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【感想】映画『ルックバック』

『ルックバック』の全国上映が始まり、翌日に映画を見に行きましたが、アニメーション映画としてはかなり完成度の高い出来映えであり、劇場スクリーンだからこそ見る価値のある映画だと感じさせられました。
以前、原作を読んで感じたことは、こちらの記事にまとめ記した記事があるので参照して頂けたら幸いです。↓

映画を見終わり、映画の入場者特典でもらったネーム漫画を読んでいると、自然と脳内で見た映像が流れ出してきました。
原作と映画では、少し描かれ方が違っていて、原作を読んでいる時の時間の流れ方と映画を見ている時の時間の流れ方というのは読書と鑑賞の方法ではまるっきり変わってくるものだと実感させられるものがありました。
原作を読んだ時と映画を見た時の感動の違いによるものは、読書と鑑賞にそれぞれ違った効用があるからだと考えさせられることがありました。
原作も映画も藤野と京本が漫画を描く姿勢、熱量は変わることなく、それは純粋に描くことが好きな気持ちは同じであることは確かでした。
お互いの漫画に惹かれ合うというのは、絵を描くことが好きだからこその感情であり、描くことでしか得られない楽しさや感動、学びもあることを痛感しました。
京本は藤野から外の世界へ一歩踏み出す勇気を与えてくれたし、藤野は京本の才能と実力に圧倒されながらも、描くことの楽しさを再認識させてくれたかけがえのない存在であります。
原作も映画もまた、彼女らの出会いは魂の共鳴であることを感じました。
読書と鑑賞における、原作を読む時と映画を見る時を‘‘情緒的’’と‘‘叙情的’’へと置き換えたとします。
まず、情緒的と叙情的の二つの意味を説明したいと思います。

情緒的…外界からの刺激に対し、特に感情や気分が揺さぶられることを指す。

叙情的…物事や風景、感情などを美しく繊細に描き出す様子や、そのような作品や言葉、表現を指す。

情緒的を読書、叙情的を鑑賞によって起こる作用として考える場合、原作を読むことで刺激される情緒的な作用が働き、映画を見ることで刺激される叙情的な作用の働きによる違いは何かということを考えると、それは五感によるものだと感じました。
作中に流れる空気感と余韻、劇中に流れ込む無音と効果音、『ルックバック』はそうしたものを全て含んでるからこそ、後から考えさせられるものがあるのだと思いました。
イメージをつくることと、つくられているものを体感することは、また違うことだと私は感じます。
感情の変化と物語を追いながら、藤野と京本が何を思い、考えたのか、そして本作でも描かれる、絵を描くことの意味とは何かを知り、理解する上でも原作を読み、映画を見たことに意味はあったのだと思いました。
私自身がルックバックのシーンで特に印象に残ったのは、このシーンであります。

藤野が書いた、四コマ漫画の破れた一コマが京本の部屋の扉の隙間へと入っていくシーンです。
このシーンは、本当に胸が締め付けられる思いでした。
藤野と京本の世界線の描かれ方が変わる一番重要なシーンでありますし京本が部屋から出なければ、藤野とも出会わなかっただろうし、あのような結末にもならなかったのではないかと予測されます。
描かれなかったはずの世界線で、彼女たちはどのように過ごしていたのだろうか。
『ルックバック』は、日本のアニメーション史の中でも重要な存在でこの先も私たちの記憶に留まり続けるだろうと思いました。


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