【宮光園】メルシャンの「源流」、醸造所と初の観光ぶどう園の跡
はじめに
甲州市勝沼はぶどうの一大産地です。8月から10月に収穫期を迎え、農家や観光ぶどう園は書き入れ時です。またワイナリーが多数点在するため、新酒が解禁となる11月には一段と賑わいを見せます。そんな勝沼のぶどうとワイン醸造の歴史を伝える施設として「宮光園」「ワイン資料館」「ぶどうの国文化館」があります。
そのうち今回は宮光園を紹介します。宮光園は、創業者である宮崎光太郎の邸宅と醸造所の跡です。宮崎のワイン事業は現在のメルシャンに至る「源流」のひとつとも言えます。
また宮崎は、観光ぶどう園を考案し、現在の観光ぶどう園の形が作られたと言われています。
なお、ワイン資料館、ぶどうの国文化館については拙稿をご覧ください。
宮崎光太郎
勝沼のワイン醸造は明治6年(1873年)の地主や豪農たちによる大日本山梨葡萄酒会社の設立から始まります。彼らは高野正誠(1852年~1923年・嘉永5年~大正12年)と土屋龍憲(1858年~1940年・安政6年~昭和15年)の二人を技術習得のため2年間フランスへ留学させました。
明治12年、二人の帰国によりワイン醸造を始めるものの明治19年に会社は経営破綻します。
出資者の息子だった宮崎光太郎(1863年~1947年・元治元年~昭和22年)は、土屋龍憲とともに設備を譲り受け甲斐産葡萄酒醸造所を設立したうえで、東京に甲斐産商店を興し販路拡大に奔走しました。しかし土屋との方向性の違いから経営を分けることになります。土屋が勝沼の醸造所を引き継ぎ、宮崎は東京の甲斐産商店を引き継ぎました。
なお、土屋龍憲の醸造所は、現在の「まるき葡萄酒」であり、現存する最古のワイナリーとなっています。
一方、宮崎の甲斐産商店の経営も軌道に乗ります。新たな醸造所が必要になった宮崎は明治25年、自宅に宮崎第一醸造場を開設しました。それがのちの宮光園です。
明治37年には道向いの土地に宮崎第二醸造場を建設しました。これがワイン資料館のある、シャトーメルシャン勝沼ワイナリー(以下、メルシャン)です。
大黒葡萄酒ともに庶民向けに甘味料を使ったエビ葡萄酒を販売するなどして、宮崎のワイン事業は大いに栄えました。
観光ぶどう園
宮崎は、明治45年に第二醸造場に隣接するぶどう園を観光施設としました。
宮崎は、ぶどう狩りと醸造場見学という観光事業の形を作り、宮光園と名付けました。ぶどう棚の下にテーブルと椅子がある観光ぶどう園のスタイルは宮光園が始まりと言われています。
宮光園は大いににぎわうともに、多くの皇族や著名人が来園するなど、山梨県の産業施設としても代表的な施設となりました。
ところで、宮崎の「甲斐産商店」ですが、「大黒葡萄酒株式会社」「オーシャン株式会社」とその時代の主力ブランド名へと改称しています。しかし、1962年(昭和37年)に三楽酒造に吸収され、その後も他のメーカーとの合併を経て現在のメルシャンに至ります。
宮崎の邸宅と宮崎第一醸造所跡は甲州市に寄贈され、修復ののち2011年(平成23年)より公開されています。
宮光園
ずいぶんと前置きか長くなりました。現在の宮光園ですが、向かいのメルシャンに対して見学者は少なめです。立派な表門と奥に建物があって何の施設なのか分かりにくいこともありそうです。
正面の建物が主屋です。一階の和風建築に対して二階が洋風建築になっています。もとは、明治時代に建てられた二階で養蚕を行う和風建築でしたが、1928年(昭和3年)に二階部分を洋風に改装しています。
土間に受付カウンターがあります。職員の方から二階からの見学順路を案内されます。
洋風な二階
二階部分は一見洋風建築に改装されていますが、養蚕の部屋であった名残りが天井や梁などにみてとれます。資料展示室になっていて、勝沼のワイン醸造のはじまりから、宮光園の歴史、宮崎光太郎と娘婿の松本三良の事跡などが、パネルと資料で見ることができます。
戦前から戦後、宮光園には、天皇や皇族が度々訪れています(行幸、行啓)。その様子がわかる写真が飾られています。昭和天皇を始め、義仁親王(現常陸宮)、貞明皇后、閑院宮夫妻、久邇宮朝子女王・正子女王、三笠宮甯子内親王(現近衛甯子)などです。
昭和天皇のトイレ
建物の一階に降りると、1947年(昭和22年)の行幸の折りに昭和天皇が使用したトイレが残っています。
このトイレは中に便器がありません。床は平らです。反対側には外から開けられる扉が付いています。
種明かしをすると、このトイレには、持ち運び便器(おまる)を置いて用を足したあとは、外の扉から片づけるのです。天皇は「置き土産」はしてはならなかったようです。
離れ座敷
渡り廊下で離れ座敷と文庫蔵につながっています。離れ座敷は私的なもてなしのための部屋です。文庫蔵は畳が敷かれていることから座敷蔵とも呼ばれ、甲州街道沿いに見られる蔵の形です。道具蔵はその名の通り醸造に使用した道具などを保管していました。
ところで、離れ座敷のさらに奥に煙突が見えます。これは、ワインの絞り粕を利用したブランデー蒸留所のものでした。また、この煙突の右手の奥が第一蒸留所でした。いまはどちらも草に覆われ痕跡はありません。
奥座敷
主屋に戻ります。一階の奥の部屋は奥座敷で一番格式の高いもてなしの部屋です。
また、一階の土間付近にはには修復工事の折、地下蔵が発見されていて、様子を見ることができます。
白座敷
主屋の外へ出るとすぐ隣に白座敷と言われる醸造所の建物があります。大正10年に建てられました。白ワインを醸造していたからことから白蔵と呼ばれていました。
ところで、庭は石碑や石像が多いことに気が付きます。娘婿の松本三良が、石碑にたいへん凝っていた人だそうで、至るところに作ってしまったとか。
おわりに
以上、宮光園を見てきました。勝沼のワインの歴史は高野正誠と土屋龍憲の渡仏から語られるのですが、経営者としての宮崎光太郎の存在も大きいもので無視できません。観光ぶどう園と工場見学をセットにしたりと現代にもつながる観光スタイルを作り上げたことにも注目です。メルシャンと合わせた見学がおすすめです。
参考URL
麦溜 [Bakrew] の呑み歩る記。オーシャンの系譜(1)
https://www.sakedori.com/s/maltwhisky/blog/17444.html (2022.9.14閲覧)
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