何もしてくれない「目」を作り続ける
芸術は来るべき時を拓く
最近読んだ本にクリエイターにとって気持ちの良い文章がにありました。※1
「歴史家は過去だけについて書くが、芸術(家)は来るべき時を拓(ひら)く」
※1芸術人類学講義 鶴岡真弓編 ちくま新書
芸術の重要性をこんなにも簡潔に文章にされていて感激しました。芸術とは過去や現在の事象を作家(人類)が言語ではない方法で未来の人類へと繋ぐ役割をしているというものです。自分がそんな大層な仕事ができているかといえばまだまだ修行が足りないのですが、制作を通して自分自身が見えてなかったものを発見し、今を再確認し未来へと繋いでゆく実感は少なからずともあります。
ちょっと湾曲してるかもしれませんが私が12年前から作り続けている目のモチーフがそれです。
2011年の東日本大震災
2011年の東日本大震災で人生の分岐点になった方はとても多かったのではないでしょうか?。自然災害は怒りをぶつける対象がどこにもなく、やるせない思いがぶつかり合っていた記憶が残っています。自然には絶対敵わない人間の微弱さが如実に見せつけられました。
その日私は東京の仕事場にいましたが、電話は通じず、そこにはテレビもまだ優秀なスマホもなく、馴染み始めたツイッターが唯一の情報源だったのを覚えています。やっとワンセグが繋がった仕事仲間の携帯電話の小さい画面から津波による被害を知ることができました。
神様はなにもしてくれない
津波の画像は想像を超えたものでした。当時を体験し、知っている方々にはここで説明する必要はありませんが、何度も繰り返し流れるニュース画像を見ながら私はこう思いました。「神様って何もしてくれないんだな。」
私はもともと無宗教です。特定の神の存在は今の所信じていません。
しかし宗教を信じる人間の信仰心、祈りに大変興味があります。神を素直に信じる心に憧れがあるのかもしれません。
自然災害だけではなく、人間同士の争いなど日々起きる問題を前に多種多様な神様達は今まで私たちに何をしてくれたでしょうか?
崩れた瓦礫が津波によって激しく流れぶつかる風景を高い所からぼんやりと眺めるだけの「いろいろな神様」を私は想像しました。
あの時、「神様」は何を考えていたのでしょう?
破壊と創造
そしてもう一つ。私はあの津波の瓦礫に美しさを感じてしまったのです。人間の醜いエゴも含めて全て洗い流し破壊し尽した自然が素晴らしく美しく見えました。破壊(過去)と創造(未来)はセットなのだと。それは私や私の愛する人達が無事だったからこそ感じた暴力的な発想かもしれません。しかしその感情を覆す事はできませんでした。
自分自身は無力であり、願い期待しても何も起こらない事実と同時に破壊を美しいを感じてしまった罪悪感に震災後は無力感が続きました。
当時の世の中は笑いや創造などご法度で、生きづらい日々でしたが、同年の6月に二人展を予定していた私は幸か不幸か制作をするしかありませんでした。自分がなぜ瓦礫の美しさに魅了され、何もしてくれない神に固執するのかを探るため、何もしてくれない神様をつくってみたいという気持ちが強くなりました。始めは答えなどありません。とにかくすぐにでも形にしたいという欲望が心から湧きました。
何もしてくれない神様をつくる
何もしてくない目をまず刺繍で作りました。ぼんやり眺めてるだけの目、慈悲深さや信頼のない無機質な目つきを心がけました。
そして津波の瓦礫は糸やリボン、布くずで表現し、タイトルExpectation(期待)としました。神はもしかすると何かしてくれているのかという期待と破壊から生まれる創造への期待という意味です。
そこから「何もしてくれない目(神様)」との制作が始まりました。
「何もしてくれない目」を継続して制作する事で未来への手がかりがあるかもしれないと願いながら。
展示をすると鑑賞者から様々な意見をいただきます。疑問から作られた作品が昇華される大事な対話です。
例えば神は存在自体が私たちが想像不可能な域にいるので何もしていないようにみえるという意見もありました。
なるほど。私のちいさい脳みそでは想像つかない存在なのかもしれない。
その目は誰の目だったか
最近はその目は私自身なのかもしれないと思い始めています。
(でもまだわからない)
「何もしてくれない目」はまさに何もしたがらない怠け者の自分なのでは?
いや、何もしていないわけじゃないよね自分?見て見ぬ振りとかしてるか?
作品とこんな感じでいつも対話しています。(恥ずかしいけど本当)
私自身を見つめる私。その目は冷たい視線から全体を見守る暖かい目に変わってきているようです。例えばブローチとして制作している「何もしてくれない目」は購入してくださった方々から第三の目としてお守りのような存在であると作り手にはうれしいお話をよく伺います。
作品は作り手から離れた所に答えがあるのだと心から思います。
このように私の場合は制作行為を最初から理解、計画通りに作っているわけではありません。表現欲求と疑問が自身を動かし、同じテーマにこだわり継続する。制作行為は己をそして世界を知るための糧探しなのです。それは一生模索中かもしれません。でもそれでもいいのかもしれない。
表現欲求とは人間として未知の世界を探求する心が止まらない証拠であり、それが「人間らしさ」なのかなと私は考えます。
芸術家は制作を通し未来へのexpectation(期待)をし続けているのです。
人類にとって良い歴史が刻まれるよう、これからも芸術家は言語のない表現を探求し続けるでしょう。素敵です。
私も前向きに期待しています!これからの未来を。
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