済んでみれば
人間はちょっとしたことに悲しみ、ちょっとしたことに喜ぶものであるから、ちょっとしたことを注意せねばならぬ。自分の過去をふり返ってみても、何かにつけて「アアもうダメだ」と思ったことが何度あったか知れない。しかも無事に今日にいたっておるから世話はない。その時は「どうしたものか」と思いわずらったことも、すんで、あとから考えれば、「なんだ、あれくらいのことを心配するにおよばなかった」と思いがちのものである。
われわれは、も少し度量を広くして、草紙に手習いするくらいなつもりで、ドシドシ人生を突貫すべきである。
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次第々々に、思い違いをしていたということが分かってくる。今の考えも、きっと、つまらぬことに違いない。
神の目からは、人間の思想なんて、ノミの屁くらいなものであろう。
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美醜善悪そのすべてを、自分は、そのまま受け入れることはできるが、しかし自分は、あくまで善に進み、美を好む。
尻の穴の存在を否定は決してせぬ。いな、その存在の意味を諒解しているけれども、断じて、尻の穴を美しいとも結構だとも、また、口と並べてもかまわぬものだとも思わぬ。
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すでに人間は相対に置かれたものである。ゆえに、絶対を考えることはできぬ。絶対を論じてみても無駄だ。
空を論じ、虚無を思うてみても何にもならぬ。われらは、その日その日を幸福におくってゆく工夫さえしたらよいのだ。
『信仰覚書』第二巻、済んでみれば、出口日出麿著