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なくなったら存在も消えちゃうのかな。

今年の春、父方の祖母が亡くなった。

幼少期から私は人見知りで話すことも苦手だった。
一人っ子だった私は人と話す環境が少なく
小学校は過疎地域だったので決まったコミュニティで生活していたし、家にいたら親としか話さない。

中学時代は違う学校から来た人と仲良くなることができ、掲示板やチャット、オンラインゲームをするようになった。
年齢は出さずに様々な年代と交流し、同じ年よりも年が離れている人の方が居心地がよかったから自分で選択していたのだろう。


人といることが好きなのに、なんで話すことが苦手なのか。

人に嫌われたり、否定されるのが怖いから?
何を話せばいいかを考えてしまうから?


どれも可能性はあるけど根本的にそうなってしまったのは、
「人の話は最後まで聞きなさい」と母に言われてきたからなのかも知れない。

前から母の会話を遮ることを許されなかった。
親戚の家に行くとそれは激しく、親戚の中で私が一番下だったからか子供扱いをされて会話に混ざることが出来なかった。

私に振られたどんな話も母が代弁する
だから気持ちが伝えられる場所がなかった。
親戚と会話ができるのは母が席を外した時だけで、過保護すぎると言われたりしていたけれど、私もそれを止める術を知らないからそのままだった。

そんな私が唯一吐き出せるのはインターネット。ブログを更新し、誰も見なくていいし見たいと思った人だけが読んでくれるから楽だった。

そんな生活をしていたので、
私が挨拶以外でおばあちゃんと会話をしたのは
生まれて26年が経ってからの事だった。

旅行で何度か海外に行き、いろんな価値観や生活を見て、ルールの違いを目の当たりにした。
日本と違う面を見て自由でいいなと感じたことが大きかった。

8年前に初めて行った国『シンガポール』
そこでおばあちゃんにお土産でマーライオンが描かれた灰皿をプレゼントした。

「買わなくていいのに」

この言葉を発したのはおばあちゃんではなく母だった。

母は基本的に私の行動を否定することから始まる。

一緒に行ったわけでも無いのに続く母の話。
思ってもない事を伝えられてしまうのが嫌だった。

今まで会話をするタイミングが見つけられないので
私は『病気』『口の聞けない子』『聾』と呼ばれた。

(……喋れるよ。)

そう言いたかった。
けれどその後に続く言葉が出てこないし、
否定することが疲れるから黙ることに25年間徹した。

そんな私がいきなり

「タバコ吸うから灰皿が使いやすいかなぁって思って…」と言った。

その場が凍りついた。
(あ、やっぱり話さなければよかった・・・。)

後悔した。

でもすぐにおばあちゃんとおじさんが「え?話せるの!?」と聞き返して驚いていた。
「全部お母さんが話すから話さなかっただけで話せるよ。」と少し笑いながら返した。
声を発しただけで「すごい」と言われた。

気恥ずかしさもあり会話が盛り上がるとかそう言うのはなかった。
けれど、その日を境に日常会話ができるようになり、殆ど話さなかったおじさんとは一緒に映画を見たり、ゲームをするまでに成長した。

ようやく話せるようになったけど既に私は社会人

2年前に実家が無くなり介護のためにおばあちゃん家が実家になった。
しかし、頻繁に帰るわけでも無く、
おばあちゃんとの会話は5年間のうちコロナ禍で会えない期間も含めて
本当に数回しかないまま今年の春に亡くなった。

私は質問をすることが出来ない。
おばあちゃんは聞く側だったから
私の仕事や趣味の話をして「へぇ」「すごいねぇ」の相槌をしてくれたくらいだ。

唯一「覚えておきなさい」言われたことは1つ。
バッグのジッパーが滑りにくくなって苦戦していたら
仏壇からロウソクを取り出して「滑りを良くするにはロウを塗るといいよ、覚えておきなさい」と教えてもらった。

それだけだった。
もっと話しておきたかった、私がもっと早くに声を出せていれば教わる事があったんじゃないかと、どうにもならないから後悔している。

おばあちゃんと亡くなる2週間前に会った。

母から体調が良くないと連絡が来て会いに行った。
自力で呼吸も出来なくなっていて、介護の人がいろんなケアをしてくれるけど
おばあちゃんは泣いて「痛いからもうやめて」と叫んでいた。
今まで聞いたことない声。

同じ空間にいるのに何を話せばいいかわからなかった。
酸素吸入機をつけて、体力も落ちて固形物食べられない状態でベッドに寝たきりで好きなタバコも吸えない、テレビも画面が見えずらい位置で音声しか聞こえない。
申し訳ないけどそんな姿を見て可哀想だと思ってしまった。

帰り際に「また来るね。」と言ったら手を振ってくれた。

それが最期だった。



いつもおばあちゃんの家に行ったら最初に仏壇に行きお線香に火をつける。
お父さんがやっていたから。
そうするとおばあちゃんは「ありがとう」と言ってくれた。
私は親の真似をしていただけ。

今まで話さない代わりに、人の動きを見ていた。
空気を読んで空気になれるように過ごしていた。喜んでもらいたい、間違ったことはしたくないから。

これまで葬式に何度か参列した。
自死してしまった友達、母方の祖父、祖母、親戚・・・

改めて葬式の日にマナーを知ろうと父に確認した。
すると友人装で数珠の種類があること、お坊さんが来ない、香典がいらないということ。

あー、そういえば創価学会だったわ。
小学校の時に疑問だった、朝に読売新聞や朝日新聞(その時々で乗り換えてた)が届くのに夕方に学会の人が聖教新聞をポストではなく挨拶して届けてくれていた。それが普通だと思っていたから「学会」の意味も考えもしなかった事。

今更になって知りました。

仏壇置いてある家って少ないの?

父方は創価、母方は仏教の家系ということをどちらも亡くなった時に知った。
遊びに行ったら毎朝仏壇に手を合わせて、お経を唱えていることが『普通』だと思っていたから。

ようやくおばあちゃん孝行になるのか、
最後にしてあげられた事は葬儀の受付でした。

人見知りで話す勇気がないまま育ってしまったのが悔しかった。
コミュ障は言い訳でしかないから。

火葬の時に
おばあちゃんの妹が、お気に入りの着物を入れてあげてる姿を見て
「誰かタバコ入れてあげないの?」と言った。

少しの沈黙の後に親戚が
「ずっと吸えてないから忘れちゃったね」と。

みんなが泣き出してしまった。
おじさん「後で仏壇に飾らなきゃね」と言い、みんなでおばあちゃんを見送った。

気が張っていたから火葬の待機の場所では一人になる時間ができ
ふと、好きだったモノを含めて
忘れられていくって悲しい」と思った。

亡くなったら何も伝えられなくなる。
自分が存在していたと言う事実が消えちゃう。

誰かの記憶に残っていたいから、
自分の気持ちは残しておきたい。
ずっと前から思ってたこと。
改めて残さなきゃと思えた。

火葬を終えて骨を詰めて、遺影を抱えておばあちゃんを家に連れて帰った。


余談:
棺に入ったおばあちゃん。
みんな顔を触ったり手を握ったりしていた、
爪が濃い紫で今時の火葬はメイクだけじゃなくネイルもするんだなんて思ったら
横から「チアノーゼ」と声が聞こえて
(あぁ、チアノーゼか…!)
え!?声に出してないのに!?心の声読まれた!?って思ったけど、誰が教えてくれたんだろう。

興味のある事とない事の差が大きい私
数学や英語の勉強と同じで
”こんなの大人になって使うの?”
知らなくてもいいとも思っていた。
でも、勉強はしておいた方がいいし、知識も経験もあった方がいい。

「うちは無宗教だから」と、言い聞かされて育ちました。
興味がないから「そうなんだ〜」と疑問に思うこともないまま過ごした。
母の話を聞くとよく「お母さんはクリスマスをした事がない。うちは貧乏な家庭だったから。」と、よく聞かされていた。

だから、私はお金のない家庭で育ったと擦り込まれていたんですが
今になって思うんだけど(仏教だったからなのでは?)と、
正解は知らないけど私は疑問を持つことが出来ました。

人から聞いたおばあちゃんの事は、
9人兄弟だったこと
着物と踊りやお祭りが好き
チャリで市内を暴走して元気な人だったと

長く生きたのに、
生きてた時代を知ってる人が消えていくのって寂しいね

灰皿を使ってくれててありがとう。

葬儀の帰り道におばあちゃん家の駐車場の咲いてたタンポポが綺麗でした。

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