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怖いと思うのは、怖いと思っているものをよく見ようとしないからだ

昔書き殴ってた記事が埃を被って出てきたのでアップしてみやす。

以下、本編。

3月3日の雛祭りを過ぎて、片付けられるのを忘れられた、ささやかな雛人形が我が家の寝室に鎮座している。

もはや埃を被り始めそうな雛人形の存在に対して、4歳の娘はなぜか、お化けでも見るような恐怖を訴え始めた。

アニメ鬼太郎に、妖怪として雛人形が出てきたらしい。

それまでは、喜び勇んで飾られた“彼ら・彼女ら”を眺めていたが、アニメを契機に雛人形が怖くなったようで、泣きべそをかきながら「怖い。早く片付けて」ときた。

種類が違えど人が抱く“怖い”という感情は何歳になっても内在する。

己が持つ所有物を失う恐れ、突然の環境変化(大災害や不慮の事故)に出くわす恐れ、位置(社会的なポジション)を失う恐れ、大事な人を失う恐れ、その他自分の存在を脅かすモノ全てに人は“恐怖”の念を抱く。

自分という内向きなベクトルが向けられる感情だ。

“(今まで見たことがない)怖そうなもの”という対象へも恐怖を抱く。

養老孟司さんが著書で“死体”について語っていた。

仕事柄、彼は死体をよくみる機会が多いのだが、死体というパブリックイメージ(と言って良いのかわからないけど)はよく“怖いもの”として語られがちである。

本来、死とは自然現象であり、日常生活に起こりうる“当たり前”の現象だ。

バッタバッタと人が死ぬ戦国時代や世界対戦、医療が発達していなかった時代などは、今より当たり前に死が身近な出来事だった。

物理的に死体を目にする頻度が断然に多かったに違いない。

対して、ホラー映画などで表現される死や死体はわざと“怖いもの”として誇張されているらしい。

本当の死(死体)というのは自然なもので、良く見れば怖くない、みたいなことが著書には書かれていた。

そんなこと言ったって、怖いものは怖いんだけど、何でもかんでも怯えてばかりいちゃ人生楽しく生きていけないね。

娘にも処世術として、今のうちから色々と教えてやらにゃいかん。


「怖い時は、こういう風にすると良いよ」と偉そうに父親の威厳を光らせながら娘にこう言ってみた。


「怖いと思ったら、怖いものをジーっと見てごらん、怖くなくなるから」


(となりのトトロのお父さん役、糸井重里さんあたりの声を想像するとイイ感じに聞こえるかも)


そう言って二人で一緒にお雛様やお内裏様の顔をジーッと眺めた。


怖くなくなった、って。


パパは、いくらジーっと見たって、趣味に使った支払い請求書が怖いぜ。

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