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~避けられた6名の死~ 隠された附属池田小事件の真相

【はじめに】

 小学校の児童、それも1年生と2年生という低学年から8名の死者と多数の負傷者を出した大阪教育大学附属池田小学校児童殺傷事件(2001年6月8日)から間もなく20年になる。
 この忘れ難い悲惨な事件について私は事実が大いにねじ曲げられて、伝えられていると考えている。

 あの宅間守という男が犯人ではないと言いたいのではない。この点には疑問の余地はない。私は事件当日の宅間の犯行の経過が現在明かされているものとは大いに異なるのではないかと思うのだ。具体的には、宅間が襲撃した教室の順番が違うと思うのだ。

「そんな些細なこと・・・宅間が8人もの児童を刺殺したことには変わりないじゃん。」

 ここまで読まれただけではそう思う方は大勢いるだろう。しかしこれは全く些細なことではない。実は死亡した8児童の過半以上、具体的には6名、もしかしたら7名もの子供たちが実は命を落とさずに済んだのかもしれないからである。


【①公式発表】

まず、現在公式に発表されている事件の経過を記述する。

2001年6月8日(金)午前

10時10分
 犯人・宅間守の運転する車が附属池田小の自動車通用門に到着。当時は給食の搬入のため、門が開いていた。
 宅間は校舎へ向かう途中、体育館横で男性教諭(2年南組担任)とすれ違うが、教諭は宅間を児童の父兄と思い込み、会釈して通り過ぎた。
(※一般的にこの事件までは附属池田小に限らず、誰でも学校内に立ち入ることができた。)

10時12分
 宅間は校舎1階テラスから2年南組に侵入。当時このクラスは2時間目の授業が早めに終わって休憩時間に入っており教諭不在であった。犯人は包丁で女子児童5名を刺し、5名全員が死亡した。
 なおこのとき刺された5名のうち3名は教室内で倒れたが、その一方で1名は廊下まで逃げたところで力尽きた。そして残る1名は廊下を玄関ホール付近まで逃げて倒れた。
 宅間は教室を出て再びテラスに向かった。

10時15分
 宅間がテラスから2年西組に侵入する。当時2年西組は席替え直後で児童全員前を向いて座り、担任の20代の女性教諭は犯人の侵入方向に向いて教卓の席に着いていた。
 宅間が手当たり次第に児童を次々と包丁で突き刺すのを見た教諭は教室内の内線電話から校内放送を用いて誰かに知らせようとしたが上手くいかなかった。教諭は児童に「逃げて!」と叫ぶと警察へ通報するため廊下側前のドアから出て事務室に向かって廊下を走った。この途中で教諭は廊下で倒れて苦しむ女児(先述の2年南組で刺されて玄関付近まで逃げた子)に気づいたものの、そのまま事務室に駆け込んだ。
 結果的に2年西組では女子児童2名が死亡、男女6名の児童が負傷した。

10時17分ごろ?
 宅間が2年東組に廊下側から侵入。児童に次々と切りかかるものの、在室していた担任の男性教諭が椅子を持って抵抗し、テラスに逃れた。
 2年東組は男女5名の児童が負傷したものの犠牲者はいなかった。

10時18分ごろ?
 テラスに逃れた宅間に1年南組の男性教諭がタックルして確保を試みたが、逆に宅間に腹部を刺されて重傷を負った。宅間はなおも2年東組教諭らから抵抗を受けるもこれをかわし、テラスにいた児童を西方向へ追いかけた。

10時20分
 宅間はテラス側から1年南組に侵入。1年南組は2時間目が音楽の時間で、音楽室から早めに戻ってきていた児童数名がおり、教諭不在だった。なお、襲撃の事態が発覚してから宅間が侵入するまでに1年南組の横を3名の教諭が通過していたが、避難の呼びかけなどはなされていなかった。
 宅間は児童を次々に襲い、男子児童1名が死亡、男女3名の児童が負傷した。

10時25分
 このころまでに犯人・宅間は副校長と2年南組教諭らによって身柄を確保された。

※経緯の補足
10時18分

 2年西組教諭が事務室より110番通報。この際、警察に事件の詳細を聞かれて通報通話に8分間もの時間を要した。警察が救急車を要請したのは、通報を始めてから5分後であった。

10時20分
 児童らが逃げ込んだ学校近隣のスーパーマーケットから119番通報がなされる。当事件における最初の119番通報となった。

 以上が概ねの事件の経過である。なお、参考資料として当時の新聞報道のほか、以下のものを参照した。
・大阪教育大学HPの「附属池田小事件に関して」
https://osaka-kyoiku.ac.jp/safety/fuzoku/ikd/goui/jikengaiyo.html
・附属池田小事件の判決文(大阪地方裁判所)

 次章以降の論を進めるにあたり、事件後に生じた事柄を幾つか列挙する。
①事件で犠牲になった8名の遺族に対して学校側は非を認め、総額4億円の賠償金が支払われた(遺族からの訴訟は提起されていない)。
②事件のあと、現場になった校舎は使用されず、建て替えられた。制服も変更になった。
③犯人・宅間守は2003年8月28日に死刑判決が下り、控訴することなく刑が確定。2004年9月14日、死刑が確定したあと約1年後という異例の速さで死刑が執行された。
④遺族の一部が警察に、事件当時の2年西組教諭からの通報記録の公開を求め続けたが、警察は「公開するきまりはない」として拒否続けた挙句、保存年限満了につき廃棄したと発表した。
⑤児童を守れなかった学校は強く非難され、とりわけ2年西組の女性教諭は生徒を放置して逃げたとして非常に激しいバッシングを浴びた。
⑥全国津々浦々の学校の校門が閉ざされるようになり、スクールポリスの導入が進んだ。
⑦内線電話やインターホンを増強して、職員室と教室の連絡体制を強化する動きが広がった(日本教育新聞2001年9月14日1面)


【②疑問点】

この章では前章から浮かび来る6つの疑問点を列挙する。

疑問①:2年南組は10分も授業切り上げた?
 最初に襲われた2年南組は2時間目の授業を早めに切り上げており教諭不在とのことだったが、実際に何分くらい切り上げたのだろう。なお、次に襲われた2年西組も、その次の2年東組も犯人侵入時は授業中だった模様である。
 附属池田小に子供を通わせていた私の知人に聞いたところ、池田小の時間割は以下のとおりであった。

 登校時間:8時30分
 朝の時間:8時35分~8時45分
 1時間目:8時45分~9時30分
 2時間目:9時35分~10時20分

 10時12分に犯人・宅間守が侵入したとき、2年南組の教室内にいた児童数は多くなかった模様であることからして10時10分には2時間目を終えていたのだろう。10時15分の終了予定を5分早める程度は常識の範囲内であろう。しかし、実際には10時20分の終了予定を10分も早めていることになる。45分間の授業を10分も切り上げるなど通常ではありえないのではないか。


疑問②:襲撃を受けていた隣の教室は何も気付かなかったのか?
 宅間守の凶刃の餌食となった2年南組も2年西組も子供たちの悲鳴が響き渡っていたことだろう。しかし現在までに「隣の教室から悲鳴が聞こえてきて何事かと不審に思った」などという証言は一切なく、2年西組も2年東組も襲撃を事前察知していなかった。


疑問③:音楽室から戻る1年南組の児童は何も気付かなかった?
 今回挙げる疑問点の中でも「どう考えてもありえない」疑問である。

画像1

 上が附属池田小学校の現場付近の配置図である。目下、筆者は事件当時の附属池田小の各フロアの間取りが分かる資料を保有していないが、1階の間取りから想像するに、音楽室が何階のどこにあろうとも、1年南組の児童たちは廊下を北から戻ってくるか、東西どちらかの階段から降りてきたはずだ。
 事件の経過が公式発表どおりであれば、音楽室から戻ってくる1年南組の子供たちが何も目にしていないはずがないのだ。

 「疑問①」の項にあるように、1年南組が襲撃された10時20分は2時間目の終了時刻である。2時間目の音楽の授業は少し早めに切り上げられたのだろう。しかし、週に1回の音楽の時間が10分も切り上げられたとは思えない。つまり、1年南組の子供たちが教室に戻り始めるころには2年南組の襲撃は終わっていたと思われる。

間取りb2

 だとすると、1年南組に戻る子供たちは玄関ホール付近に血まみれで倒れる女児に気づかなかったとでもいうのか?廊下に出たところで力尽きた女児にも。
 仮に西側階段から降りてきてホールで倒れる女児が死角で見えなかったとしても逃げる彼女が流した鮮血の跡が廊下には大量に残っていたはずである。

 つまり、この疑問点一点のみをもって、公式発表には絶対的に矛盾点があるといえる。


疑問④:学校側の賠償金支払いは素直すぎるのでは?
 大変悲惨な事態となったこの事件であるが、学校側の落ち度は当時の基準で考慮すれば必ずしも万死に値するとはいえない。
 通用門の管理を徹底したり、体育館の横で教諭が犯人を素通りさせなければ事件は未然に防ぎ得たであろうが、当時は大半の学校で一般人の立ち入りの自由度が高く、教諭の対応は決して不可解なものではなかった。
 「逃げた」と大バッシングを浴びた2年西組の女性教諭にしても、若い女性があの屈強な刃物男にどのように立ち向かうことができようか。明らかに過剰なバッシングと言える。
 
 この事件では救急通報が遅れて児童の搬送が遅れ、最初に襲われた2年南組内で倒れていた3名の女児は兵庫県から応援に駆け付けた川西市の救急隊が対応するまで25分間も何の処置もなく放置されていたという。学校側も「死亡した8名の児童は即死ではなく、救命活動の遅れが死因に直結する失血死である」として搬送の遅れを認めている。

 しかし、詳細は割愛するが死亡した8名の受けた傷は全員が極めて重く、即座に救急隊が対応していたとしても救命できていたとは思えない。ただし最後に襲われた1年南組で犠牲になった男児のみは、もう少し冷静な対応ができていれば避難できていたかもしれない。
 
 よって、学校側にとっても不可抗力に近い部分が否めず、通常の対応ができていても確実に救えたかもしれない命は1年生の男児1名が限界である。通常であれば賠償請求をされても拒否して裁判沙汰になる案件である。それにも関わらずあっさり賠償金を支払っているのは不思議と言える。


疑問⑤:遺族の一部の反対論を押し切って早々に校舎を建て替えたこと
 遺族の一部などからは学校から校舎建て替えの話が出たことに反対した。賠償金の支払いには素直に応じた学校側は、このときは反対論を押し切って早々に建て替えている。


疑問⑥:通報記録の廃棄
 2年西組教諭からの警察への通報は10時18分から8分間に及んだという。この通報記録について一部遺族が公開を求めたが、警察は「公開する制度はない」として拒み続けた挙句、記録を破棄している。


【③真相】

 宅間守が襲撃した教室の順番は、

「2年南組 ⇒ 2年西組 ⇒ 2年東組 ⇒ 1年南組」

ではなく

「2年西組 ⇒ 2年南組 ⇒ 2年東組 ⇒ 1年南組」

であった。これが私が至った真相である。


【④真の事件の経緯】

 真の事件経過は以下の通りだと予想する。(犠牲になった8児童はアルファベットA~Hで表記)

2001年6月8日(金)午前

10時10分
 犯人・宅間守の運転する車が附属池田小の自動車通用門に到着。当時は給食の搬入のため、門が開いていた。
 宅間は校舎へ向かう途中、体育館横で男性教諭(2年南組以外の教諭)とすれ違うが、教諭は宅間を児童の父兄と思い込み、会釈して通り過ぎた。

10時12分
 宅間は校舎1階テラスから2年西組に侵入。宅間が校舎1階テラスに至った時点で手前の2年生3教室はいずれも授業中だったが、その中から教諭が若い女性の西組を選んだ。

 宅間は無言のまま、最後列の女児Aの背中に包丁を振り下ろし、引き抜くと鮮血が噴き上がった。これを見て教諭は内線電話を通じて校内放送を用いて誰かに知らせようとしたが上手くいかなかった。あるいは職員室に電話したのかもしれないが誰も出なかった。
 教諭は自ら通報するために事務室へ向かうという判断をした。教師なら身代わりになってでも子供を守れというのは机上の空論ではないものの理想論であり限界がある。ましてや女手でどのように屈強な刃物男に立ち向かえというのか・・・。
 教諭は子供たちに「逃げて!逃げて!」と叫んで廊下を事務室へと駆けた。

 まだ凶刃の餌食になっていない2年西組の児童たちは皆、テラスの方向へ逃げようとした。廊下に逃げた子供はいても僅かだった。教諭は廊下側扉から逃げるように叫んだ。その結果、子供たちは以下のように判断したのではないか。
① この教室から出なければならない
② どこへ逃げる?廊下?テラス?
③ 先生は廊下の扉から逃げろと言っている。ということはテラスへ向かった方がいい

 結果、テラス側扉に児童が集中し、更に多くの児童が襲われた。殊に最後尾の女児Bが集中的に凶刃の餌食となって押し倒され、背中3ヵ所に腹部1ヵ所を刺された。それでも彼女は凶刃から逃れようと立ち上がり、グラウンドを目指してテラスを西へ走った。しかし校庭に降りる階段の手前で力尽きた。

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10時15分
 2年南組は隣の2年西組が騒がしいとは思っていたが、そのうち西組の児童たちが次々と校庭へ出てきた。それを見た2年南組の男性教諭は授業を早めに切り上げた。南組の子供たちの多くは校庭へ遊びに出て行った。

10時16分
 音楽の授業が少し早めに終わった1年南組の児童が教室に戻り始める。

間取りe2

10時16分
 2年西組のテラス付近で女児Bに逃げられた犯人・宅間は隣の2年南組から次々に児童が出てくる様子を目にした。教室内を覗くと教諭の姿は既にない。
 宅間はテラス脇の扉付近でトイレへ行った友達を待つ女児Cを目に留め、2年南組へ侵入し、包丁をCの右脇腹に思い切り突き刺した。逃げるCだったが宅間は髪を掴んだうえ右後頚部を切りつけた。Cは廊下まで出たところで倒れた。
 教室前方では女子児童4名が折り紙遊びのため集まっていた。宅間はそこを襲った。まず、左手に逆手で持った包丁を女児Dの右肩付近に振り下ろす。Dは悲鳴と鮮血を噴き上げながらその場に倒れた。次に逃げようとする女児Eの背中に包丁を突き立てる。深く刺さった包丁を宅間が渾身の力で抜くとEの身体は宙に浮き、そのまま力なく崩れ落ちた。
 女児Fは逃げようとしたが恐怖のあまり足がすくみ、教壇で黒板を背にして座り込んでしまった。宅間はそのFを襲った。刃を横に寝かせて左胸を一突きにした。
 逃げる女児Gは教室前方の廊下側扉まで達しようとしていたが恐怖で立てず、這いながら進んだが間に合わなかった。宅間はGの背中を3回刺した。それでもGはようやく立ち上がり、廊下を西へと進んだ。

10時18分
 犯人の凶刃から逃れて逃げてきたGだったが玄関ホール付近で倒れる。音楽室から戻ってくる1年南組の児童が「うう、痛い」と血まみれで呻くGを目の当たりにして足を止めたが、何人かはGが逃げてくる前に1年南組に戻ってきてしまっていた。

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10時19分
 犯人が2年東組に廊下側から侵入。児童に次々と切りかかるものの、在室していた担任の男性教諭が椅子を持って抵抗し、テラスに逃れた。
 2年東組は男女5名の児童が負傷したものの犠牲者はなかった。

10時20分
 2年東組と1年南組の男性教諭がテラスで犯人と格闘するも、1年南組の教諭が逆に犯人に腹部を刺されて重傷を負った。犯人はなおも2年東組教諭らから抵抗を受けるもこれをかわし、テラスにいた児童を西方向へ追いかけた。

間取りf2

10時21分
 1年南組の児童たちはやけに騒がしい外の様子と他の友達が一向に帰ってこないことを不審に思いつつあった。そこに宅間が侵入してきた。
 宅間と鉢合わせした男児Hは血の付いた包丁を見て逃げようと後ずさりしたが机に阻まれて動けなかった。犯人は渾身の力でHの右脇の下を突き刺した。Hは鮮血を噴き上げながら後ろに倒れていき、壁を背にして座り込むように倒れた。
 Hのあと、男女3名の児童が襲われた。

間取りg2

10時25分
 このころまでに宅間は副校長と2年南組教諭らによって身柄を確保された。

※補足
10時18分

 2年西組の教諭が事務室から110番通報を行う。しかし、電話に出たのは配属されたばかりの新人警官。パニックになりながら「とにかく早く早く!」と急かす教諭に対して新人警官は事件の経緯を聞き取ることに固執した。その結果、通報通話に8分もの時間を要することとなった。


【⑤まとめ】

 上記の経緯が正しいとすれば、2年西組の教諭が子供に背を向けて「逃げた」ことは避けられずとも、通報に赴く際に他の教室に聞こえるように異変を呼び掛けていたならば5名が犠牲になった2年南組も新1年生1名が犠牲になった1年南組も一人の死者も出さなかったかもしれない。つまり6名までは死が避けることができていたということになる。
 当時は常識だった甘いセキュリティのために犠牲者を出したというのと、対応の不備がなければ助かっていたというのでは印象が大きく異なる。

 だから学校側はダメージコントロールのために事件の経過を改竄し、早々に遺族に賠償金を支払い、更に検証を防ぐために校舎を早々に建て替えたのではないか。
 また、ネット掲示板の書き込みからの情報ではあるが、当時は大阪教育大学の附属小学校の再編計画が持ち上がりつつあり、池田小は統合される対象になりつつあったという。それも判断に影響を与えたかもしれない。
 そして学校から通報を受けた警察にも何らかの重大な不手際があった。だから学校から求められた口裏合わせに協力したのではないか。あるいは当時の大阪府警の幹部の子弟が附属池田小学校の関係者だったのかもしれない。

 事件のあと、学校側は毎年追悼集会を開き、防犯教育にも熱心である。真相を闇に葬ろうとしているために対策が緩くなっているということはなさそうに見える。

 広く社会全体にこの事件の正確な情報を明かす必要があるかは分からない。しかし遺族は全てを知る権利があり学校は全てを伝える義務がある。遺族は真相を知らされているのだろうか。いや、おそらく知らされていない。知っていたとすれば遺族が真相を不審に思って警察に記録を公開するように求めるだろうか。そして(口止め料込みで)総計4億円という賠償金で和解できるだろうか。
 それに遺族たちは賠償金の話が報じられたあと、ネット上で散々に叩かれた。現在でいう「上級国民」だと。真相を伝えられていたならばネットのバッシングに黙ってはいなかっただろう。

 遺族が、犠牲児童のお父さんお母さんがこの事件の真実を知ることは亡くなった8名の子供たちのためでもある。事件の真相が私の考察した通りではなくとも、途中で述べたように何らかの重大な事実が秘匿されていることは確実である。学校側は20年、それ以上の時間が経過した後だとしても真実を明かしてもらいたい。そうでなければ熱心な防犯対策も毎年欠かさず開かれる追悼式典も偽善の代物に成り下がるだろう。

※附属池田小学校事件で犠牲になった8児童の写真

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