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70年代のイギリスの少女たちが考えていたこと

1970年代初めの中学生の頃、ロンドンの女子校に通っていました。その時の友達たちとは、よく議論しました。議論というよりもおしゃべりの延長で、「意見を言い合う」という方が穏やかで、より実際に近いものだったかもしれません。

よく話題になったのは「死んだあとに土に埋められたいか、火葬されたいか」。その頃のイギリスでは火葬以外の選択肢がまだありました。火葬しか知らなかった私には意外な話題でした。

この話題については、みんなはどちらかというと、「どちらかが良い」ではなく、「どちらかは嫌だ」という立ち位置で話していました。

「埋めらたくない」派は、土が顔にかかる、とか虫や動物にかじられるとかが嫌だという場合が多かったです。「火葬はいや」派は、焼かれるときに熱そうというのが一番多かったと思います。

説得するための議論ではなく、宗教談義でもありません。気軽な「ねえ、どっちがいい?」というノリの軽い話題です。とはいえ、それぞれが自分の考えをまとめるための時間だったのかもしれません。

この他によく話題になったのは、「出産時に夫に立ち会ってもらうかどうか」でした。

夫は出産する時の原因を作った人なんだからちゃんと立ち会って欲しいという子やすごく痛いらしいから、絶対一緒にいてほしいと思うという子もいました。逆に痛いらしいから気兼ねせず泣いたり、叫んだりしたいから、あるいは、女性のことだから、男の人にそばにいて欲しくないという子もいました。

どの子もその段階では特に特定の人がいたわけではなく、あくまでも仮定の話なのですが、一生懸命考えて、お互いの意見を聞いて、自分の意見を交換したものです。

みんなそれぞれに自分で考え、自分の意見を持つことは当たり前のことでした。

もう一つ、印象的だったことがありました。学校から動物園に見学に行くと決まった時のことです。

「動物園は自然の中で生きてきた動物を無理やり連れてきて、檻の中に閉じ込めている。私はそのやり方に賛同できない」と友達の一人が先生に伝えました。ちゃんと親の了解も得て、学校の了承を取り、自分の意思に則って、当日は欠席しました。

「自分で考えて、行動する」というのを10代でもやっていいんだと知ったきっかけでした。

帰国後の日本人の友人たちに「貴方ってすぐ『なんで?』って聞くよね。」と言われました。きっと鬱陶しいと思われたのだとは思いますが、どうしてだろう?とかなんでだろう?と自分の頭で考えるいい癖を身につけたと思っています。


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