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【木喰の里微笑館】企画展の木喰仏と生地丸畑のこと

はじめに

 木喰の里微笑館は、山間部の集落に所在し、道路事情などから県内で「最も行きにくい」資料館と言っても過言ではありません。
 微笑館で年数回企画展が行われることがあります。今回は「身延町の木喰仏」(2022.10.6~12.27)として、至近の個人宅が所有する木喰仏2体を展示しています。
 また、身延町在住の研究家丸山優氏による「ちょっとおどろく木喰展・番外編」も同時開催しています。
 なお、微笑館の概要については拙稿をご覧ください。

身延町の木喰仏

 本年の企画展で展示される木喰仏は、個人宅が所有する内仏うちぼとけと言われる馬頭観音と薬師如来の2体(下記チラシ)です。展示室にあるマッコ堂にあった木喰仏(常設展示では唯一の本物)やレプリカとともに展示されています。この2体は微笑館で見学時に見るDVDに夫婦で登場するすぐ下の南沢集落のK氏宅のものです。個人宅で大事に扱われていたため大変にきれいな状態です。K氏宅は近年まで見学客に対応されていたのですが、本年奥様が亡くなり、ご主人も高齢のため見学は出来ない状態になりました。
 同じ南沢集落のI氏宅にも内仏が2体あるのですが、そちらは代が代わり見学の対応はだいぶ前より行っていないとのこと。

チラシ上部の2体がK氏宅の内仏

 また、企画展では「四国堂心願鏡しこくどうしんがんのかがみ」の全16頁が写真で公開されています。
 ちなみに、内仏として木喰より仏像が贈られたのは南沢の3軒だとされていて、現存するのは上記の2軒に2体ずつです。1軒は転居されるときにマッコ堂に納めたとか。
 3軒の家に内仏が贈られた理由については、四国堂にふれなければなりません。

四国堂心願鏡

 この丸畑集落には、四国堂、山神社、永寿庵、マッコ堂といったお堂があり、それぞれに木喰仏が残されていました。建物は変わっていますが現在も存在します。

微笑館に用意されている丸畑周辺のマップ

 四国堂のいきさつについて分かるのが「四国堂心願鏡」です。長い回国修行の末に丸畑に戻った84歳の木喰がこれまでの半生を語り、四国88霊場遍路に代わる四国堂建設の経緯を書き残したものです。
 故伊藤平巌ひらかた)氏より微笑館へ寄託されています。生家13代当主で「木喰記念館」の伊藤勇氏(2021年死去)に対して、平巌氏は分家とのことですが、微笑館にある資料(史料)のほとんどが平巌氏からの寄託です。

四国堂と内仏

現在の四国堂

 1800年(寛政12年)、84歳で故郷に戻った木喰は、丸畑の人たちの頼みから建設される四国堂に収める仏像88体を制作します。9ヵ月かけて仏像を制作するのですが、その間に人々は木喰から離れて行きました。
 最後まで世話をして手伝ったのは丸畑と南沢の13人だけだったといいます。この13人については、十三人講中として記録されています。前述の南沢の3軒に内仏として8体を渡していて、残り80体が四国堂には納められたことになります。
 時は流れ、再び四国堂をめぐるいさかいが明治の終わりに訪れます。1903年(明治36年)、貧しい丸畑村では、村人たちが四国堂を解体して材木を売って金にするよう伊藤家に迫ります。裁判で四国堂の所有権が争われ伊藤家の所有ということで決着します。
 しかし、その後1919年(大正8年)に当主の伊藤藤作(養子・勇氏の祖父)はこともあろうに80体の仏像すべてを売り払ってしまいました。四国堂も解体され礎石だけが残りました。もっとも、藤作はたびたび仏像を持ち出しは酒代に変えていたとも言われています。80体の仏像は散逸しましたが、内仏に贈られたものだけがことなきを得たことになります。
 後に勇氏は寄付を集い1978年(昭和53年)同じ礎石の上に四国堂を再建しています。現在の四国堂です。このような経緯から四国堂は勇氏が鍵の管理をして「木喰記念館」見学者を案内していました。内部には子安観世音像があるのみですが、これはもともとマッコ堂にあったものです。
 さて、木喰が内仏を渡した南沢の3軒とは、
 K宅(馬頭観音像、薬師如来像、今回の展示)
 I宅(千手観音像、聖観音像、非公開)
 ?宅(集落を出る際にマッコ堂に収めた)
と聞いております。現在マッコ堂には4体(うち1体が微笑館)があります。

柳宗悦現る

 柳宗悦(1889年~1961年、明治22年~昭和36年)が、民芸運動よりも先に没頭したのが木喰仏でした。
 四国堂から散逸した80体のうちの3体が、池田村(現在の甲府市池田)の村長を務める小宮山清三のところにありました。
 1924年(大正13年)、浅川巧の紹介により小宮山のところへ朝鮮陶器を見せてもらいに来ていた柳宗悦でしたが、木喰仏に魅了されあまりの感激の様子に小宮山は地蔵菩薩像を譲っています。

小宮山清三から譲られた地蔵菩薩像

 柳は1924年(大正13年)から2年かけて全国にある木喰仏の調査を行いました。鉄道のない時代でした、船と徒歩で丸畑を訪れたわけです。礎石だけになった四国堂も見ています。
 柳は、伊藤平巌氏(父・瓶太郎が戸主)の家で「四国堂心願鏡」などを目にします。柳は懇願して「四国堂心願鏡」を1晩だけ貸してもらい、書き写しています。それだけ史料的に貴重なものでした。
 柳はその後、丸畑については、瓶太郎・平巌親子との書簡などを通じて調査をしていたようです。
 平巌氏宅の外にはいまもコンクリート製の収蔵庫が残されています。微笑館に寄託するまで文書などが保管されてました。

かつての平巌氏の保管庫、上部の額に木喰の句

 ところで、当主の伊藤勇氏の柳宗悦に対する評価はたいへんに否定的かつ厳しいものでして、丸畑を訪れた柳の態度は無礼で確執が生まれたといっています(全国木喰会『木喰精舎』第26号、2008、「柳宗悦の民芸運動の端緒」)。
 勇氏が祖母から聞いたという話では、はじめは見知らぬ男の姿に祖母は、また何かじぃさん(夫で養子の藤作のこと)が何かよからぬことでもするのではと、初めは警戒します。それでも遺品を見せることになり平巌氏の家を教えます。藤作から遺品を守るために「分家」に預けていたのだと勇氏は主張しています。
 勇氏は著述で、柳が事実を歪曲し家歴を平巌氏が本家であるように曲げられた、文書や遺品は平巌氏の家に返還を度々求めたが応じてもらえなかった、と主張しています(『木喰精舎』第26号、2008、「柳宗悦の民芸運動の端緒」)。

 だいぶ話がそれましたが、木喰仏を世に公開した柳宗悦を手放しで喜んでいないのは当主家であるということです。本家争い、系図争いがもともとあるのです。その辺りについては末尾に勇氏に否定的な証言をリンクとして挙げておきます。
 ともあれ現在は、勇氏も亡くなり家は無住です。平巌氏の家はさらに前から無住です。親族はおられますが、伊藤を名乗る男子の継手はどちらにもおられません。

永寿庵

 微笑館から最も近くにあり、微笑館の駐車場から徒歩ですぐに行けます。
 84歳で故郷に戻った木喰は、まず永寿庵を修理し、五智如来(5体)を制作しています。永寿庵は、大正時代にはすでに無住寺だったことが丸山優氏のコレクションよりわかります。昭和40年代にはに村の集会所のように使われていました。
 五智如来が県指定の文化財になってからは、隣に下部町(当時)により保管庫が設けられ丸畑区で管理されていたようです。その後、伊藤勇氏の自宅にて長らく保管され木喰記念館の見学者に公開してきました。勇氏によれば、盗難にあったため自宅へ持っていったとか。甲斐百八霊場99番札所の御朱印も勇氏が持っていました。勇氏が亡くなり、御朱印は自宅に置き紙で対応されています。

永寿庵、手前はかつての五知如来安置所

山神社

 四国堂から脇道を上ります。かなり険しいところです。足を踏み外すとかなり危険です。コンクリート造りの簡易な祠があります。しばらく人が立ち入っていない様子です。鍵がかけてあって中の様子は伺えません。微笑館に山の神像のレプリカがあるので、こちらに本物があるのでしょう。

山神社、近くに錆びた文化財の案内看板あり

マッコ堂

 インパクトのある名前ですが「待つ子堂」がもとで姨捨伝説に関係するとの説など諸説あります。
 道の駅から上がってくる徒歩道(拡幅工事中)の脇を入り草に覆われた高圧鉄塔の下を通りすすむと小高いところにあります。1979年(昭和54年)に再建された祠があります。こちらも中の様子は伺えません。

マッコ堂

 以上、たいへん長くなりましたが、特別展示されている内仏に関する四国堂からの経緯と周辺の状況を綴りました。

ちょっとおどろく資料展・番外編

 同時開催として、身延町の研究家・丸山優氏による「木喰上人のちょっと驚く資料展・番外編」が行われいます。
 丸山氏は「白樺」など明治末期、大正、昭和初期の雑誌、書籍の収集家であり、当時の雑誌や書籍などの記録から木喰研究を行うという独自のスタイルを採っております。これまで、丸山氏の展示は今回で4回目となります。
 4回目は番外編としてこれまでとは異なり、柳宗悦と浅川巧(1891年~1931年・明治24年~昭和6年)の出会いに焦点を当てています。浅川巧は江宮隆之氏の小説『白磁の人』で知られ、映画化もされています。
 柳宗悦は、浅川巧の紹介で、前述の小宮山清三のところへ朝鮮陶磁器を見に赴いていますので、浅川巧との交流が木喰との出会いに繋がるわけです。
 さて、展示ですが、書籍や古い写真など貴重なものとそれに対する解説パネルがあります。解説は情報量が多いものです。配布資料はなくパネルの撮影も出来ないため、必要な記録はメモするしかありません。

おわりに

 今回特別に展示された2体の木喰仏を説明するとどうしても四国堂に関する争いに触れなくてはなりませんでした。四国堂の解体と四散が柳宗悦と木喰仏の出会いのきっかけですが、その陰では、丸畑にはいざこざが絶えなかったのでした。
 そんなことなど無かったかのように微笑館はひっそりと建ち、スタッフが真心で遠方からの訪問者をおもてなししてくれます。
 本稿は、筆者の調査不足や理解不足も多分にあるでしょう。内容に間違いがあれば、都度、修正することを付け加えておきます。

 木喰研究家といえば甲府市の故丸山太一氏が有名です(丸山優さんは御親戚ではないとのこと)。
 丸山太一氏の書籍と研究資料は「昭和町風土伝承館杉浦醫院」に寄贈されていて手に取ることができます。
 昭和町風土伝承館杉浦醫院ブログ2017.3.1 (2022.10.19閲覧)

 近年の丸畑の「争い」については、丸山太一氏と交流のあった、杉浦純子氏からの証言が、昭和町風土伝承館杉浦醫院ブログにあります。
 昭和町風土伝承館杉浦醫院ブログ2012.7.24 (2022.10.19閲覧)

参考文献
全国木喰会『木喰精舎』第24号、2006
全国木喰会『木喰精舎』第26号、2008

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