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【木喰の里微笑館】 企画展「切り絵木喰展」を見に行く

はじめに

 身延町の木喰の里微笑館は、山間部の集落に所在し、道路事情などから県内で「最も行きにくい」資料館と言っても過言ではありません。
 微笑館では、常設展示に加え、不定期に企画展が行われます。今回は「切り絵木喰展」(2023.10.19~12.26)が開催されています。

微笑館の外観

 なお、微笑館の概要や木喰の生地丸畑に関する事情については拙稿をご覧ください。


切り絵木喰展

 「切り絵木喰展 木喰微笑仏の誕生―日本廻国の達成と千体仏造像―」(2023.10.19~12.26)は八木勝行氏の作品展です。新作を含め55点の切り絵作品が並びます。
 普段は、来館ノートや寄贈絵画、版画、紙芝居の絵などがある第二展示室で行われています。1989年(平成元年)にテレビ山梨の開局20周年記念で作った木喰仏27体の複製があるのですが、こればかりは動かせないようで、残して周囲に切り絵作品が展示されています。

企画展会場になった第二展示室
チラシは子安観音と旅立つ木喰の姿

ハサミ切り絵

 八木勝行氏は、焼津市在住で藤枝市郷土博物館の館長を務めた方です。考古分野で長年仕事をされてきました。
 八木氏が切り絵を始めたのは1995年頃からだといいます。カッターによる切り絵ではなく一挺のハサミだけで切り出してく方法をとっています。解説によると、寄席で行う紙切り芸に原点があり、ひと繋がりになるように一気に切り進めるのだそうです。

八木勝行氏とハサミの切り絵 出典 : 図録「切り絵木喰展」

 この切り絵作品は廻国の僧となった木喰の第3期廻国と言われる時期のうち後半部分から時系列的に表現しています。廻国の途中、71歳で日向(宮崎)を訪れ住職となり、その後78歳で日向を発ち、各地を巡り、郷里丸畑に戻り、四国堂仏88体を彫り、最後の作とされる教安寺(甲府)の像までを切り絵で描きます。
 ちなみに木喰が仏像を彫るようになったのは第1期廻国であった60歳頃からです。
 切り絵作品には詳細な解説文が添えられておりました。八木氏は郷土博物館の元館長だけありたいへん中身が濃く、物語感のある解説となっております。ただ1点1点解説文の情報量が多いため、紹介しきれないことをお断りします。

日向の国を経つ

 1788年(天明8年)71歳で日向(宮崎)を訪れた木喰は請われて国分寺の住職となり滞在中します。しかし3年後の1791年(寛政3年)、国分寺は火災により建物や本尊を焼失します。3年半をかけて1794年(寛政6年)に国分寺の伽藍と自ら刻んだ5体の「五智如来」が完成し復興を遂げました。

展示概観、向国分寺の再興と廻国に発つまで
九州地方の関連地図

No1 日向国分寺の再興と五智如来
No3 薬師(阿閦)如来像
 日向国分寺の本尊となる五智如来像(No1)です。中央に大日如来、右側に薬師(阿閦)如来、阿弥陀如来、左側に宝生如来、釈迦如来という配置です。
 宝生如来に続いて、2番目に作られたのが薬師(阿閦)如来(No3)だといいます。寄木造りで294センチメートルあります。

五智如来[No1](左)と薬師如来像{No3](右)

No2 木喰物の中でも最大の大日如来像
No4 日向国分寺の落慶(77歳)
 五智如来の中央である大日如来像は312センチメートルで現存する木喰仏の中で最大です。5体のうち3番目に手掛けたもので1793年(寛政5年)6月8日完成といわれます。
 No4は再興した日向国分寺の落慶の様子を描いています。新しい伽藍の中に5体の像を安置し落慶法要が営まれる様子を表しています。

大日如来[No2](左)と再興した日向国分寺の落慶[No4](右)

No5 大銀杏に別れを告げ、日向の地を離れる
No6 木喰さんの刻んだ自身像
No7 木喰さんの刻んだ自身像
 日向国分寺の再興を果たし、木喰は、再び廻国の歩みを始めます。国分寺の境内には大銀杏(No5)があります。幹には空洞があり、自身の像(No6、No7)をその空洞に納め、この地を後にしたといいます。

日向国分寺の大銀杏[No5]
大銀杏に納めた自身像[No6]、顔の表情[No7]

No8 寛政の廻国・造仏の旅へ発つ
 80歳を超えた1797(寛政9年)4月8日、釈迦の生誕である花まつりの日に再び廻国の歩みを開始したといいます。
 第3次廻国の後半です。1797(寛政9年)80歳~1800(寛政12年)83歳で3年余の期間です。

寛政の廻国・造仏の旅へ発つ[No8]

中国地方の廻国

 日向を立った木喰は、関門海峡を渡り中国地方を目指します。

中国地方の廻国の概観
山口県の関連地図
中国地方から中部地方までの関連地図

No8-2 ホトケノザ(仏の座)
No8-3 ハハコグサ(母子草)
 ホトケノザは背景に仏像の姿があります。
 木喰が歩む先には人知れず咲き誇る草花があったことでしょう。

ホトケノザ(仏の座)[No8-2]
ハハコグサ(母子草)[No8-3]

No11 まず母と父を造る(如意輪観音像)
 1797年(寛政9年)閏7月11日作(80歳) 山口県美弥市福王観音堂
No12 まず母と父を造る(毘沙門天像)
 1797年(寛政9年)閏7月20日作(80歳) 山口県美弥市福王観音堂
 寛政9年、広谷(山口県美弥市)に入り6体の作仏を行っています。そのうちの意輪観音像(No11)は女性的であり毘沙門天像(No12)は甲冑をつけ威厳に満ち男性的です。この像にてまず母と父を造ったといいます。

如意輪観音像[No11](上)と毘沙門天像[No12](下)

No9 廻国と作仏《日本廻国八宗一見・日本千躰ノ内ナリ》
No10 山口県美弥市秋吉にて千体仏造像を発願(80歳)
 毘沙門天(No12)の背面には《日本廻国八宗一見・日本千躰ノ内ナリ》と墨書きされているといいます。これは宗派にとらわれない、千体の仏像を造るという途方もない修行の宣言でありました。

作仏する木喰[No9]
千体仏造像を発願[No10](左)と毘沙門天像[No12](右)

No13 稲荷大明神像
 1798年(寛政10年)8月9日作(81歳) 鳥取県倉敷市 勝宿弥神社
 寛政10年、萩から石見、出雲、伯耆(倉吉)、因幡、但馬、単語、若狭まで、山陰路に廻国と作仏を行っています。さらに伯耆(倉吉)まで引き返しています。
 稲荷大明神像は倉吉での作ですが、狐と一体化珍しい作風といわれます。

稲荷大明神像[No13]

No14 生まれて間もない子どもを抱きあげる子安観音菩薩像
 1798年(寛政10年)9月27日?作(81歳) 山口県防府市 普門寺
 伯耆(倉吉)からは美作、備中、備後、安芸と山陽路を回り周防まで戻っています。周防の山里の普門寺に滞在し子安観音像を残しています。胸に産衣を着た子どもを大事そうに抱えている姿です。

子安観音像(普門寺)[No14]

No15 子どもの救済に駆けつける韋駄天
 1798年(寛政10年)9月29日?作(81歳) 山口県防府市 普門寺
 子安観音と並び普門寺にはもう一体、怒りの形相に見える仏像が残されています。近年の調査で韋駄天と分かっています。子安観音とともに子供の健康と成長を見守り、何かあればいち早く駆けつける韋駄天を添えたものといいます。

韋駄天[No15]

No16 母(子安観音菩薩)の胸の中ですくすくと育つ
 1798年(寛政10年)10月11日作(81歳) 山口県山口市 法界寺
 普門寺から法界寺に移った木喰はここでも、同じような子安観音像を残しています。

子安観音像(法界寺)[No16]

三河・遠州へ

 木喰の廻国は、四国八十八ヶ所巡礼を済ませ東海道を下ると遠江の湖北(浜名湖)、狩宿・奥山・方広寺・小斎藤と引佐郡を拠点に寺社への参詣と作仏を行っています。

三河・遠州方面の廻国の概観
中国地方から中部地方までの関連地図
静岡県の関連地図

No17 一気に三河・遠州へ 成長した子どもを抱く新城の子安観音菩薩
 1800年(寛政12年)2月1日作(83歳) 愛知県新城市 徳増寺
 徳増寺に残されいる子安観音菩薩は放射状に広がる頭光をもったふくよかなものです。

子安観音像(徳増寺)[No17](右) 左は韋駄天[No15]

No18 小さな阿弥陀如来像を造る
 1899年(寛政11年)12月17日作(82歳)
 狩宿(引佐町)の家にあるうち仏です。高さは1尺(30センチメートル)ほどの小さな像です。小さな像でありながらも、基本となる姿形は崩さずに造っていたことが伺われます。

小さな阿弥陀如来像[No18]

No19 独り立ちを前に子安地蔵菩薩を造る
 1800年(寛政12年)6月2日作(83歳) 静岡県周智郡森町 蓮華寺
 静岡県周智郡森町では4体の像を残しています。注目はこれまでとは趣の異なり地蔵が子供を抱く地蔵、つまり子安地蔵になっているところです。
 木喰自身も地蔵菩薩を彫ることで菩薩としての独り立ちの境地であったであろうとの推測されています。

子安地蔵菩薩像[No19]

No20 遠州から志太しだへ 寛政の日本廻国も終盤へ、木喰五行廻国造像図
 森町を発つと、大井川を超え、およそ30キロメートルの道のりを走破し藤枝宿へ入った木喰です。83歳とは思えぬ健脚ぶりを表現した一枚です。

木喰五行廻国造像図[No20]

No20-2 岡部宿「いながわ屋」へ逗留する
 木喰は東海道の岡部宿へ移り、旅籠「いながわ屋」に11日間投宿しています。

上より、大井川の川越え、藤枝宿へ、岡部宿「いながわ屋」にて

No21 高さ七尺余の「准堤じゅんてい観音菩薩像」に取り掛かる
No32 木喰仏の大きさの違い(光泰寺、准堤観音菩薩像)
 1800年(寛政12年)6月28日作(83歳) 静岡県藤枝市 光泰寺
 志太では光泰寺の薬師堂に入り5日間で7尺(2.15メートル)というたいへん大型の像を造り上げます。

高さ七尺余の「准堤観音菩薩像」[No21]
大型であることが分かる[No32]

No22 忿怒相の若き毘沙門天像を造る
 1800年(寛政12年)7月2日作(83歳) 静岡県藤枝市 常楽院
 光泰寺のあとはすぐに山沿いの常楽院に入り、4日で忿怒相の毘沙門天像を彫り上げました。

No24 三輪・十輪寺で二体の像を刻む(虚空蔵菩薩像)
 1800年(寛政12年)7月11日作(83歳) 静岡県藤枝市 十輪寺
 十輪寺では5日間で虚空蔵菩薩像と地蔵菩薩像の2体を造っています。

毘沙門天像[No22](左)と虚空蔵菩薩像[No24](右)

No25 三輪・十輪寺で二体の像を刻む(子安地蔵菩薩像)
 虚空蔵菩薩像とともに5日で造られた十輪寺の子安地蔵菩薩像です。
 木喰は志太での2ヵ月の間に13体の像を彫りあげました。

子安地蔵菩薩像[No25](中央)

No23 内谷・福昌寺で瞑想する若き聖徳太子像を造る
No33 木喰仏の大きさの違い(福昌寺、聖徳太子像)
 1800年(寛政12年)7月5日作(83歳) 静岡県藤枝市 福昌寺(廃寺)
 福昌寺では3日間で聖徳太子像を造っています。

聖徳太子像[No23](中央)
聖徳太子像を彫る木喰[No33]

No26 三輪・十輪寺で二体の像を刻む(虚空蔵の作仏図)

二体の像を刻む木喰[No26]

No 27 石脇下・大日堂で三尊像を刻む(吉祥天女像)
 1800年(寛政12年)7月21日作(83歳) 静岡県焼津市 大日堂
 石脇城の跡地に建てられた小堂に籠るとふくよかな吉祥天女像を造りました。

No28  石脇下・大日堂で三尊像を刻む(不動明王像)
 1800年(寛政12年)7月23日作(83歳) 焼津市大日堂
 吉祥天女像に対して力強い憤怒相の様相です。
 造物のペースは上がり、吉祥天女像(No27)、不動明王像(No28)、大日如来(盗難にて現存不明)の3体を3日で造っています。

吉祥天女像[No27](左)、不動明王像[No28](右)

No30 府中(駿府)を前に珍しい大黒天像を彫る
 1800年(寛政12年)8月4日作(83歳) 静岡市駿河区手越 泉秀寺
 志太を離れ、泉秀寺に入り大黒天像などを残しています。この後、興津に投宿し故郷の山梨が目前です。

大黒天像[No30]

No29 丸顔の若々しい地蔵菩薩を新調した鑿で彫る
 1800年(寛政12年)8月4日作(83歳) 静岡県焼津市 宝積寺
珍しく堅い桜の木を材料にしています。新調した丸ノミの跡が鮮やかに残すように丁寧に彫られています。

地蔵菩薩像[No29]

No31 欠番
No34 木喰仏の大きさの違い(弘法大師像)
 1800年(寛政12年)7月頃(83歳) 静岡県焼津市 勢岩寺
 小さな弘法大師像を彫る姿です。

小さな弘法大師像を彫る木喰[No34]

木喰の創造画

No35 No36 木喰生家当主・故伊藤勇氏と木喰さんの創造画
 木喰生家当主伊藤勇氏(左)と会った時の印象をもとに作者が修行者としての木喰さんをイメージしたもの(右)だといいます。

故伊藤勇氏[No35](左)、木喰[No36](右)

 伊藤勇氏は2021年に亡くなり、公開はされなくなった木喰の生家と言われる「木喰記念館」が残っています。

木喰記念館(伊藤勇宅)

No37 木喰さんが描いた自画像から
 1805年(文化2年)、米寿を迎えた木喰は自家像を描いています。これを版木にして刷り親しい人たちに配ったといいます。

木喰の描いた自画像から[No37]

甲斐木喰仏2023(新作)

 本展を開催するにあたり新作として、生誕の地丸畑や、最後の足跡となった甲府市の教安寺など、山梨にゆかりの木喰の作品が並びます。

甲斐木喰仏2023の概観
中国地方から中部地方までの関連地図

No38 木喰さん最後の納経・身延山久遠寺
 寛政12年(1800年)9月13日、興津宿から甲斐に入り富士川沿いに進み身延に入った木喰は、久遠寺にて納経を行っています。56歳で始めた全国廻国の旅は28年に及び成就したといいます。

No39 日本廻国を達成し、丸畑を前に薬師如来を作る
寛政12年(1800年)10月26日作(83歳) 山梨県身延町帯金 静院薬師堂
 身延山久遠寺に納経ののち木喰は金静院にしばらく滞在しています。

久遠寺を仰ぎ見るの木喰[No38](左)と金静院の薬師如来[No39](右)

No45 瞑想する若き日蓮
 寛政13年(1801年)正月12日作 山梨県身延町帯金 龍雲寺
 木喰は近くの日蓮宗龍雲寺に日蓮像を残しています。日蓮は度重なる法難を受けつつも、法華経を広め身延に入ったことから畏敬の念からのものと推測されています。

若き日蓮像[No45

No40 丸畑(永寿庵)に五知如来を祀る、釈迦如来
No41 丸畑(永寿庵)に五知如来を祀る、阿弥陀如来
No42 丸畑(永寿庵)に五知如来を祀る、大日如来
No43 丸畑(永寿庵)に五知如来を祀る、法宝如来
No44 丸畑(永寿庵)に五知如来を祀る、阿閦如来
 丸畑の永住庵に安置されていた五知如来像です。昭和の末期、盗難に遭ったからと伊藤勇氏が持ち出し「木喰記念館」(自宅)にて保管し、見学者に公開してきました。

永寿庵の五知如来[No40]~[No44]
永寿庵、手前はかつての五知如来安置所 2022年10月

No46 どんな邪気をも寄せつけない山神像を故郷に残す
 享和元年(1801年)2月23日作(84歳) 山梨県身延町丸畑 山神社
 故郷丸畑に四国堂仏88体を彫るにあたりその前に彫ったものです。
 山神社は、四国堂の脇道から険しい斜面の細い道を登るとあります。中の様子はうかがい知ることはできませんが、山神像は厳しい形相で睨みつける姿を表現しているといいます。

山神像[No46](中央)
到達困難な山神社、中の様子は見えない 2022年10月

No47 丸畑に四国堂建立 八十八体仏をはじめ自身像も収める
 1800年(寛政12年)、84歳で故郷に戻った木喰は、丸畑の人たちの頼みから建設される四国堂に収める仏像88体を制作します。9ヵ月かけて仏像を制作するのですが、悲しいかなその間に人々は木喰から離れて行きました。
 四国堂には、仏像88体とともに自身像、弘法大師像も収められましたが、大正時代に村人と伊藤家で所有権の争いがあり、裁判沙汰になります。伊藤家の所有が認められましたが当時の当主(婿養子、伊藤勇氏の祖父)が売却してしまい四国堂の仏像は四散してしまうのです。

1978年に再建された四国堂 2022年10月
丸畑と再晩年に関する展示の概観

No49 木喰さんが世に知られる契機となった四国堂仏 地蔵菩薩
 大正時代に四散した四国堂の仏像でしたがそのうちの地蔵菩薩は、小宮山清三をへて民芸運動の柳宗悦の手に渡ります。「No50 柳宗悦と木喰の出会い」を参照ください。

自身像[No47](左)と地蔵菩薩[No49](右)

No50 柳宗悦と木喰の出会い
 柳宗悦(1889年~1961年)と地蔵菩薩の出会いです。地蔵菩薩は池田村(甲府市池田)の小宮山清三宅にて譲り受けたもの。小宮山清三宅には四国堂の仏像が3体ありました。柳はその後木喰研究に没頭します。

柳宗悦と地蔵菩薩

No51 村人に授けられた四国堂仏、馬頭観音
No52 村人の健康を守る四国堂仏、薬師如来
 84歳で四国堂に収める仏像88体を9ヵ月かけて制作しましたが、最後まで世話をして手伝ったのは13人だけだったといいます(十三人講中)。そうした人々のうち南沢の3軒には内仏として8体を渡しています。
 南沢のK宅に渡されたのが馬頭観音と薬師如来でした。この2体は微笑館で見学時に見るDVDにごK氏ご夫婦とともに登場しています。個人宅で大事に扱われていたため大変にきれいな状態です。
 馬頭観音は頭に馬面を載せて怒りの形相でやや異質です。一方で薬師如来は健康長寿を願うため穏やかな表情で作られています。

内仏の馬頭観音[No51](左)と薬師如来[No52](右)

No48 村人にも授けられた四国堂仏、千手観音菩薩
 こちらはK宅の隣のI宅の内仏の千手観音菩薩です。I宅には聖観音も授けられました。
 南沢集落の内仏の家はもう1軒ありましたが、現在は転居していてありません。

内仏の千手観音菩薩[No48]

No53 木喰さんの最後の群像か 甲府・教安寺七観音
 1808年(文化5年)、91歳の木喰が3日間で作り上げたと言われる七観音です。この作を最後に足取りはなくなります。故郷丸畑には甥から93歳で亡くなったと背負い箱と紙位牌が後に届けられるのでした。
 七観音は戦時中の甲府空襲で焼かれ古写真でのみその存在を知ることができます。

最晩年の作、七観音[No53]

No54、最晩年に彫った子安観音菩薩
 こちらは教安寺の七観音のうちの一体、子安観音です。

教安寺の七観音のうち、子安観音[No54]

 ちなみにこの子安観音は彫刻家の岡本直浩氏が2018年(平成30年)に木喰の仏像再現プロジェクトにて古写真を元に再現され現在は微笑館の展示室にて公開されています。

再現された子安観音像 出典 : 身延町HP

 普段はこの展示室も撮影は出来ないのですが、27体の木喰仏があります。地元テレビ局のテレビ山梨が開局20周年を記念して1989年(平成元年)に木喰に関する特別番組の放映し彫刻家牧田裕次氏により制作されたものです。(寄託資料)

彫刻家牧田裕次氏による木喰仏

木喰戒

 入館するとまず視聴覚室にて15分ほどの木喰に関するDVD映像を見ながらお茶をいただけるのですが、木喰戒と木喰が食べていたであろう木の実について説明がありました。

この夏の猛暑でエアコンが設置されたとのこと

 微笑館の管理人が書いたであろう手書きがよいです。「十穀断ち、塩断ち、煮炊きしたものである火断ち」と木喰戒とはたいへん厳しい修行です。

手書きの解説
おにくるみ、どんぐり、山ぐり

 気軽に購入して帰る人は皆無だと思いますが、模造作品ですが木喰仏も売っています。18万7500円から38万円の値段がついていました。

お土産にどうですか

 また、最近の変化として、微笑館へ向かう3本しかない道のうち拡幅工事中だった、道の駅しもべから登る道の整備が完了していました。車同士のすれ違いの困難さはやや緩和されたようです。

微笑館に用意されている丸畑周辺のマップ

おわりに

 50点を超える切り絵はたいへん見事でした。また、それらにつけられた解説文が物語調で順番に読んでいくことで、日向の国を出てから丸畑に至り、最後、消息を絶つまでの足取りが分かるのです。読むのにたいへん時間がかかるので、見開き6ページの図録(200円)も用意されていて購入すればあとから内容を確認できます。
 周囲には何もなくここを目的に来る人しかいない施設ではありますが、意外と訪問者はいるもので、筆者の観覧中にも2組は入館者がおられました。
 道が狭いからとか不便な場所だからではないです。おもてなしとその場所に見たいものがあればおのずと人はやってくるのです。

参考文献
図録『切り絵木喰展』八木勝行、2023

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