合わせた「レビュー」といわれる公演は、1927年(昭和2年)の岸田辰弥製作による日本初のレビュー「モン・パリ」です。大階段の登場もその時から登場しており当初は16段でした。ラインダンスも行われていて、現在に通じるレビューの形で出来上がっていました。

 舞台で着用された衣装が展示されています。
 2013年(平成25年) 花組公演「Mr.Swing!」蘭寿とむ着用
 2013年(平成25年) 花組公演「Mr.Swing!」蘭乃はな着用
 2015年(平成28年) 星花組公演「LOVE & DREAM」北翔海莉着用
 2015年(平成28年) 星花組公演「LOVE & DREAM」妃海風着用
 2020年(令和2年) 雪組公演「NOW! ZOM ME!!」望海風斗着用
 2022年(令和4年) 宙組公演「FLY WITH ME」真風涼帆着用
 2022年(令和4年) 星組公演「めぐり会いはふたたび next generation 真夜中の依頼人」舞空瞳着用

 記念撮影用のスポットとして大階段が再現され、2023年(令和5年)月組公演「Deep Sea-海神たちのカルナバル-」で使用された、トップスター月城かなと、トップ娘海乃美月のフィナーレ衣装があります。

内覧会の関係者 出典 : 山梨日日新聞電子版
2023年月組公演「Deep Sea-海神たちのカルナバル-」フィナーレ
出典 : 山梨県立博物館HP
2023年月組公演「Deep Sea-海神たちのカルナバル-」
月城かなと、海乃美月着用衣装
月城かなと
海乃美月

 現在の宝塚大劇場大階段は26段、踏みしろは23センチ、1段の高さ16.5センチです。段数こそ短いですが、撮影スポットの「大階段」は実物と同じ寸法で再現されています。
 トップスターの羽根はおよそ10キロあるといいます。

トップ娘衣装の裏側

 続いて小道具の一部として、仮面があります。

小道具 仮面(平成~令和時代) 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』

 帽子などかぶりものなどの小道具も展示されています。

衣装 帽子(2004年~2009年) 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』

 そして、フィナーレでスターが持つシャンシャンです。手に持てる大きさに作品の内容を凝縮してまとめられています。

小道具 シャンシャン(2006年~2017年) 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』
シャンシャンの展示ケース 出典 : 山梨日日新聞電子版

第5章 宝塚歌劇の輝き さらなる100年へ

 宝塚歌劇は1914年(大正3年)の初公演から、まもなく110周年を迎えます。今までの公演の歴史をポスターで振り返ります。

 展示には公演ポスターが6枚ありますが、権利等からか画像は図録にも収録されておりません。
『春の踊り』昭和29年4月 宝塚大劇場 星組公演
『残雪 / 華麗なる千拍子』昭和36年2月 宝塚大劇場 花組公演
『宝寿頌 / PARFUM DE PARIS』平成5年1月 宝塚大劇場 星組公演
『哀しみのコルドバ / メガ・ヴィジョン』平成7年1月 宝塚大劇場 花組公演
『いますみれ咲く / 愛のソナタ』平成13年1月 東京宝塚劇場 月組公演
『眠らない男・ナポレオン -愛と栄光の涯に- 』平成26年1月 宝塚大劇場 星組公演

 壁面には過去の公演ポスターを縮小したものが一同に並んでいます。およそ900点弱です。初期の60点は横長で文字とイラストだけです。やかで縦長サイズに変わります。イラストだったものが写真が使われるようになるなるなど年代を追うごとに変化が分かります。昭和40年代後半までは、下部には真空管やラジオ、家電品などの企業スポンサーの広告が入っていていました。
 最後の衣装はナポレオンです。『眠らない男・ナポレオン』で柚希礼音着用のものです。
 一三誕生の150年前から始まり、一三とともに歩んで、現代に至る宝塚110年の歴史を概観する展示は終わりを迎えます。

ナポレオンの衣装 出典 :  図録『宝塚歌劇の世界 』
ミュージアムショップ
ミュージアムショップ
ミュージアムショップ

【独自】昭和初期のジェンヌ推しを発見

 甲州市勝沼町の旧甲州街道沿いに所在する旧田中銀行博物館には、戦前の東京宝塚劇場の観覧券が残っています。また、当時の星組トップスター葦原邦子(1912年~1997年、大正元年~平成9年)の写真集も残っており、関係者が宝塚のファンであったことが確認できます。

東京宝塚劇場の観覧券
『葦原邦子ポートレイト』宝塚少女歌劇団1936
『葦原邦子ポートレイト』より 出典 : 日本の古本屋

 額に入ったチケットは、昭和11年の日付印が確認できます。東京宝塚劇場のもので、劇場完成よりまだ2年しか経っておりません。
 この田中銀行頭取だった、田中董策の娘で富士急行の二代目堀内一雄に嫁いだ初子のものではないかと筆者は推測しています。

 さらに『葦原邦子ポートレイト』の隣に思わぬ一三との関わりがありました。画像に映っている手拭いは田辺七六翁顕彰碑の除幕記念とあります。一三の父は婿であり離縁されていますが、離縁の後に甲州市塩山の酒造を営む田辺家へ婿入りし、田辺七六の父になっています。
 田辺七六は、衆議院議員でカミソリとあだ名されたキレものでした。その息子田辺国男は山梨県知事と衆議院議員を務めましたし、孫の田辺篤は前甲州市長でした。
 つまり、一三と政界のカミソリ田辺七六は父を同じくする兄弟なのです。一三の宝塚と田辺七六の記念品が並ぶとは偶然なのか、意図的なものか、たいへんに驚きました。

 なお、旧田中銀行博物館の詳細については、拙稿をご覧ください。

おわりに

 小林一三が室内プールの失敗から始めた少女歌劇は110年続いてきました。分譲住宅や百貨店は他の鉄道会社も倣いましたが、少女歌劇は真似できていません。少女歌劇は一三が文学青年の素養によって作り上げてきたからだと思います。
 旧田中銀行博物館における掘り出し物の紹介も入れましたが、宝塚歌劇は東京劇場が出来たことで、この山梨でも戦前からファンを魅了してきたことが分かるのです。

参考文献
図録『宝塚歌劇の世界 』山梨県立博物館、2023
小畑茂雄 かいじあむ講座「文学青年から文化の創造者へ―小林一三と大衆文化―」(山梨県立博物館生涯学習室、2023.10.15、13:30~15:00)配布資料


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