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どうして魔法使いはシンデレラに0時の鐘が鳴ると魔法が解けるようにしたのだろうか

童話や寓話っていうのは、教訓めいたゴールを導くことが目的だったりするのか、やや設定が強引だったり、よく考えるとツッコミどころ満載というか、ストーリーのディテール(もしくは骨組み自体)に亀裂が生じている場合がある。

無邪気な子どもの頃は母親が読み聞かせする王道中の王道の物語達に対して、なんの疑いもなく聞き入り、眠りに入っていたものだが、大人になって汚らわしくなってくると、「なんでそうなのか」と考えなくても良い余計な粗探しを始める。

子どもに読み聞かせする立場になった私だが、ことごとく外国の童話に出てくる“お父さん”が不甲斐ないことに気付く。

ことごとく女を見る目がない。んである。

継母(ままはは)という悪女ジャンルを作り出したのは、言うまでもなくお父さんの人間を見る目のなさだ。

ヘンゼルとグレーテルしかり、白雪姫しかり、シンデレラしかり。

ヤツら(継母)は、きっかりと主人公である子どもたちを殺しにかかる。

何百年前の物語かわからないけど、ストーリーの組み立てとして、そういう“流行り”みたいなのがあったのだろうか。

ヘンゼルとグレーテルの父親にいたっては、実の子どもを森の中に置き去りにするという継母の計画に2回も手伝っている。

ヘンゼル達の知恵や活躍に感動するより、父親の不甲斐なさに怒りが込み上げてくるほどだ。

父親がしっかりしていれば、童話の6割くらいは(主人公が被る災難が)なくてよかったのではないだろうか。

さて、シンデレラである。

彼女の父親もポンコツ野郎で、意地汚い、底意地の悪い継母と再婚する。

オマケに、継母の底意地の悪さをキッチリ受け継いだ強烈な連れ子付きだ。

挙げ句の果てに父親はパッタリ逝ってしまい、シンデレラを一人残し不幸を背負わせまくりやがる。

本当に不甲斐ない父親だと思うのだが、このお話の不思議な点は、突如現れる魔法使いのおばさんにある。

魔法使いは、不幸を背負いまくったシンデレラに慈悲を与える“イイ役”なのだが、ふと考えた。

なんで0時の鐘が鳴ると解けるような半端な魔法をかけたのだろうか?


なぜ無条件の慈悲ではないのか。

ここからは私の推測だ。

多分、コレは作者自身の社会的な良し悪し(普通はこうだよねー、という常識みたいなもの)が入っていると思う。

現代風に意訳するとこうだ。

0時に魔法が解ける=終電に間に合わない。

終電に間に合わない=お泊り

すなわち、一線を越した男女の関係になることを意味する(お持ち帰り的な)

作者が考えている守らなければいけない社会的な規律の中身は“男女の性はそうあってはならない”なのである。

そして物語のキーアイテム“ガラスの靴”だ。

ガラスの靴は壊れたら元どおりにできない。すなわち、世界に一つだけの希少性の高いものだ。

女性が有する(あくまで男性から見た)人生に一回こっきりの希少性の高いもの。

おわかりだと察します。

明らかにガラスの靴は“処女”を象徴している。

魔法使いのおばさんは、シンデレラに“華(チャンスと言っても良い)を持たせてあげるけど、純潔は保ちなさいね”という、トレードオフを突きつけたのではないか。

ガラスの靴という(文字通り)足かせを履かせて。

魔法使いのおばさんの行為は、作者の社会的観念を投影している。

だから幸せになれるんだよ、みたいな。

考察の結果、シンデレラの作者は執筆時点で童貞、という推測に落ち着きました。


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