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【井戸尻考古館】記念展示「おらあとうの考古学と遺跡の保護」を見に行く

はじめに

 富士見町の井戸尻考古館では「発掘された日本列島2022」に貸し出され全国5ヵ所を巡回展示した土器などの資料がおよそ1年ぶりの2月末に帰ってきました。帰ってきた資料に「おかえりなさい」の意義を込め、巡回展記念展示「おらあとうの考古学と遺跡の保護」(2023.4.11~5.7)を開催しています。

エントランスのポスター

 「発掘された日本列島2022」の図録ですが、表紙と裏表紙双眼五重深鉢(藤内遺跡)と四方神面文深鉢(井戸尻遺跡)のいずれも中央に井戸尻考古館の土器が配置されています。それだけ扱いが大きかったことを物語っています。

図録の表紙と裏表紙の中心は井戸尻考古館の土器

春の考古館

 標高が高い考古館の春は遅いのですが、桜の開花は例年よりも10日ほど早くほぼ終わりを迎えつつありました。その代わり、ツツジが鮮やかに色を添えていました。
 また、駐車場にある二色に咲く花桃の木は開花が始まりました。

散り始めた桜の枝と
色鮮やかにツツジ
2本の花桃の間に富士山

おとらあとうの村の歴史はおらあとう手で明らかにする

 「発掘された日本列島2022」における井戸尻考古館の資料は地元住民の主導により発掘調査、研究が進められてきた事例として紹介されたものです。また、保護と活用の取り組みも紹介されました。
 「おらあとう」とはこちらの方言で「俺たち」のこと。地元の農家有志が立ち上げた井戸尻遺跡保存会の精神を表す言葉が「おとらあとうの村の歴史はおらあとう手で明らかにする」でした。発掘50周年のポスターのタイトルにもなりました。
 さて、考古館のエントランスには「ようこそ!"おらあとう"の井戸尻考古館へ」とのメッセージがあります。コロナ渦における対策について館と職員の姿勢を示した内容ではありますが、ここにも「おらあとう」が登場します。「おらあとう」は村の歴史を発掘した先輩方への敬意が込められているとともに来館者に身近に感じてもらうための言葉なのです。

「おらあとう」からのメッセージ

おらあとうの考古学と遺跡の保護

 前置きが長くなりましたが、巡回記念展示「おらあとうの考古学と遺跡の保護」を紹介します。
 町のみなさんに、地元が誇る縄文文化を見てもらおうという思いから「おかえり展示」になったとのこと。
 実は筆者は、戻ってきた土器の本来の置き場所が別の土器で埋まり、置き所がなくなりとりあえず展示してしまったのかとたいへん失礼なことを考えていました。それだけ井戸尻考古館は展示資料が多く、場所の争奪戦が繰り広げられているのです。
 この真偽はともかくとして、実際に収蔵庫に入ってしまう資料もあるので、展示を見逃した方には残された機会でありますし、一度見た方にはもう一度会える機会といえます。

 館長による「発掘された日本列島2022」の見学記をリンクさていだいています。

「おかえりなさい、土器たち!」

 「発掘された日本列島2022」での解説文を執筆されたK館長からお話を伺うことができました。
 前述のとおり富士見町のみなさんに見てもらうための展示であるといいます。昨年末「広報ふじみ」の紙面にて町の十大ニュースとしても取り上げられたことも理由にあるそうです。では富士見町の町民は遺跡や文化財に対する関心は高いのかと聞くと、関心のある人はまだまだ少ないと感じていると館長はいいます。
 少子高齢化で財政の厳しい地方行政において、住民生活に直接影響しない文化財は優先度が後回しにされがちです。町民に支持してもらえないと文化財は残せない。支持してもらえるよう努力をしないといけないと考えているそうです。

双眼五重深鉢

 企画展示コーナーの独立ケースに双眼五重深鉢(藤内遺跡)が展示されているのですが、写真撮影は不可でした。上記のチラシにもこの土器のアップが使用されています。この「発掘された日本列島2022」のメインビジュアルとしても据えられていた土器です。

双眼五重深鉢のアップ

井戸尻遺跡群とその発掘

 井戸尻遺跡を中心に半径3キロメートル四方の中に曽利そり藤内とうない九兵衛尾根きゅうべぇおね新道あらみち狢沢むじなざわといった30余り遺跡が集中しています。その総称として井戸尻遺跡群と呼びます。
 井戸尻遺跡群は境地区(旧境村)の農家の有志や近隣高校の地歴部の生徒らにより発掘調査されたという特色を持っています。
 それは昭和31年、境史学会の発会式において行った記念講演を行った在野で諏訪の考古学者藤森栄一(1911年~1973年、明治44年~昭和48年)の話から「おらあとうの村の歴史はおらあとうの手で明らかにする」という機運がた高まったことによります。そして昭和33年の井戸尻遺跡を皮切りに、これらの遺跡の発掘を進めました。昭和34年に井戸尻遺跡保存会が発足しています。
井戸尻遺跡群の発掘の成果はやがて、昭和39年に中部地方の土器編年として「井戸尻編年」が生まれました。

最新の井戸尻編年

 パネルは現在の井戸尻編年です。当初存在した、井戸尻Ⅱ式はその後の研究で井戸尻Ⅰ式に吸収されなくなっています。また、藤内Ⅰ式の前に藤内Ⅰ古式が追加されるなど、その後の研究により変化しています。

高原に花開いた縄文文化

 展示ケースに並ぶのは井戸尻遺跡出土の土器です。

井戸尻遺跡の資料

 蛙文有孔鍔付土器(左)と蛇文蒸器型(右)です。その間には人面取っ手があります。人面取っ手は意図的に欠きとられたと考えられています。また、有孔鍔付土器は酒造りの容器と井戸尻考古館では考えています。

土器と人面取っ手

学界と一線を画す

 藤森栄一は、井戸尻遺跡群の調査を通じ、縄文中期に農耕が営まれていたとする「縄文中期農耕論」を提唱しました。
 農耕論について考古館では出土した石器を実際に使い、建物裏の実験圃場で雑穀類を栽培するなど、実践的な研究が現在も続けられています。
 井戸尻考古館の図録ともいうべき『井戸尻』の第1集があります。これまで改版を重ね、最新のものは第9集(2019年発行)となっています。
 また、手前は井戸尻遺跡で出土した石器の一部です。一般には打製石斧ですが、井戸尻考古館ではこれらの石器を館内で木製の柄をつけた農具として現在の農具と並べる比較展示をしています。

井戸尻遺跡の石器と井戸尻第1集

 また、重要文化財に指定された藤内遺跡から発掘された土器は特徴的な文様が多く、文様はただの模様ではなくなにか意味があると考え、図像をとして解釈することで縄文人の心に迫ろうとする「縄文図像学」の研究が進められました。
 「縄文中期農耕論」と「縄文図像学」は武藤雄六ゆうろく(初代館長、1930年~2022年)や小林公明きみあき(2代目館長、1945年~)らにより、井戸尻考古館の研究の柱となっています。また、こうした独自の研究は考古学界の異端児と言われていた時期もありましたが、近年では独自の研究を貫く姿勢に対して評価が変わってきているようです。

井戸尻文化の前と後

 縄文時代中期は、この八ヶ岳山麓が反映した時期です。まさに「高原の縄文王国」といえます。井戸尻遺跡群の調査は、さらに縄文時代中期の前後の時代を知ることとなります。
 井戸尻文化の前の時代として、1994年(平成6年)には坂平遺跡は前期前葉の遺跡から大規模集落が発掘調査されました。
 後の時代として、縄文時代後期の大花遺跡がありますが、関東地方の土器の影響がみられ、井戸尻遺跡群の終焉といえます。

坂平遺跡の大花遺跡の土器と大花遺跡の耳飾り(左側)

守られた遺産

 自然が豊かな富士見町ですが、何度か開発による破壊の危機にさらされることがありその都度守ってきました。
 井戸尻遺跡保存会の立ち上げのきっかけとなった、藤森栄一ですが、藤森も晩年にビーナスラインの建設に伴い、霧ヶ峰の御射山遺跡の保護活動を行っています。
 最新の遺跡保存の事例としては、メガソーラーの建設計画のあった広原遺跡を開発企業と協議の上、盛り土をして設置するなど遺跡の破壊を最小限に留めました。
 展示ケースに広原遺跡の埋甕と磨製石斧があります。磨製石斧はこの埋甕の中に入って発見されました。埋甕の中に遺物があるは稀なケースです。

広原遺跡の埋甕とその中にあった磨製石斧

 井戸尻考古館が建つ曽利遺跡も破壊される危機があった経緯から1974年(昭和49年)現在地に建設されました。
 曽利遺跡は、史跡整備に向けた調査として、令和3年度より発掘調査が5年計画で進められています。
 令和3年度調査で発掘された、見事な浅鉢が展示されています。井戸尻考古館の展示室では初めての展示になります。
 その手前には、細かい孔のある俵形土製品があります。俵形土製品については、用途が不明で「俵形土製品」として展示されましたが、北陸や関東で見られる「有孔球状土製品」であったそうです。

地元初展示となった曽利遺跡の浅鉢
「有孔球状土製品」と判明した「俵形土製品」

見据える未来

 館長によれば、昨年は感染症の拡大の影響もありながら入館者は伸びているといいます。しかしその数字は県外の人や縄文ファンに支えられての数字です。一方で、富士見町内に目を向けるとまだまだ地域に知ってもらう必要性を感じるとのこと。
 文化庁の全国巡回の展示にて紹介されたことは、富士見町にとっても井戸尻考古館にとっても大きいのではと考えた筆者です。しかし、まだまだ一歩にも達していないと館長は厳しめに見ています。
 館長は常に次の手を視野に入れているとのこと。町の商工会とコラボして平成30年より始まった縄文ハロウィンもそのひとつでしょう。また、平成14年より開催している「高原の縄文王国収穫祭」など縄文の町づくりとして定着しました。過去の資料を相手にしながら見据える先は未来なのです。

おわりに

 おかえりなさいの意義を込めた巡回展記念展示を紹介をいたしました。
 地元の有志たちが発掘調査、研究を進めた事例と地元の文化の保護と活用の取り組みでしたが、これこそが井戸尻遺跡の発掘に始まる考古館の歴史でした。それとともに館長から直接お話を伺うことができ「おらあとうの考古館へようこそ」のとおり、来るものを温かく迎える考古館と館長の姿勢に触れることができました。


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