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京大・緊縛シンポの研究不正と学術的問題を告発します⑤出口康夫氏報告&座談トーク

さて、これまで縷々述べてきましたが、本記事では最後の報告、主催者である出口氏の報告内容と、「座談トーク」として設けられた議論の場を検討したいと思います。

出口氏の報告は、シンポの3報告の中で唯一、学術的な内容をもっていました。そのために、以下述べることは、私から出口報告への学術的批判であって、私の考えが一方的に正しいと主張したいわけではありません。先行研究を批判するようなものと理解していただきたいと思います。加えて、出口氏の報告は哲学の報告です。私の専門は歴史学ですので、これから行う批判は、哲学研究の視点から行ったものではありません。

しかし、本シンポは「アジア人文学」と銘打たれており、出口氏自身も、緊縛という、それまでの専門と異なる分野を論じているのですから、学際的な議論が前提とされているはずです。サドマゾヒズム・SM研究の立場からの批判は不当ではないと考えています。

さらに、出口氏の発表は、緊縛・SMという事象をとらえ損なったものであったと考えます。このことは学問分野を問わず、緊縛を研究する上で致命的なものであるようにも思えるのです。そして、そうであったからこそ、以下に示すような一部の緊縛・SMを切りすてるような議論が形成されたのだと考えます。

なお、下記では、出口氏の報告内容に触れる部分に関しては、氏の表現にならって、SMや「支配」と「従属」を用いていますが、先行研究に照らすと、一部これらの表現が適切でない部分があります。しかし、これに逐一修正や注釈を入れていくと、論旨がわき道にそれるとともに、長大になってしまうため、そのままにしています。

本記事で言いたいことは以下の4点です。

①出口氏の報告は、緊縛とSMとサドマゾヒズムを混同している上、ショーとしての緊縛とSMプレイとしての緊縛の区別もついておらず、概念が錯綜しすぎていて議論として成立していない。

②出口氏が、緊縛から「支配」と「従属」概念を抹消し、ノーマライズして緊縛を擁護しようとしたことは、逆説的に緊縛を否定し、スティグマ化することでもある。

③出口氏はこれまで、「アジア的自己」や「委譲」という、緊縛シンポで用いた概念を用いて多くの講演を行っている。緊縛をテーマとしないこれらの講演でも、同じ議論が展開されており、緊縛シンポでの報告も、自説を緊縛にあてはめたに過ぎないように見受けられる。自説の「アジア的自己」の有用性を示すために、緊縛が利用されたような状況であった。

④当日の「座談トーク」では、緊縛当事者ばかりが質疑に応答するよう促され、主催者である出口氏はなんら学術的質問に答えることをしなかった。Slidoというサービスを使ったため、会場からの批判的な質問や意見もほぼ無視され、学術としての双方向的な議論が成立しなかった


はじめに

まず、出口康夫氏報告「緊縛の哲学:アジア的自己の観点から」の内容を要約したいと思います。

本報告は、「なぜ、人は縛られると自由を感じるのか?」という問いをパラドクスとして立て、これを出口氏の自説である「アジア的自己」によって解明することで、SM/緊縛を擁護するという内容でした。まず出口氏は、社会心理学者・エーリッヒ・フロムが著書『自由からの逃走』(1941)において、「SM/緊縛批判」をしているとし、その論理を取り出し、フロムの批判の背景には、自律性(自己決定性)を「自己」の条件とする西洋独特の自己観・自由観があるとします。氏は、この自己決定性を重視する西洋的価値観を批判し、かわりに「アジア的自己」・「われわれとしての自己」という、老荘思想にみられる「脱規則性」を重視する自己観・自由観を対置させます。この自己観・自由観に基づくことで、縄師とモデルのあいだにあるとされがちな「支配」と「従属」の関係を、「委譲」と「受託」に読み替えました。

出口氏の主張は、欧米で長い蓄積のあるSM研究において共有されている基本的概念が踏まえられておらず、さらに、①緊縛、②SM、③サドマゾヒズム、④パフォーマンスとしてのショー緊縛の違いが無視されているために、順序だてて批判することが難しい、相互に矛盾した土台の上に各主張が成り立つ錯綜した議論になっています。そのため、まずは箇条書きで問題点を挙げた後、それぞれの問題点を行き来する形で述べたいと思います。

①緊縛、SM、サドマゾヒズムを同じものとして論じ、緊縛の多様な存在形態を考慮に入れていないこと。

②出口氏が着目した支配と従属関係は、欧米のSM研究における王道の論点で、先行研究が非常に多くあるにもかかわらず、ふまえられていなかったこと。

③出口氏は、支配と従属を「委譲」と「受託」に読み替えて緊縛をノーマライズしたが、支配と従属概念は欧米のSM愛好家が自らのセクシュアリティとして尊重してきたものである。緊縛をSMとほぼ同義の意味で使いながら、緊縛における支配と従属を安易に抹消し、異なる概念に言い換えたことは、一部の緊縛を擁護しながら、そうではない緊縛を否定することであること。

④報告でキイタームとして用いられた「われわれとしての自己」、「アジア的自己」、「委譲」と「受託」は、出口氏がかねてから繰り返し講演等で展開している概念。「緊縛」を別の人間関係や現象に置きかえても議論が成立し、緊縛の分析というより、緊縛を自説の有用性を示すために用いたのではないかと疑われること。

1.緊縛とSM、BDSM

さて、フロムの「SM/緊縛批判」という書き方からも読み取れるように、出口氏は当日、SMと緊縛をイコールのものとして議論を組み立てていました。

deguchi フロム

そして、緊縛を論ずる際に、ショーを行なったK氏とA氏に具体的に言及する形で、議論をすすめました。つまり、報告は、緊縛=SM=「支配」・「従属」関係=緊縛ショーにおけるK氏とA氏の関係という図式に基づき展開したわけです。

この図式は、出口氏が一般聴衆を考慮し、複雑な理論を単純化してわかりやすくしたことによるものだとも言えます。そして、このような単純化によって必然的にもとの理論との微細なズレが生まれることもあるように思われます。しかし、発表内容から、出口氏は理論を単純化しつつも、もともとの複雑な理論と整合性がとれなくならないようにする配慮をされているように思いました。したがって、以下に説明するように、出口氏の議論が、フロムの理論との整合性という意味ではなく、緊縛やSMとの整合性がとれなくなってしまったのは、出口氏が緊縛やSMを理解していなかったからだと考えています。

さらに、出口氏が批判したフロム『自由からの逃走』(以下、引用は1951年の日高六郎訳)には、SMと緊縛という言葉は用いられておらず、登場するのはサディズムとマゾヒズムです(以下サドマゾヒズム)。つまり出口氏は、SMと緊縛だけでなく、サドマゾヒズムも一続きのものとして論じていたということになります。しかし、サドマゾヒズムの理論は論者によって異なっていて、それぞれの論者のサドマゾヒズム理論はイコールのものとして論じられません。ましてや、現代の実践的なSMと(ある論者の)サドマゾヒズムも必ずしもイコールで語れるようなものではないということだけは、付け加えておきたいと思います。

まず、SMと緊縛は、同じとはとても言えない概念です。そして、当日出口氏はSMという語を「支配」と「従属」的な関係性を示すものとして用いていたのですが、このSMの用法も誤りです。出口氏が想定していると思われる、緊縛とSMの内容は、緊縛愛好者や欧米SM研究がこれまで用いてきた内容とかなり異なります。

欧米のSM研究が、これらの語をどのように用いているのかをまず説明します。欧米では、BDSMという言葉がよく用いられます。BDSMは、Bondage, Domination, Discipline, Sadism, Submission, Masochismという、日本でいうところのSM的な実践における重要ないくつかの概念の頭文字をとったものです。

日本ではSMといえばこれら全部に加えて、フェティシズム全般も指しますが、英語圏ではこれらは通常、とりわけ学術的にははっきりと区別されています。例えば、苦痛を与えたり与えられたりする関係であれば、加虐(Sadism)/ 被虐(Masochism)関係ということでS/m関係といいますが、必ずしも苦痛が生じるわけではない、命令されたり、強制されたりすることで支配されたり、支配したりする関係性ならD/s(Domination/ Submission)関係といったりします。

B・D・S・Mはもちろんそれぞれが排他的な分類ではなく、しばしば入り混じることは当然あり得ます。しかし原則的な概念の使い分けは必ずしも学問の世界だけではなく、当事者も行っており、かなり定着していると言えます。例えば、BDSM愛好者専用のSNSでは、S/m関係、D/s関係それぞれだけに特化したトークグループがあります。

出口氏が日本的な用法のSMを用いてるなら、それは「支配」と「従属」以外の多様な性的欲望を含む概念であり、誤用となります。欧米的な意味でSMと言っているなら、それはS/m関係を指し、これも誤用となります。「支配」と「従属」関係に着目したいなら、SMという語を用いないか、D/sといった別の概念を使う必要があったと思います。

さて、緊縛は、一般的にはB=Bondage(拘束)に分類されます。通常、Bondageを実践する者が、残りのD・S・Mをも愛好しているとは限りません。縄で縛られたい人が、苦痛を愛していたり、支配されたいと思っていたりするとは全く限らないし、縛りたい人が、モデルを苦しめたり、支配したりしたいと思っているとも限りません。シンポでは、風船やブランドバッグなど、人体以外を縛った緊縛が「アート」として紹介されており、これらを緊縛に含めるならば、これらはBですらなく、SMとの違いはより大きくなります。

このあたりをきちんと整理せずに議論を組み立てると、講演者と聞き手の間で全く別の分析対象が想定されるなどして、議論が錯綜します。例えば、今回のシンポで招かれ、ショーを行なったK氏とモデル女性のA氏は、シンポ内で、彼らがいわゆるSMプレイに興味がないということ、2人の関係は(日本的な意味での)SM的ではない=S/m関係でもD/s関係でもないということを何度も強調されていました。K氏・A氏が主張する緊縛における関係性は、出口氏の想定する関係性と大幅にずれていました

以上を踏まえた上で、次に、フロムが述べるサディズムとマゾヒズムがいかなるものかを確認しておきたいと思います。

2.フロムのサドマゾヒズム論

『自由からの逃走』のなかでフロムは、サディズム、マゾヒズム的性格について論じています。

フロムは、サディズム的傾向を、

①「他人を自己に依存させ…絶対的無限的な力をふるい…(相手を)完全に道具としてしまう」もの、②「他人を絶対的に支配しようとするだけではなく、(相手を)搾取し、利用し、ぬすみ、はらわたをぬきとり、いわばたべられるものはすべてたべようとする衝動からなりたっている」もの、③「他人を苦しめ、または苦しむのをみようとする願望」(翻訳, p.162)からなるものとして定義しています。

フロムはその具体的な例として妻に暴力をふるう男性をあげています。このようなサディズムは、緊縛愛好者を含め、世界のSM愛好者がBDSMのカテゴリーから取り除こうと運動してきたところの、理不尽な暴力とされてきたサディズムと極めて似ています。このような理論を何の保留もなく、現代のSM関係、ましてや自分たちはSM関係にはないと当事者たちが主張しているようなショー緊縛の分析に用いることには、飛躍があります。このことは、既存の欧米SM研究に関する無知を示すものと考えます。

私が『自由からの逃走』のなかでもこの部分を参照したのは、ここで論じられているサディズム、マゾヒズム的性格の議論の延長線上に「緊縛」を想起させる表現があったからです。

フロムは、この性格が肉体をつうじて現れたものが、「性的感情と結びついている」(翻訳, p.173)「性的倒錯」としてのサディズム、マゾヒズムであると論じています。「マゾヒズム的倒錯」を説明する際に、「肉体を縛られたり、助けて貰えない弱い状況におかれることによっておこる興奮や満足」という説明や、「綱や鎖でしばりつけ」(翻訳, p.166)るといった表現が見られたので、出口氏はこれを「緊縛」と読み替えたのではないかと思われたからです。

言葉の上では、「縛られ」る、「綱や鎖でしばりつけ」るといった表現があらわれますが、それが、当日上演された緊縛ショーと比較してよいものであるかははなはだ疑問です。研究において、当事者の主張をそのまま是とする必要は必ずしもないことは承知の上で申しますが、K氏・A氏は双方とも、プロのアーティストであり、もしお二方がフロム著書におけるこのような説明を知っていたら、この緊縛観には抵抗を示されたことでしょう。

また、A氏は当日、自身は縛られて性的快楽を感じることはない、と断言していましたが、この主張は上記で述べたB・D・S・Mという概念の区別、そしてK氏が近年展開してきた、脱性化されたインスタレーションとしての緊縛を踏まえれば、十分にあり得ることであり、否定する必要性を感じません。

このように、出口氏が報告で用いた緊縛、SM、サドマゾヒズム、K氏&A氏の関係は、そのままでは決して同一視できないものであり、それぞれが慎重に吟味されるべきものです。しかし、出口氏は当日何の保留ももうけず、ただちにK氏&A氏の関係に緊縛/SM批判の議論を応用しました。


3.緊縛の多様性

さらに出口氏は、SMと緊縛を同一視し、それらのすべてが支配と従属関係だととらえられてきたものだと思い込んでいるために、緊縛の多様な存在形態にも全く気付いていませんでした

緊縛とひとくちにいっても、たとえばシンポで行われたような、客の前で行うパフォーマンスとしての緊縛と、恋人同士がプライヴェートな空間で行う緊縛と、緊縛愛好サークルが主催する緊縛撮影会といったイベントで行われる緊縛と、SMクラブでプレイとして行われる緊縛等々では、それを楽しむ層も、緊縛の意味内容も全く異なります。

金銭の授受が伴うか、縛る者と縛られる者どちらが要望しての緊縛なのか、といった要素も当然考慮されなければいけません。

このことは、SM・緊縛愛好者にとっては常識であり、SMバーや緊縛サークルで、「初学者」に教える定番の知識です。出口氏がきちんとSMバーやサークルなどに出向いて、当事者の話を真摯にきいていたなら、少なくともショー緊縛と、SMプレイとしての緊縛の違い、その緊縛がSM要素をはらむものであるかどうかについてはすぐに理解できたはずです。

このように、出口氏は、緊縛の実態を全く踏まえず、欧米のSM研究を踏まえることもなく、自身の知っている哲学議論の枠にとらわれずに当事者から真剣に話をきくということもおそらくせず、出口氏の想像上のSM・緊縛について、フロムの理論に当てはめながら自説を開陳しただけと私には思えました。


4.ノーマライズという暴力


次に指摘することは、出口氏報告に対して私が感じた最大の問題点です。

出口氏は、緊縛文化のなかで重要な、「支配」という概念を安易に抹消し、縛ること、縛られることを、「委譲」と「受託」としてノーマライズしました。「異常」な営みではなく、「正常」なことと位置づけなおしたわけです。

これは緊縛擁護のためになされたわけですが、これは逆に言えば、「支配」概念を除去できない緊縛、つまり、「支配」と「従属」こそを求めて緊縛を愛好する人びとを切りすて、スティグマ化するものです。

既にのべたように、欧米のSM研究、SM愛好者たちは、BDSMという概念を用いており、その中には「支配」と「従属」概念が含まれます。両概念は、欧米でも批判されがちな概念ではあるものの、近年は少し様子が変わってきています。BDSMの実践では、現に「支配」と「従属」こそが欲望される事態があることを認め、当事者のその欲望自体は尊重した上での研究が増えているのです。

出口氏はおそらく、欧米のSM研究を調べればすぐにたどり着くBDSM概念と、この研究動向を知らなかったのではないでしょうか。それもあって、こんなに簡単に「支配」概念を消去できるのだと思います。現在、もしご存知のうえでこの主張を何の保留もなく続けておられるのでしたら、それはそれで先行研究の無吟味だと思います。

さて、それ以上に問題なのが、ノーマライゼーションが生む「切りすて」です。出口氏が行なったノーマライズは、同性愛者を、「単に好きになる相手が同性なだけのふつうの人」としてノーマライズする言説に似ています。これは同性愛者を、マジョリティである異性愛者に理解しやすくし、異性愛秩序のなかに取り込んでしまうもので、一見寛容なように見えて、両者の差異、同性愛者固有の文化や価値観を不可視化するなど、ある種暴力的に機能するという指摘があります。そして、あるマイノリティを「私たちと変わりないもの」であると認定して、だからこそ「異常」ではない、と位置づける行為には、必ずマジョリティ側の恣意的な線引きが伴い、「異常」とされて取り残される人々がいるものです。

出口氏は、アジア的自己、われわれとしての自己を用いてフロムの緊縛/SM批判を克服しようとしましたが、「支配」と「従属」関係を悪しきものとして、承服しがたいと考えているのは出口氏も同じであり、フロムと同じ地平に立っているのです。


5.「アジア的自己」/「われわれとしての自己」について

出口氏が、これほどまで緊縛やSM(研究)について無知・無配慮でありながら、報告を行ない得た理由のひとつが、シンポ報告は、フロムの議論以降は、氏が以前から主張している学説を緊縛に応用しただけで、実際は緊縛の分析でもなんでもなかった、という点にあると考えられます。

フロムの議論がここまで不自然に展開されたのは、緊縛を哲学の枠にとらわれずに検討することを怠ったのみならず、緊縛の議論をこの学説に結び付けることが前提とされていたからとも言えるかもしれません。

以下は、出口氏の当日のスライドですが、東アジア的「真の自己」の説明の下に、オンライン講義シリーズ「立ち止まって、考える」へのURLが記載されています(赤囲いは河原による)。

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この講義内容は下記のようなもので、緊縛シンポで語られた「アジア的自己」・「われわれとしての自己」の元ネタに当たる内容です。

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出口氏はその他にも同じような講演・講義を行っており、ネットで参照できるものとしては「わたし」としてではなく「われわれ」として生きていく」
と題されたインタビューがあります。こちらでも「アジア的自己」について語っています。これも、緊縛シンポで語られた「われわれとしての自己」、「アジア的自己」と同じ内容です。

出口氏が縄師と緊縛モデルとの関係を分析する際に持ち出した「委譲」と「受託」も、元ネタの講義でキィタームとして語られます。つまり、出口氏が緊縛の分析で用いた、報告において最も重要な概念たちがすべて出そろっているわけです。

もちろん私は、既発表の内容を分析に盛り込んではいけないと言っているわけではありません。しかし、すでに見たように、出口氏は緊縛およびSMに関する先行研究を参照している形跡が見られず、自身の知っている哲学議論の枠にとらわれずに当事者を主体としたうえで当事者から真剣に話を聴く、ということもおそらくしていません。
ということは、出口氏は、緊縛研究をするにあたって、緊縛を通じて自説をアップデートしたというよりも、自説を緊縛の分析に転用したに過ぎないのではないでしょうか。出口氏の報告は、「緊縛」を別の人間関係や現象に置き換えても成立する話でした。緊縛について勉強したり考えたりせずともできる内容だったために、彼の想像上の緊縛やSMについて論じることで事足りたのでしょう。

6.会場からの議論の封殺について

最後に、座談トークと題されたシンポ最後の討論の場について述べます。
Smart Flashの記事には、「会場は、すごくポジティブな雰囲気でした」というK氏の証言が掲載されていますが、私は疑問に思います。少なくとも私は当日、青くなったり赤くなったり怒りで全身が震えたりしておりましたし、同行した研究者の友人も激怒していました。なぜこのような「ポジティブな雰囲気」だと受け取られたかというと、シンポでは、会場からの批判的意見が事実上封殺されていたからです。

シンポでは、会場からの意見・質問は、Slidoというオンラインサービスを用いて集められました。最後に設けられた座談トークの際に返答するということでしたので、私は、これまでnoteで指摘してきた学術的問題点のいくつかをSlidoに書き込みました。

しかし、座談トークが始まると、まず出口氏はSlidoに寄せられた質問に目を通していないと発言しました(動画3:16:35あたり)。座談トークは、出口氏が質問に目を通さない状態でしばらく進められました

トークが始まった際、緊縛ショーにおけるジェンダー非対称性の問題=縛られる側が圧倒的に若い女性である場合が多いことについての会場からの質問が取り上げられました(これは当日きちんと取り上げられたほぼ唯一の学術的質問でした)。しかし、質問文は司会者に読み上げられるのではなく、出口氏が質問内容を引き受けて問い直す形で、トークが進みました。先に述べたように、出口氏はこの時まだ質問文に目を通していませんでしたので、これによって、もとの質問が持っていた視角が微妙に歪んでしまったと思います。そして出口氏に送った批判メールで指摘した通り、この質問にも研究者がきちんとフォローすることはありませんでした。

座談トーク時間が半分ほど過ぎたところで、スタッフが会場にSlidoの画面をプロジェクターで投影して、出口氏を含めて全員に質問内容が共有されましたが、残り時間が少ないという理由で、回答される質問は絞られました。会場からの質問への応答に割り当てられた時間は短かったと感じました。聴衆との議論を二の次にするかのような態度は、不誠実に思われました。

さらに、この時回答された質問は、京都新聞の記事でも取り上げられていますが、「京大でこのような内容のシンポを開催するにあたって苦労はなかったか」といったもので、残り時間が少ない中で、取り上げる必要がある質問だったのか疑問に思いました。なお、出口氏はこの質問について「グッドクエスチョン」と述べ、「いやぁ~実は微妙だったんですよ~」と嬉しそうに答えていました。

その他の質問もまた、多くの回答がK氏さんやA氏、F氏に回されました。研究者が回答すべきだと思われる質問もです。このような態度は、研究者へ向けられた質問に誠実に答えることをせず、緊縛当事者側に、本来回答する義務のない問題について無理やり話させている、といわれても仕方がないように思われました。

研究者が答えた質問として、「アートの定義をどう考えればいいのでしょうか?言ったもの勝ちのように見えてしまうのは、知識がないからでしょうか」という質問に対して、吉岡氏が応答したものがあります。この質問は、「アート」としての緊縛を上位に置きがちな本シンポで重要な論点になり得る質問だったと思いますが、吉岡氏の「そうですよ。(いったもん勝ちの意味)」という返答に、登壇者から笑いが起き、あたかもジョークのように流されてしまいました。私の質問を含め、学術的に複雑な質問は、ほとんど読み飛ばされていました。

このような現象が生まれたのは、出口氏が自ら緊縛を検討してこなかったため、これらの質問に自ら答える準備がなく、それゆえ緊縛について知っていると思われる当事者に話をふったからではないでしょうか。だからこそ、出口氏が答えられた質問は、「シンポ開催の苦労」話だけだったのではないでしょうか。

飛び入りで参加した田中雅一氏(緊縛の論文を書かれている)が、時おりSM研究を踏まえた学術的な補足を挟んでいましたが、シンポのプログラムに名前を連ねた研究者たちがこれに反応することはありませんでした。田中氏がレズビアンSMの議論に触れた際の無反応ぶりから、カリフィアなどの、邦訳のある超有名SM文献も参照していないのではないかという危惧を抱きました。もしそうだとしたら、それはあまりにも不勉強に過ぎると言えます。

田中氏は、概して出口氏らの無理解を修正・補足しようとされていたように思いますが、田中氏の発言を受けての応答が研究者サイドからほぼなかったために、あまりうまくいったとは言えません。

このように、緊縛シンポは、座談トークにおいてメイン登壇者である研究者が学術的議論を展開するわけでもなく、会場からの批判も事実上封殺された状態で終わりました。プログラムでは、座談トークの参加者にシンポ登壇者4人と、縄師K氏に加えて「あなた」という文言が加わっていたこと、冒頭の趣旨説明でも、会場からの質問は座談トークで回答するとの説明があったことから、もっと議論に参加でき、質問にも回答してもらえると思っていました。
(なお、座談トークでも登壇されていた緊縛モデルのA氏の名前がポスターのトーク参加者一覧にないことが気になっています。主催者側は、縄師とモデルは対等だという議論を展開しつつも、モデルの方の名前だけをうっかり掲載し忘れてしまった、ということなのでしょうか)。


京都新聞の取材記事で、出口氏は「シンポはあくまでトライアルであり試行だ。開催することによって批判も含めた様々な意見が来る。それを踏まえてさらに議論を深めていくのが研究だ」と述べています。出口氏のこの見解に基づくならば、会場からの批判に興味も抱かず、誠実に答えもしなかった緊縛シンポのやり方は研究ではなかったということになるでしょう。

さいごに:「緊縛」の否定

出口氏は、座談トークで質問を他者にまわすのみで、ほとんど見解を述べませんでしたが、唯一最後に述べた意見があります。

それは「緊縛」という名前を変更した方がよいのではないか、「結解」(ゆいかい/けっかい)という呼称はどうか、というものです。

その理由として、出口氏は、「もしかしたら結ぶよりも解くほうが、より重要な感じがした」として、「結解」は「緊縛」よりも「緊縛のダイナミズムをあらわせる」として、縛るプロセスおよび完成形よりも、ほどくプロセスのほう緊縛にとってより重要なのではないか、と述べました。この発言から、この提案には、「結ぶ」よりも「解く」に重心が置かれており、「緊解」や「縛解」ではすわりが悪いので「結解」としたのではいかと思われます。「解く」は、出口氏の報告内で重視されていた「自由」の概念と重なり、出口氏が報告で行った緊縛に対する理解を踏まえれば、確かに「結解」という発想はあり得るのでしょう。

この発言に私は個人的にかなりの衝撃を受けました。それは、K氏の緊縛ショースタイルから、万人が受けるであろうと私が勝手に思った印象と真逆だったからです。以下は、私の主観に基づくもので、学問的批判でもなんでもない感想ですが、書いておきたいと思います。

ほかの縄師と比して、Kさんの縛りはペースがそれほど早いとはいえません(緊縛のスピードは東西で差があると言われており、西のほうが早い。Kさんは東で活動している人)。
そして、京大で行われたショーでは、Kさんはとりわけゆっくりと丁寧に、縄の位置やモデルの衣装を調整し、最も美しく見えるポジションを創り上げようと気を配っていました。これはすべての縄師がすることではなく、Kさんの個性だと思います。明らかにKさんは、縛り終えたその姿を美の頂点としてみせようとしていたと思います。
そういったしぐさを同じようにみていて、なぜ「解くほうが重要」といった発想が出て来るのか、理解できませんでした。もちろん、ショーの解釈は千差万別で、正解があるわけではありませんが。

以上の感想はあくまで一参加者の主観的意見であり、押し付けようとは思いませんが、私自身はこのように感じました。

出口氏は、ほとんど緊縛ショーを見たことがなく、K氏の気の配り方が特別な配慮だと気づくことができなかったのかなと思います。K氏のショーにはあるが、すべての緊縛ショーにあるとは言えない要素も緊縛ショーの特徴として扱ったりしていたからです。
緊縛は、田中雅一氏の研究にあるように、現在Kinbaku, Shibariとして世界で通用する言葉となっています。この普及の背景には、日本で緊縛を学んだ外国人縄師の活動など、様々な歴史の積み重ねがあります。

緊縛から「結解」へという、このような言い換えの発想は、差別的なニュアンスを含むとして「性的マイノリティ」という言葉を使用しない方針を決めた京都府亀岡市の態度に通ずるものであると思います。亀岡市では「レインボー」などの用語が代替として提案されているそうですが、このような言い換えが、実際の差別や偏見をなくすどころか、逆に不可視化し助長する危険があることはつとに指摘されるところです。非常に安易な発想です。

緊縛を愛好・実践する人びとには、「結ぶ」からイメージされる他者とのつながりよりも、拘束こそを望む人々がたくさんいます。マミフィケーションと呼ばれるミイラ状態の緊縛などは、むしろ外界と自身を切断することに快楽があるとも考えられます。

このような言い換えの提案は、こういった緊縛愛好者の存在を尊重せず、結局のところ緊縛文化を強烈に否定するものであって、出口氏の緊縛への無意識の軽視・偏見を示すもののように思いました。

以上、5の記事にわたり、緊縛シンポの学術的問題点について述べてきました。次の記事で、緊縛シンポへの批判を総括して終わりたいと思います。

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