木彫りの猫製作プロジェクト③-4(研究・セカイネコ)
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前回のあらすじ
〜猫🐈ちゃん💭とは〜
猫ちゃんは人間と暮らす家畜でありながら、長らく猫本来の習性をそのまま活かした鼠捕りの役目を担ってきたことから、どこか野性的なくせを残している、そんな特徴を持つ動物でありました。
その野性みは、猫ちゃんが訪れる人間の生活空間と対照的に意味づけられ、猫ちゃんは人間にとって野性の象徴と成りました。
すなわち、人間社会と自然界を行き来し人間の生活に紛れ込む……そんな放浪する野性が猫ちゃんなのです。
また、それと同時に猫ちゃんは略奪者としての性質も見出されていました。
ヨーロッパでは猫の語源が泥棒に辿れることが挙げられます。
加えて、日本の地域の俗信において、よく猫は招くと言われますが、何かを招くことは何かを奪うことと同義であり、また、長く生きた猫は人間の魂を奪うと言われていました。
よって、放浪する野生たる猫ちゃんの本質は、盗賊なのです。
……という結論を出した所から今回に続きます。
前回は俗信というか、地域の伝承ベースで猫ちゃんの本質を見ていましたが、今回はそこからほんのちょびっと趣向を変えて、神話に表される猫ちゃんとその本質について調べていこうと思います。
ということでセカイネコ。
タイトルにつられてカタカナにしましたが、漢字で書くと「世界猫」です。
(造語なので語感だけで成立してる感が否めず、綺麗な日本語ではないので許せないですが、諸事情あってしかたなくこれで行きます。)
世界を形づくり、また、支えているような樹が世界樹と呼ばれるものです。
その猫バージョンが世界猫です。
1.世界樹の話
世界猫の詳しい説明の前に、世界猫より一般的な世界樹のほうについて、参考までにふれておきます。
猫の話からちょっと脱線します。🌳
世界樹については、有名なもので例えれば、北欧神話で言うところのユグドラシルでしょうか。
ユグドラシルは世界の中心に生えていて世界を支えており、根元のほうは冥界に通じている木です。
下図に描かれているものです。
(三中信宏・杉山久仁彦『系統樹曼荼羅』NTT出版,2012年11月 の挿絵より)
インド仏教の須弥山(しゅみせん)も、存在感はユグドラシルと似てます。こっちは、世界の中心にある「山」です。一説によれば木ですが。
また、木といえばキリスト教の聖書のひとつ、創世記にも「生命の樹」というものが出てきます。
生命の樹とは、一般にはエデンの園の中央に生えている木で、アダムとイヴが食べてしまったあの知恵の実が成る木です。
ただ、この木のことを世界樹と呼べるのかは限定されるところかなと思います。
創世記の冒頭は『はじめに、神は天と地をつくった。』ですから、ここで表されるキリスト教世界は、単純に読んだ限りでは、樹により形づくられた世界、あるいは樹を中心として表された世界ではないんですね。
ちなみに神は次に光を、その次は天蓋を作られます。そのあと、水を集めて陸と海を作って、草木はその後です。
下図は世界創造の最後、アダムの創造のシーンです。
キリスト教世界の始まりは、こういう風景が想像されていたのですね。
(秦剛平訳『七十人訳ギリシア語聖書』講談社,2017年12月の挿絵より)
しかし一方で、上記のような一般的なキリスト教とは少し世界観が異なりますが、ユダヤ教の神秘主義の一派であるカバラ思想では、生命の樹(セフィロトの木)は、宇宙から人体、そして精神世界から物質世界を表すことができるものとして表されます。
ですので、北欧のユグドラシルとは毛色がちょっと違いますが、この場合、生命の樹も世界樹と言って差し支えないのかなと思ったり。
1625年にPhilippe d'Aquin(フィリップ・ダクィン)が描いた生命の樹(セフィロトの木)が下図です。
しいて言うなら真ん中のやつがそれです。
(三中信宏・杉山久仁彦『系統樹曼荼羅』NTT出版,2012年11月 の挿絵より)
もはや木か……?って感じですが、木です。世界樹です。
とても面白い形をしています。
くまなく調べたい。
以上が世界樹についての軽い説明ですが、それをふまえて次の引用を読んでください。
世界樹というものがあれば、世界山もある。国全体を背中に乗せた巨大魚もある。であれば世界鳥もいるのである。(中略)
ただしそれは実際に世界をおおう巨鳥である必要は無い。神話は象徴の世界である。指一本くらいの大きさのハチドリでも、世界中に届く光を発する鳥であれば世界鳥だ。
(篠田知和基『世界鳥類神話』八坂書房,2017年6月)
これ、近くにおったらめちゃめちゃまぶしい鳥や……。
それはともかく、神話上の世界規模の存在なんやったら世界〇〇って呼んだらええんやなと私が強引に理解したのがこの本を読んだ時でした。
そうして作り出されたのが世界猫という概念であり、造語なのです。
お分かり頂けただろうか……。
ちなみにですが、我らがアジア圏文化の代表、中国大陸の神話では世界創造は次のように表されます。
未だ天地あらざりしとき、混沌として鷄子(たまご)の如く、溟滓として始めて牙(きざ)し、濛鴻として慈萌す。
『三五暦記』250年頃
古代中国の世界はなんとたまごなんですねえ。
ニワトリのたまごです。
日本はというと、
古(いにし)へ、天地未だ別れず、陰陽の分れざりし時、渾沌たること鷄子の如く、溟滓(くぐも)りて牙(きざし)を含めりき。その清陽なるもの薄靡きて天と為り、重濁れるもの、淹滞(とどこお)りて地となるに及びて、
(中略)
『日本書紀』720年
……うん、やっぱりたまごですね!
中国と日本はニワトリの卵の世界なのです。
世界樹ならぬ世界卵。
神話世界にも色々あるんですね。
ということで、めちゃくちゃ脱線しましたが、やっとここから猫についての話です。
2.世界猫
何よりもエジプト神話です。
エジプトにはラーという太陽神がおりますが、一般にその象徴とされる姿が猫なのです。
古代エジプトにおいて、邪悪の象徴が蛇であるのに対し、善にして聖なる象徴が猫でありました。
「太陽の猫」と「闇の蛇」の闘いは、アーネスト・ウォリス・バッジが翻訳したネブセニのパピルスの文章に鮮やかに描かれている。そこにはラー自身の言葉がある。
「私はアニのワニナシの木のそばで戦った猫であり、その夜、ネブ・エル・チェルの天敵は滅ぼされた」
(M・オールドフィールド・ハウイ著、鏡リュウジ訳『猫と魔術と神話事典』柏書房,2010年4月)
ここのネブ・エル・チェルというのは、冥界の神であるオシリスのことです。
上記、エジプトの猫と蛇の話なのですが、なんとなく沖縄のハブとマングースの関係が連想されます……。
下図は古代エジプト神話の中で蛇(邪悪なもの)とたたかう猫(太陽神)の図です。
(M・オールドフィールド・ハウイ著、鏡リュウジ訳『猫と魔術と神話事典』柏書房,2010年4月 の挿絵より)
うちの猫に模様が似てる。
次に、ここですごく面白い所は、猫と蛇が同一視される場合があることです。
なぜなら神は全であるからして、善も悪も包含して当然なのです。
したがって、善の象徴としての猫と、邪悪の蛇とが表裏一体として神話に出てくることがある、ということです。
ここで比較のために、北欧神話をとりあげてみよう。巨人族の国ヨトゥンヘイムを訪れた雷神トールが、巨人の王ウトガルド・ロキにかつがれた物語である。
ウトガルド・ロキは、子どもたちの飼い猫を地面から持ち上げるようトールに命じる。だがトールがいくらがんばっても、猫の足を1本持ち上げるのがやっとだった。のちにウトガルド・ロキは、「実はその猫の正体は、巨人界ミッドガルドに棲む、地上を包囲できるほどの大蛇なのだ」と打ち明けた。
猫と蛇は、同じ寓意に登場する2つの形にすぎない。どちらも「神は万物」という真実を表しているのだ。(中略)
神話の世界では、丸くなった猫(あるいはとぐろを巻く蛇)というシンボルの根底にある思想が重視され、強調されている。悪の本質は善から生まれ、善の本質は悪から生まれる。醜は美から生まれ、美は醜から生まれるのである。
(M・オールドフィールド・ハウイ著、鏡リュウジ訳『猫と魔術と神話事典』柏書房,2010年4月)
また、蛇と猫に絡む話では、猫のしっぽが関わってきます。
日本でも、猫の尾を切る風習があった。それには二つの理由があったらしい。一つは長い尾をうねらせると蛇のようで気味が悪いということであった。(中略)
もう一つは、猫は年とると尾が二股にさけ、化けると思われていたことで、禍を未然に防ぐために若いうちに尾を切り取ってしまったのであろう。
(平岩米吉『哺乳類動物学雑誌』1969年)
しっぽ自体、人間には無いものですから、日本の地域においては、人間に理解できないような怪異の根源がしっぽであると考えられていた節があるようです。
狐、たぬき、かわうそ、そして猫など、日本で殊に化けると目されていた食肉獣の見事な尻尾が怪異の業と関係があることは古くから考えられていたらしく、狐が尾の先に狐火をかがるなどはすでに平安末期の『高山寺絵巻』の時代から知られ、鎌倉期こ『古今著聞集』にはちぎれた狐の尻尾の霊験を説く説話があります。
(大木卓『猫の民俗学』田畑書店,1975年7月)
猫ちゃんはそのしっぽで蛇のような邪悪さを暗示しつつも、太陽神のように聖なるものとして象徴されたりするのでした。
ちなみに、キリスト教と猫は、あまり深い絡みは見当たらないです。
せいぜい、キリストが生まれたとされる洞窟に猫もいたとかそんな逸話がある程度。
なお、前回、猫の略奪者としての面を説明しましたが、キリストと関連が見られるのはその盗賊の方であります。
ちなみに盗賊は、イエスが磔刑に処され、キリストとして復活する場面で出てきます。
十字架は元来ユダヤの刑罰ではない。街道の追い剥ぎ、強盗、山賊、奴隷、ローマ人が剣による死の名誉を与える必要を認めなかった汚穢の者に対するローマの刑罰であった。
正午、歩兵隊は、その日処刑するはずの二人の盗賊とともに、イエスを曳いてゴルゴダの丘へむかった。
(神山圭介『盗賊論』白順社,2004年8月)
聖なるものと穢なるものを繋ぐものが処刑具たる十字架であるとは、なんとも素敵な場面ですね。
3.猫の物語まとめ
猫ちゃんについて、前回と合わせてわかったことは、野性的な放浪者としての面、略奪者としての性質、そして善悪併せ持った表象としての姿があるということ。
人間に寄り添いながらも野性を保つ、そんな二面性がある家畜ならではのいろんな見方があるということですね。
つまり、猫ちゃんとは……、しっぽが怪異の力をもった世界を取り巻く邪悪な蛇でできていて、よく招いてよく奪う盗賊の末裔にして、太陽を司る神である絶対的善にして、放浪する野性……。
今回は、そんな木彫りの猫ちゃんを作るということですね。
合成獣(キメラ)みたいになりそう。
(ただ、もうちょっとまだ猫ちゃんについて調べたいことがあるので、もう1回、猫の記事を書く予定です。)
今日はここまで!📕🐈
次回に続く。
次回 2021年6月
木彫りの猫製作プロジェクト③-5
(研究・ネコと××)
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