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【昭和町風土伝承館杉浦醫院】地方病の「記憶」を伝え残す資料館(1) 地方病とは何か

はじめに

 昭和町風土伝承館杉浦醫院は、甲府のベッドタウンである昭和町に所在する地方病の歴史を後世に伝え残すための資料館です。
 ここは杉浦健造と三郎の父子二代にわたる医師が、献身的に地方病の治療と予防対策にあたった医院の跡であり、国の登録有形文化財に指定されています。
 甲府盆地で数百年にわたり人々を苦しめた地方病の歴史を後世へ伝える専門かつ唯一の資料館として杉浦醫院は昭和町により運営されています。次の時間を気にせずに見学するのがよいほどの中身の濃い資料館です(解説希望の場合訪問時間を連絡しておくのがおすすめ)。
 まず初回として本稿では、この杉浦醫院が伝えようとしている地方病について紹介します。

タイトルを変更しました。2023.6.7
(旧)【昭和町風土伝承館杉浦醫院】(前編)地方病の「記憶」を伝え残す資料館

表門から望む
表門の看板

(1)地方病の現状

 まず「地方病」というのは山梨県内での呼び名です。正式名を「日本住血吸虫症」という風土病です。しかし、山梨では行政も地方病といえばこの病気のことを指しているほど一般化しています。
 地方病は、甲府盆地でも水田地帯に特有の病気でした。寄生虫による病気で水田や畔に裸足で入ると皮膚から寄生虫の幼虫が体内に侵入するのです。体内で成長した寄生虫は肝臓を蝕むため症状が進むと黄疸ができやがて腹水が溜まり死に至りました。人だけでなく犬や猫、牛など哺乳類も同様に感染しました。
 国内でほかには茨城県の利根川l流域、広島県片山地区、福岡県及び佐賀県の筑後川流域などにしか見られません。中でも甲府盆地が最大の流行地域でした。
 現在日本では新規患者は確認されていませんが、中国、フィリピン、インドネシアでは現在でも数千から数万の新規患者がいるといいます。

地方病の患者を診る杉浦三郎 出典 : 杉浦醫院

(1-1)知らない世代の拡大

 山梨である年代以上の方はほとんどの方が、地方病→腹がふくれて死に至る→川や田に入ってはいけない、という知識があります。では、どうして地方病は腹が膨れるのか、どうして川や田に入ってはいけないのか、そこまで理解している人は極めて少数です。また山梨の学校教育では、一部の学校でしか学習されませんでした。そのため地方病があったことすら知らない世代は親世代にまで広がっています。

(1-2)県による終息宣言

 1996年(平成8年)に地方病流行の終息宣言が山梨県により出されました。
 県が終息宣言を出した理由として、1978年(昭和53年)を最後に新規患者が確認されていない。1976年(昭和51年)を最後に中間宿主になる寄生虫に感染した宮入貝が発見されていない。この2点によります。
 こうした経緯から、地方病の患者はいなくなりましたが、地方病の「記憶」を持つ人は年々少なくなり、地方病は「記録」のみになりそうな状況にあります。

終息を知らせる広報ポスター
出典 : 山梨県立博物館公式ツイッター

(1-3)記憶を残す

 富士見町歴史民俗資料館の記事にて触れた民俗資料の「記憶」を残す取り組みと地方病の「記憶」を残すことの本質はまったく同じと筆者は考えます。そのため、地方病と杉浦醫院について大きく扱うことといたしました。これまでよりボリュームのある文章ですがお付き合いください。
 また、本稿は参考文献、資料、杉浦醫院の解説によるところが多いことをご承知ください。

 富士見町歴史民俗資料館の「記憶」を残す取り組みについては拙稿をご覧ください。

(2)地方病という奇病

 地方病が確認できる最古の文献は江戸時代に編纂された「甲陽軍鑑」(巻二十・品第五十七)といわれます。武田勝頼の時代、家臣で武田二十四将の一人小幡豊後守昌盛が「積聚しやくじゅの脹満」つまり腹部が膨れ上がる病を患って暇乞いに来たという内容が地方病だったと推測されています。これが本当ならば原因不明の奇病と呼ばれた地方病は武田勝頼の時代からすでにあり、大正期に解明されるまで数百年以上も人々を苦しめていたことになります。

武田二十四将図(武田神社蔵) 朱円が小幡昌盛

(2-1)日本住血吸虫症

 日本住血吸虫症という名称のとおり、地方病は日本住血吸虫という寄生虫が起こす病気です。この寄生虫は微小な幼虫が水の中に生息し、人の体内に侵入すると、腸と肝臓をつなぐ血管である肝門脈中に到達して寄生します。
 寄生した幼虫はメスとオスが一緒になり成長し、やがて産卵を始めます。腸の内壁に産卵して腹痛を起こすほか、虫卵が血流に乗って移動し血管を塞ぐことで、肝硬変や腹水などの症状を引き起こしていたのです。腹水が溜まった患者の姿が地方病のイメージとして鮮烈に焼き付き広まっていたのです。

(2-1)寄生虫の生活環

 では、寄生虫はどうやって人に寄生するのでしょうか。

見学者に配布される生活環の資料

 感染した人や動物からの糞便とともに排出された卵は水中で孵化しミランジウムになります(上図①)。

ミランジウム 出典 : 『地方病とのたたかい』

 まずミランジウムは水中を泳ぎ、中間宿主として宮入貝に寄生します(②③)。宮入貝の中で3~5ヶ月間かけてセルカリア(幼虫)に成長します(④)。

中間宿主になる宮入貝 出典 : 『地方病とのたたかい』
セルカリア 出典 : 『地方病とのたたかい』

 セルカリアになると再び水中に出て泳ぎます(⑤)。次に、田植えなどをしている人の皮膚に吸着し、体内に侵入します(⑥)。血流で移動し、肝臓など内臓の静脈の中に寄生します(⑧⑨)。寄生虫はオスとメスがペアとなり、30日くらいで成虫になり体内でおよそ2000個を産卵して2~3年で死滅します。

日本住血吸虫のオスとメスのペア 出典 : 『地方病とのたたかい』

産んだ卵は便として排泄されます(①)。その便は肥しとして水田に蒔かれ、水中で新たな寄生虫が孵化します。そして宮入貝に寄生するというサイクルが繰り返されるのです。

日本住血吸虫の卵 出典 : 『地方病とのたたかい』

 最大の予防は宮入貝の生息するような水田や畔に入らないことでしたが、農民たちが水田に入らないことは極めて困難でした。

(3)地方病の解明

 甲府盆地の人々を苦しめてきた地方病ですが、1881年(明治14年)流行地のひとつ春日居村(現笛吹市)から県令藤村紫朗宛に出された「御指揮願い」は、地方病による惨状と原因究明を訴えたもので、最古の公式文書です。これにより県による対策が始まりました。

(3-1)杉山なかの解剖

 解明の始まりと言われるのは、1897年(明治30年)に地方病で亡くなった杉山なかの人体解剖でした。
 なかは清田村(現甲府市向町)の農家の女性で当時54歳。地方病のため余命は長くないと覚悟すると、地方病に苦しむ多くの人を助けてほしいと、死後の解剖を主治医に申し出て「死体解剖御願」をしたためました。
 解剖願いを提出した6日後なかは亡くなり、遺言通り解剖が行われました。山梨初の人体解剖と言われています。そして体内より虫卵が発見されたことから、この卵を産む寄生虫の発見へ向けて研究が進みました。

杉山なかの死体解剖御願 出典 : 『地方病とのたたかい』

(3-2)日本住血吸虫の発見

 この寄生虫は人のほか猫や犬、牛など哺乳類にも寄生します。1904年(明治37年)岡山医学専門学校(現岡山大医学部)の桂田富士郎教授と大鎌田村(現甲府市大里町)の開業医・三神三朗医師は感染した三上医師の飼い猫を解剖し肝門脈内から寄生虫と虫卵を発見しました。発見者の桂田教授と三神医師により「日本住血吸虫」(Schistosoma japonicum )と命名されました。

杉浦醫院の診察室にある日本住血吸虫の写真

(3-4)感染経路、牛の実験

 人への感染経路については、飲料水からの感染と皮膚からの感染の二つの説が考えられていました。
 1909年(明治42年)、経路特定のため京都帝大の藤浪鑑教授らにより牛を使った実験が有病地である広島県片山地区の水田で行われました。
 水に触れないよう脚を防護した牛と防護しない牛、また、水田の水を飲ませる牛と飲ませない牛という2つの条件を組み合わせたグループを作り感染状況を調べたところ、脚を防護した牛からは感染が確認されませんでした。
 皮膚からの感染はにわかには信じられないという意見が医師、研究者の間でもあったことから、甲府市横根町の十郎川でも犬を使った実験を行い牛の実験と同じ結果が得られたことで、皮膚からの感染に見解は統一されました。

(3-5)中間宿主宮入貝の発見

 1913年(大正2年)に佐賀県において宮入慶之助博士(1865年~1946年・慶応元年~昭和21年)により中間宿主の貝が発見されました。カワニナに似た米粒くらいの小さな巻貝で「宮入貝」と名づけられました。これにより寄生虫の生活環が解明されました。

宮入慶之助

 現在杉浦醫院では実際に宮入貝を飼育していて観察することができます。米粒くらいのたいへんに小さな貝です。

宮入貝とカワニナとの比較展示
飼育されている宮入貝

(2)杉浦健造、三郎の貢献

 杉浦健造、三郎の父子は「地方病の神様」といわれるほど二代にわたり地方病の解明と予防に心血をを注ぎました。

(2-1)杉浦健造の予防研究

杉浦健造

 杉浦健造(1866年~1933年、慶応2年~昭和8年)、巨摩郡西条村(現昭和町)の杉浦家の次男として生まれました。杉浦家は江戸時代初期から代々漢方医を営む家であり、大地主でもありました。
 健造は西洋医学を学び25歳で生家に戻り、8代目として医業を引き継ぎ杉浦醫院を開業しました。
 開業すると訪れる患者の多くが、腹部が大きく膨らむ奇病を患っていました。苦しむ人々を目の当たりにした健造は、原因究明に立ち上がります。膨大な私財を投じ、志を同じくする医師たちの中心的存在となり、研究を重ねました。1909年(明治42年)にはカワニナに似た貝の生息と地方病の因果関係を示唆する論文を吉岡順作医師と共同で発表しています。これが後の宮入貝の発見につながったといわれています。
 次第に病気の原因が解明されるようになると健造は、正しい知識と予防が重要であるとの啓蒙活動を行います。しかし、感染防止のむずかしさを目の当たりにします。
 健造は寄生虫の中間宿主である宮入貝を撲滅することでこの病を根絶しようと考えました。宮入貝をエサにするアヒルやホタルの幼虫などを飼育する施設を敷地内に作り、水田や池に放ち駆除を試みました。こうした活動は、やがて官民一体となっての感染予防啓発や宮入貝の駆除といった地方病撲滅運動へと発展します。
 健造は、地方病の研究の合間でも校医など社会的貢献を行っています。地域からの信頼も厚く、医師の傍ら、西条村と常永村(ともに現昭和町)の組合村長に請われて就任しています。しかし在任中の1933年(昭和8年)、67歳でこの世を去りました。

敷地内の池

(2-2)杉浦三郎の治療法確立

杉浦三郎

 健造の情熱は娘婿で9代目として杉浦醫院を継いだ杉浦三郎(1895~1977・明治28年~昭和52年)に受け継がれました。
 三郎は宮入貝の研究や治療法の検討などにより地方病撲滅に尽力しました。特効薬でありながら劇薬だったスチブナールの投与方法の確立は大きなものでした。

診察室にある三郎の写真

 地方病の第一人者となった三郎の元へは、戦後進駐軍が学習のために訪ねてきたり、1947年(昭和22年)10月 の山梨県行幸における昭和天皇の地方病有病地視察の案内役になりました。1949年(昭和24年)には、山梨県医学研究所の初代地方病部長に就任し、戦後の地方病撲滅運動に対しても大きな役割を果たしました。
 三郎は1977年(昭和52年)82歳で亡くなりますが、その翌年国内最後となる新規患者が韮崎で確認され以降終息宣言へと向かうのです。三郎亡き後の杉浦醫院は閉鎖となりましたが、現在は地方病を後世に伝える施設として役割を負っています。

畳敷きの待合室

(3)治療法の確立

(3-1)特効薬「スチブナール」

 原因が分かり、大正12年頃には駆虫薬として「スチブナール」が開発されました。しかしこの薬はたいへん強い薬でした。副作用が強く、4名が死亡し3名が重体になったといいます。
 そこで三郎は生理食塩水で希釈して20日間に分けて静脈注射をするという方法を確立しました。杉浦醫院はこの注射を打つための患者で連日いっぱいでした。自家用車のない時代のことリアカーに載せられて杉浦醫院までやってくる患者もあったとのこと。

杉浦醫院に残されていたスチブナールのアンプル

(3-2)何度も罹る

 地方病は治療しても何度罹ります。農作業で水田に入らなければならないからです。また、後遺症のようものもあったそうです。元患者の中には三郎から「治療しても体に寄生虫の卵が残っている」と説明を受けたという人もいます。

(4)対策

 こうして寄生虫の生活環は分かり、治療法も確立されました。しかし田や畔の中には宮入貝やセルカリヤがいます。感染対策が急務でした。

(4-1)『俺は地方病の博士だ』

 1917年(大正6年)子どもを対象に作られた啓蒙冊子として『わしは地方病の博士だ』が2万部用意され県内の小中学校にて配布されました。中は興味をひくよう絵本にしてあります。

学習室にある『俺は地方病の博士だ』の挿絵紹介、右端が表紙

(4-2)箸で採取

 中間宿主である宮入貝がいなくなれば、生活環のサイクルを断つことができます。そのために次のような方法がとられました。まず、1917年(大正6年)から宮入貝の採取が開始されました。1924年(大正13年)まで7年間行われた方法でした。
 採取は農民たちやその子供たちが茶碗と箸を持って水路にいる宮入貝を採取するのですが、1合につき50銭で買い上げてもらえますが、確実な方法とは言えません。また宮入貝のいる水に入れば地方病に感染する危険が伴います。

(4-3)石灰などの殺貝剤と焼却

 1925年(大正14年)から「10カ年計画」として生石灰による駆除が進められ1940年(昭和15年)まで続けられました。水路などの壁面についている宮入貝削り落としたあと生石灰をまくのです。
 1940年(昭和15年)からは、生石灰の高騰により石灰窒素に変わりました。

石灰窒素による殺貝 出典 : 『地方病とのたたかい』

 1954年(昭和29年)~1963年(昭和38年)は、殺貝剤として効果が高く安価なPCPナトリウムに変わりました。ただし、PCPナトリウムは水質汚染が指摘され魚類に被害が出ていました。

PCPナトリウムによる殺貝  出典 : 『地方病とのたたかい』

 代替殺貝剤として1968年(昭和43年)からユリミン粒剤を散粒器により散布も併用されるようになりました。のちにPCPナトリウムは水質汚染農薬に指定され使用できなくなり、ユリミンのみの使用になります。

ユリミンによる殺貝  出典 : 『地方病とのたたかい』

 1978年(昭和53年)ユリミンが製造中止になり、以降B-2(Phebrol)に切り替えられています。薬液を噴霧しますが軽トラで噴霧する姿が分かります。

B-2による殺貝  出典 : 『地方病とのたたかい』

 また、薬剤による殺貝と並行して、1955年(昭和30年)頃から焼却という方法もとられました。当初はアセチレンガスを燃料とする火焔焼土機でしたが燃料は石油に改良され、動力は手動ポンプからガソリンエンジンへと進化しました。背負い型であったものは、安全性から一輪車取り付け型に改良されていきました。

バーナーによる作業 出典 : 『地方病とのたたかい』

(4-4)水路のコンクリート化

 しかし、それだけでは宮入貝の完全な駆除はできませんでした。宮入貝駆除の決定打となったのは、水路のコンクリート化でした。
 宮入貝はたいへん小さい貝のため水の流れが早いと留まることができません。そこで、有病地にある水路を直線化して流速を早めることにしました。
 1950年(昭和25年)から用水路のコンクリート化などの農地基盤整備が徹底的に行われました。事業が完了した昭和55年ま2053キロメートルに及ぶコンクリート化を行いました。

コンクリート化の前後   出典 : 『地方病とのたたかい』

 それに先立つ1947年(昭和22年)、昭和天皇の山梨訪問(1947年10月14日~15日)のとき、地方病の有病地の視察で説明をしたのが三郎でした。
 玉穂村(現中央市)の水田を三郎が案内役となって、戦後で十分な感染対策も出来ない状況を天皇は間近かに見られました。この視察がきっかけとなり、県に国からの予算がついてコンクリート製の水路に改修を進めることができました。

昭和天皇に説明する三郎 出典 : 『地方病とのたたかい』
顕微鏡を覗かれる昭和天皇 出典 : 『地方病とのたたかい』

 この山梨訪問で昭和天皇は甲州市の宮光園も訪問しております。宮光園には昭和天皇のためのトイレが現存しています。拙稿もご覧ください。

(4-5)ホタルが消えた

 鎌田川(昭和町)のホタルは1930年(昭和5年)に国の天然記念物に指定されていて、県下有数の源氏ホタルの生息地でした。ホタルが活発に飛び交うさまは「ホタル合戦」と呼ばれたそうです。天然記念物指定には杉浦健造の尽力もありました。

天然記念物に指定された頃の鎌田川
ちょっとしたお礼に使っていた杉浦家の手ぬぐい

 ただし、水路をコンクリート化した代償としてホタルの幼虫の餌であるカワニナも生息できなくなりました。昭和町から野生のホタルは消え、1976年(昭和51年)に天然記念物の指定は解除となりました。
 町内小中学校はすべてが校章にホタルがデザインされています。旧尋常小学校、ベッドタウン化後の新設校とありますがすべてホタルをデザインしています。それは名残ではなく将来のホタル復活への期待のように感じられます。

マンホールの蓋と校章デザイン

(5)終息宣言とそれから

 前述のように1996年(平成8年)、山梨県は地方病の終息宣言を出しました。
1884年(明治14年)に県令藤村紫朗に「御指揮願い」を提出したことにより、原因解明へ取り組みが始り終息宣言に至るまで115年の歳月がかかりました。碑の前にはその歳月と同じ115枚の杉浦醫院の瓦が添えられています。
 そして、消息宣言から25年が過ぎている2023年現在、地方病を経験した人は高齢化し、経験を語る元患者も医師もいなくなる状況が迫っています。
 獨協医科大学の千種雄一教授は、学生たちに地方病を伝えるため、毎年杉浦醫院へ学生を連れて研修を行っています。

敷地内にある終息宣言の碑
115枚の瓦

記憶を残す活動

 昭和町風土伝承館杉浦醫院が中心となり地方病の「記憶」を残す活動をしています。
 杉浦醫院の見学者は意外にも噂を聞きつけた県外からの方や若い年代が多いそうです。見学については解説をしていただけます。むしろ解説していただくことで理解できます。対応できない場合もあるので事前の連絡が勧めです。
 また、近隣の小学校へ館長らが出向いて地方病の出前授業を実施しているそうです。
 流行終息宣言から25年を機に、関係者の証言や寄稿を集めた『地方病を語り継ごう 流行終息宣言から25年』を制作し、2022年(令和4年)出版しています。


『地方病を語り継ごう』

おわりに

 地方病とその歴史を中心に紹介いたしました。甲府盆地の水田や畔が農民らを死に至らしめる病気の最大流行地であったことを認識いただければと思います。
 山梨県立博物館にも地方病の展示があり、貴重な資料を収集展示されているのですが、年配夫婦が「地方病あったあったね」と流して通り過ぎ、若い世代は立ち止まりもしませんでした。展示のみで伝えることの難しさとともに総合歴史博物館で伝えられることはほんの一握りであると感じました。
 かつては「地方病なら杉浦醫院へ行け」と言われたといいます。終息した「いま」においても「地方病なら杉浦醫院へ行け」であると思うものであります。
 次回は杉浦醫院の歴史や建物、展示について紹介いたします。

参考文献
斎藤俊章編『郷土史にかがやく人々』第7集、青少年のための山梨県民会議、1974
山梨県衛生公害研究所、梶原徳昭『地方病とのたたかいー地方病流行終息へのあゆみー』山梨地方病撲滅協力会、2003
昭和町源氏ホタル愛護会編『源氏ホタルと昭和町-昭和町源氏ホタル愛護会30周年記念誌-』昭和町源氏ホタル愛護会、2018
昭和町風土伝承館杉浦醫院編『昭和町風土伝承館杉浦醫院の楽しみ方ガイドブック』昭和町風土伝承館杉浦醫院、2020
昭和町風土伝承館杉浦醫院編『地方病を語り継ごう 流行終息宣言から25年』昭和町教育委員会、2022

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